蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

おべんちゃらを真に受けそうになる人は、バカか、純粋な人である。

2015-04-09 | 日々のこと

先日、テレビドラマで木村佳乃が演じていた役柄。
面白かった。

小さい頃は、学校でいじめられていたが、成長に伴って、
さえなかったダサい自分が、おシャレをすると、ステキに美人に変身し、まわりもチヤホヤ、人気者になっていく。
そういう自分をクールに発見する。
それまでの自分とは打って変わったように、前向き、アクティヴで能動的な人生を送る。
仕事にもやる気、実力を発揮し、のし上がっていく。

この人、事件の犯人なのだが、わざとらしいオーバーな演技(わざとやっていると思える)が、興味深くて笑えた。

自分の眠っていた、隠れていた長所や美点を、偶然、あるいは、苦労の末、発見、発掘してしまうこと。
これ、自分の美点を自覚すると、良さ、味わい、特徴が微妙に変化する。
鼻持ちならなくなる。
では、無自覚が良いのか。
宝の持ち腐れ。
いったん気付いてしまった場合、わざと無自覚を装うと、隠れ嫌味人間になるかも?
前述のドラマのように、
いっそ、開き直って、思いっきり自覚して、それを武器にさらにステップアップするというのも、豪快かも知れない。

まわりから、あれこれ同じ内容で褒められると、本人もその気になるのが普通だ。
それにも負けず、「いえ、自分はそんなことはありません」、と否定に近い謙遜をし、鍛錬を重ねる。
謙虚、一徹。ますます磨かれる。
頭が下がる。
が、そんな人は、稀。

わたしは、最近、「鼻持ちならぬ病」に冒されかけている。
それは、ホメ言葉を真に受けるのだ。
こちらから投げかけたお世辞に対する、先方からのお返しのお世辞である場合が多いにもかかわらず。

わたしが最も喜ぶ、同じ表現をされることが多いので、
自分は、ひょっとして、ほんとうにそうなのか?と、勘違い一歩手前である。
自分という人物。
他から見た評価。見え方。
自覚したくないのだが、自覚しそうになっている。
せっかくの美点が・・・(自分で言うか)・・・青い鳥が、黒くなりそうで、恐れている。

 

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時間ドロボー

2015-04-06 | 日々のこと

またまた「東大チョコレート」なるお土産をいただいた。

製造は、メリーチョコレートカムパニーで、販売が、東京大学消費生活協同組合。
これって、あべのハルカス ロングバウムクーヘンと同じノリか?

この季節、あちこち桜見や、お出かけの機会が多いのだろうか。
「東京大学オリジナルチョコレート」なるものは、東京駅にもで売っているのか?
はたまた、やはり卒業式や入学式がらみ?
個人的に関わりがある人しか手に入れることが出来ないという、限定枠付き、
購入者の優越意識をくすぐるモノ?
説明しなくても、「東大生の親」の威光が光り輝くかのごとく。

親としては、式に参加し、東大グッズをお土産に買って帰る、この世の春。
今までの苦労の甲斐があって、よかったですね~。
というか、いったい誰にもらったのか、わたしは知らないが。
美味しければ、すべて、善し。
ありがとうの感想。


わたしと言えば、アイフォン6のカバーをネットで探しまくり、いまだ、決めかねている。
同じ日時に、同じアイフォン6だったかな?)を購入した長女は、もうとっくに、カバーを取り寄せて使っていた。
この行動力の違い。
単なる年齢、世代差だけとは言いがたい。

電車のICカードを入れられるカバーにしようかと思っている。
(ICカードも持ってないのに)
でも、なかなか決められないのは、なぜ?
というか、今、思いついたけれど、アイフォン6にも、いろいろ大きさがあるんじゃなかろうか?
(それとも、ないのか?)
まあ、また調べよう。
で、また遅くなりそうだ。
というか、思い付きが行動に現れるまで、長い、という、たんにそれだけなのだが。
それを、のろま、というのだろう。
溜めに溜める。
発酵することもある。
人生、発酵だらけだ。

小銭をじゃらじゃら、
発券機の前で、いちいち財布をバッグからごそごそ取り出す、その、もたもた時間、
そういうのに、いいかげん、うんざりしている。
手続きが面倒で、小銭と闘っている人は多いと思うが、わたしは、手続きと闘うことになりそうだ。

