蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

だらだら愚痴ったけど、ハッピーエンディング

2019-08-24 | 日々のこと
わたしは、もうあかん、、、と思う。
たぶん、30年ぐらいまだ心臓は動くと予想するが、脳が、もうあかん。

ずいぶん、はやい店じまいである。
もう終わりかな、あとは、ただ、ぼんやり毎日、つつがなく、何も変化がないことを安堵し、それを喜びとするだろう。

実家を一つ一つ終い、あとは、元々のところ(企業で言えば発祥の地に本社)があるのみ。
実母は生きているだけ。姑も然り。
魂のない、抜け殻、しわしわ風船みたいだ。
(意外にこの風船、パーンと破裂どころか、張力を失い萎んでも、外側のゴムは厚くしっかり)
わたしも早々にその仲間に入りたがっている。

しかし、そういう文章って、読む人は不快だろう。
元気を吸い取られるような、見る見るうちに萎んでいくような、そんな内容のブログは、はた迷惑だ。
萎えたくて読む人、いる?

マイナスの感情は、公衆トイレにでも書き殴る?
しかし、「落書きは犯罪です。見つけ次第、警察に届け出ます」と最寄り私鉄駅の綺麗なトイレに書いてあった。
犯罪はよくない。
いかなる時も認められない。
日本も未来永劫続く治安の良さをキープしてほしいものだ。

エンディングノートの勧めをNHK、Eテレ番組「人生レシピ」で昨夜やっていた。
わたしは、すでにその境地。
ノートに書くまでもなく、毎日、(エンディングに向かって)楽しんでいる。
ただ、番組で紹介されていた賢い方々のように継承すべき立派な申し送り事項などない。
じつは、継承事項は、姑から伝え聞き、いっぱいあるのだが、めんどくさくなっている。
継承させられる人の身になってしまう。
もういいんじゃない?
うんざりしてきて、うっぷ、となる。
それが伝統?誇り?

そう思うんなら、思う人がやればいい。
誇りには中身が必要。
自分ではない人が支えてきて、自分は、ちょこんとそれにのっかり、オペレートもしないで、誇りだけ維持しようなんて、甘すぎ。
立派な出来た嫁でも来て、継承してくれたらよろしいが。
古いシキタリ、因習を踏襲している女性はエライ。

夫婦の力量は同レベルだと思う。
自分が出来ない分、片方がフォローする、協力精神に則った協働はオッケー。
だが、自分もイマイチ、相手もイマイチ。
お互いに相手のイマイチを非難し合う。
自分にフォロー能力がないという、ブーメラン効果に傷つくのが、わたしだけ、なんて腑に落ちない。
相手も傷付き反省すべき。
わたしは人格者ではないし、残された人生は、自分のために捧げる。
自分の葬式に一人も参列者がいなかろうが、わたしは知る由もない。

あの人は素晴らしい人だった、と社会奉仕した人は、亡くなった後も立派な行いを語り継がれることだろう。
残った遺族、子や孫まで、偉業は代々、耳に入り、浸透するだろう。
「人生レシピ」進行役の賀来千香子が、NHK番組「ファミリー・ヒストリー」で、立派な行いをした先祖を知り、生きる糧にしたいと目を輝かせていた。
そういうのは、賛同する。
立派な先人を誇りに思い、自分を鼓舞し、さらに磨きをかける。

先祖の偉業が終わって完結しているなら、引き継ぐ必要はないと思う。
先人の偉業の内容だけを心に刻めばよい。
と、ここ蝶ブログで愚痴るだけの情け無いわたし。

過去の人々のスピリットを受け継ぐのは、血が繋がっている人。
わたしなんぞ、明日、離婚するやも知れん。(しないが)
離婚したら、無関係。
離婚しなくても死別の場合も、姻族関係終了届けを出すと、配偶者の血縁関係者との縁が切れるそうだ。
死別離婚とも言うらしい。
死んでから相手はこの世にいないのに離婚するって、、、複雑な心境。
まあ、配偶者の親戚やらなんやら色々あるわけだ。

ちょっと横道に逸れた。
血が繋がっていないのに、婚家の行事を受け継ぐのはいかがなるものか?
養子なら、あり得る。
養子でもないのに。まあ「嫁」というもの。
「嫁」は「家の女」と書く。
家に嫁いで来た女だ。
ああ、やだやだ。
もう、そんなの、嫌なのだ。
生きている限り離婚でもしないと、家と縁を切れない。

話が逸れに逸れている。
終活の話が。
愚痴ったものの、わたしは楽しく充実の毎日を送りながらエンディングに向かっている。
イエに嫁いだ嫁というカテゴリー以外は、とてもハッピーだ。
よかったね、わたし。