LINEも、遅いデビュー。
まるで70歳代に芸能界にデビューする、素人ぽっと出のアイドルのごとく
中高校生は、自分だけ、グループからはずされたり、のけ者扱いにされやしないか、とか、
既読数を見て、スルーされたとか、深刻のようだが、まあ、深みにはまると、わからないでもない。
わたしは、そんなのは、わずらわしいから、家族の中でも、2人~3人のみ限定。
(それ以前に、友達がいない)
それでも、(娘に)無視された~なんて、ちょっと落ち込んだりして・・・高校生気分を味あわせてもらっている。

自分のプロフィール写真は、
たまたま昨日、電鉄会社のホームページから入手して写真で貼り付けた、地元バスの時刻表にした。
どうでもいい振りが、わかる。
わたしの顔、時刻表なんです。

しかし、LINEのプロフィール写真は小さいし、数人で360度の円を分割して写真をシェアすると、
時刻表は、ブルーのストライプで図柄のようになって、悪くないと思っている。
もし、自分が高校生だったら、確実に、グループから、ハミ子(のけ者)にされていることだろう。
今の時代に、学生さんをやっていなくて、よかった・・・。

 

今日の記事内容、自分だけの自己満足、
ほんとうにLINEでも家族にも見捨てられ、無視されるような内容だ。
お読みいただいた方に、すみません、と言いたい気持ち。
「時間返せー」と言われたら、どのようにお返ししていいのやら。
気持ちはあっても、お返しできません・・・。
というか、この5行↑も、時間ドロボーの一端を担っている。

せめて、次は、まじめな、まともな内容にしようと、気を引き締めるのでありました。
 

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幸せな人は、傲慢である

2015-04-04 | 日々のこと

わたしのブログは、多くの人は親近感を覚えないだろう。
コメントをつけようと思う時は、「聞き捨てならん!」と文句のある場合か。

べつに、親近感は持ってもらわなくてもいい。

「わたしも、そうなんですよ」
「うちのケースは・・・これこれしかじかで・・・」

井戸端会議的な会話をしたくなくなるような、そういう雰囲気が漂っていると想像する。
店でも営業していたら、客は寄り付かないことだろう。
タカビーで、上から目。愛嬌なし。迎合なし。
あるいは、頑張っているひとをごっそり、地面すれすれの足元から切り取ってしまう冷酷さがあるかも知れない。


文章が飛びぬけ素晴らしい、あるブロガーさんがいる。
彼女の書く文章は、本質を突きすぎていて、あるとき、不意にぐさっと刺される。
彼女に救いがあるのは(ああ、また、わたしの上から目線・・・)、
彼女の身の上が不幸な状況にあること。
多くの読者は、あの日常で、あの、明るい未来を描けない悲惨な状態で、
前向きに生きようとする彼女の精神力に感服する。
感動するわけだ。

だが、同時に、悲惨でもなんでもない人を、ばさっと切り落とす場合もある。
地獄に突き落とされそうな、地獄からの、すごい引力のようなものを感じることもある。
地下洞への小さな入り口で、必死で何かを掴み、引き込まれないように留まる自分がいる。
申し訳ないけれど、わたしは、地獄にご一緒できません。
その人は、明るい朗らかな時もあるが、
振幅や、深層を垣間見たことがあり、彼女の目に見えない心の奥底にあるものを感じたことがあると、
わたしはいつなん時、その部分が噴出しないかと恐れて、心の底から自分を開放できないでいる。


同じ文章を綴ったとしても、おちゃらけな生活を送っている人が書いたとしたら、

なに言ってるの?
あんたに、なにがわかる?
偉そうなこと言うな。

となってしまう。

当たり前だ。

文章には、魂が篭る。
キャリアや経験が、行間に埋まっている。

へ?行間?
被害妄想じゃないの?

と、とっさに言う人もいるだろう。
表面だけ、上っ面の文章だけを見て、評論したり、感想を述べたりするのは簡単だ。

わたしは、不特定多数の人々に、近寄ってきて欲しいと切に願っているわけではない。
少し離れたところから、気になって、そっと見ているシチュエーションが快適かと。
ちゃらけた人間には、魂を揺さぶるヘビーなものなど書けるわけがない。
まして、幸せな人間は、不幸な人の気持ちはわからない。
わかろうとしても、経験がないのだから、想像、シュミレーションに過ぎない。
それが、へんな同情になったりすると、かえって、侮蔑したように受け取られるかも知れない。

幸せ自慢は、鼻つまみ者。
不幸自慢も、うんざり。
いくら自己肯定が良いといっても、自慢は、ダメだってことだ。

しかし、うまくいかないことの原因を自分に求めすぎると、欝になる。
内向きは、よくない。
自慢はしないで、人を非難しないで、でも、自己肯定して、人のせいにもする。
自分救済のノウハウ。こんな、バランス、難しすぎる。
が、自分との付き合いは、長いので、それなりに調合、調整していると、自分スタイルが生まれる。

 

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子供を東大に入れる方法

2015-04-02 | 日々のこと

昨日、東大饅頭なるものをいただいた。
おそらく、お子さんの、東大の卒業式に参加されて、そのお土産だろう。

東大饅頭ならお土産になるが、「○×大学」なら、しゃれにならない。
(実際の大学名を書くわけにはいかないので、書かない)

ハワイで、地元の有名大学のTシャツをお土産に買って帰ったことがあるが、
ああいうノリかも知れない。

SNSだけでの知り合いである、ある方は、息子さんが東大生。
この春、無事、卒業された。
母親である彼女は、誰にでも彼にでも、聞かれもしないのに、話題に上げられてなくても、
「息子は東大」を公言しまくっておられる。
よほど、誇り高くて、嬉しいのだろう。
これは、不思議と自慢を通り越していて、むしろ潔い。
「ねえ褒めて!褒めて! 東大なのよ!!」と、大声スピーカー。
ここまでやると、ご自分の感情に素直すぎて、脱帽、「よかったね~」という気になる。
他にまわりには、よほど東大に行った人はいないのかと想像する。

彼女が「人生でやりたいコト」の中に、「子供を東大に入れる方法」という本を書きたい、という項目があった。
ここまで来ると、あっぱれ。

昔、その手の本を出しておられる母親の著書を店頭で立ち読みしたことがある。
息子さんは東大の医学部かなにかで、社会人になった後も、名のある場所で、活躍されているように記憶している。
母親が実践した育て方の手法は、とんと忘れた。
おそらく、すっかり忘れるぐらい、普通のことが書かれていたのだろう。

勉強が得意な人と、不得意な人がいる。
子供の得意分野を生かし、伸ばすのは、母親の役目かも知れない。
ただし、勉強が得意で、好きな子供は、いったいどれだけいる?
「うちの子、勉強嫌いで、不登校なんです」という悩みのほうが、人々は耳を傾ける。

東大に入れた段階で、母親の役目は終了しているとわたしは、考える。
自分が甲子園野球児だった頃を懐かしむ社会人も多くいるが、むしろ、その頃の思い出を封印したい人もいるだろう。
輝かしい過去は、必ずしも輝かしい未来を保証してくれるわけではない。
過去の栄光を背負う人は、それなりに苦しい。
維持する苦労、あるいは、ステップアップする地道な作業が待っている。
しかし、ひと段落ごとに、休憩を入れないと、もたない。


子供に対してではなく、わたしの自分自身に課していた緊張の糸は、高校入学の時に、ぶちっと切れた。
人生の踏ん張り時は、婚活と育児、そして「子育てと仕事」の同時進行による自分育て。

子供に関する緊張の糸は、進路の筋道がしっかりついた時に、切れた。
受験結果の合否で決着する。
子供は、親のものではなく、自分の人生を歩んでいる。


せっかくタイトルに、「子供を東大に入れる方法」と書いたのだから、
それにちなんだ内容を書き加えたいところだ。
わたしは子供を東大に入れてないので、書けないけれど、
学部にもよるし、東大の全てがダントツというわけでもないし、途中から編入というケースもあるし、
そのあたりの裏事情を加味すると、「子供をとりあえず東大に代表されるような有名難関大学に入れる方法」か。

遺伝子と環境、生活習慣だろう。
それ以外には想像できない。
中には、親とは無関係な要因で、入る学生もいるようだが、そういうアクシデントなら楽しい。
そんな時こそ、喜びを自分の中で抑えきれず、お祭り騒ぎをするかも知れない。


人が喜んでいる様は、決して不愉快というわけではないのだが、
すんなり「よかったですね」と、ホンネで受け入れてくれる人は、どれだけいるのだろう。
妬む人もいるだろうし、上から目線で冷笑する人もいるだろうし、
話題によっては、誰彼なくではなく、相手を見て言ったほうが、無難なように思う。

そのSNS知人の女性の「子供を東大に入れる方法」、
ぜひ読ませていただいて、孫育ての参考にしようかしらん。
(孫は治外法権だけど)

 

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大食いのジャジャ馬

2015-04-01 | 日々のこと

非常に遅ればせながら、スマホを購入した。

それまで使っていたガラケーは、とても気に入っていて、まだまだ愛着はあり、
第二夫人のように、手元に置いておきたい気分満々で、実際に、今にでも使えて、出番を待っているかのように、
日常の風景に溶け込み、充電中である。

が、哀しいかな。
メールや電話は、スマホなので、持ち歩き、第一線で活躍するのは、スマホになる。
そして、第二夫人は、充電器にスタンバイしているものの、まったく出番がない。
籍が抜かれた第二夫人。つまり、正式には座が確保されていない。除籍。

アイフォン6。

手を焼いている。
一番に、電池が減るのが速いこと。
ガラケーは、行きの電車でブログを読んだり、メールをしまくり、
路線乗り換え案内で、到着時間を調べたり・・・
帰りの電車で、またもやメール、
その帰路途中でやっと電池残量レベルが1つだけダウン。

しかしながら、それに比べ、アイフォン6は、行きの電車で、すでに電池残量20パーセントダウン。
え?こんなに速く?
メールしかしない時でもそうだった。
しかも、メール入力の速度の遅さ!!
ガラケー時の10倍ぐらいの時間がかかっている。

とことん、メールしにくい。
iPadを長く利用しているので、操作方法は基本的には同じはず、と、たかをくくっていたが、甘かった。
指がちょっと滑りすぎて、送る内容ではないメールを、誤送信してしまい、冷や汗。
また訂正メールを入れたり、四苦八苦。
ただでさえ、もたもたしているのに。

まったくといっていいほど、メールが動かなくて、いちいちホームボタンを押さなければならないことになった。
今のアイフォン、あんまりだ!!と嘆き怒り悲しんでいたが、
動かないにも、あんまりにも程があるので、次女に泣きついた。

「これ、どーなってんの?」

さすが次女は、年の功。(→この語法、講釈、つけません)
どうやら、わたしは全ての窓を開くだけ開いてそのまま開けっ放しにして、次から次へと次の作業に移っていたせいで、
やたら重くなっていたようだ。
主治医は、ささっと処理してくれ、さくさくっと動くようになって、やれやれ。
ついでに、ホームに戻るボタンを画面上に新たに設置してしてくれ、
「これからは、ココを二度押しして画面に戻り、作業ごとに捨てて、後始末するんやで」
と、処方箋、投薬つき。
受診料、治療費は、彼女の好物、千鳥さぶれ1枚。


写真とかは、押すところを間違えたり、するっと指が滑ると、ガシャガシャガシャと10枚ぐらい連写されてしまう。
しかも、写真のオフの仕方がわからず、とりあえず電源オフにして、ブチっと強制的に切るが、
電話がかかってきたりして、慌ててバッグから取り出そうとすると、どこかを触ったようで、ガシャガシャガシャと連写。
エレベーターの中だったりすると、不審人物この上ない。

暴れ馬になって暴走するので、わたしの手には負えない。

しかも充電器を二つも持ち歩いて、ちょっと病気。

お澄ましして、気品ある表情で、家の充電器に静かに佇んでいるガラケーを見ると、
こっちのほうがやっぱり正妻に相応しかった・・・と、心が痛む。
が、インターネットは、断然、暴れ馬アイフォンのほうが上。ただし、電池が減るのが速いけれど。
送信されたPDFでの添付書類も、ケータイで確認できるから、便利といえば、便利だけど。
内容が、税理士から送られてきた追加納税の納付書では、複雑な心境だが。

ガラケーは、電話にメールが付いて、ついでにインターネットもできる。
アイフォンは、パソコンに、ついでに電話機能を付けている。電話は、小さく身をかがめて居候のオマケ。
ガラケーは、しっかり押さないと、決定されない。
アイフォンは、押すつもりがなくても、勝手に進んでしまう。

「二つ持ちたい・・・二つともメールも電話も出来て・・・」と、もそっとつぶやくと、
「二台持つだけの余裕があるお金を、自分で稼いでいる人なら別やけど」
と、さらりと次女のジャブ。

しかたない・・・
一生懸命、自分の身の丈に応じた分だけ、がんばろうっと。


今日の記事タイトル。。。
若い人が見たら、冷笑されるだろうなあ・・・
(若い人は、蝶ブログは読まないので、D'ont mindだけど)

年齢を理由に白旗を揚げて降参し、温かい目で見てもらうには、
まだ、少しだけ、わたしは自分では若いと思っている。
ささやかな抵抗。
ちょっと見苦しいが、あと10年はこの状態が続くことが予想されるものの、
徐々にスライドして落ち着くことだろう。

 

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