蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

もう一つの不快感

2018-01-17 | 日々のこと
あるSNSで、自分の呼び名を「◯◯姫」と命名する人がいる。
ずーっと◯◯姫。
自分で言う?

ある人は、娘さんのことを姫1号、姫2号と呼ぶ。
さらに、女の子の孫をプリンセスと呼ぶ。
自分で言う?

その人は、自分には孫がいる年齢にもかかわらず、自分の老いた母親のことを「ママ」と呼ぶ。
外国人でもなく、外国暮らしが長かったわけでもない、日本の田舎暮らしの日本人。
ママが、ママが、、、と、話し言葉の文章を読むと、ぞっとする。
つけまつげバチバチ、歯が抜け、真っ赤な口紅、黒マント(裏生地は、赤白水玉ミニーちゃん柄)の、シワシワ老婆を連想する。
(実際は違うけれど。リアル人を知っているので)

わたしには弱点がある。
そういう類の人種、言葉に接すると、ゾゾッと寒気が走り、震え、全身鳥肌、寒イボ、ペキーンと凍ってしまう。
全機能が麻痺する。
べたーっとした、えぐい濃いピンクの塗料をベトベトに塗りたくって、ドロドロに溶けそうな脂べったりの、ハート模様が張り付いてくるような恐怖を覚える。
(でも、林家パー子は、わたしのピンクセンサーは、あまり不快感をキャッチせず、ひとつの芸風として認識する)

人には人の表現の自由がある。
わたしは全力で、後ろも振り向かず逃げ去る。
でも、舌か目か、鼻に、でろでろピンクの残像が残って、ちょっとやそっとでは取れない。
防衛手段としては、手洗い、うがいを繰り返すのみ。

今日のわたしは、ちょっと、いや、大いに嫌なやつっぽい。
明日から元の元気な自分に戻る予定だ。

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不愉快との付き合い方

2018-01-17 | 日々のこと
退屈である。
突然、退屈になった。
いつも見に行く別SNSの日記をアップする顔ぶれが固定化され、動きがなく、面白くない。

中ではアクセス数の多い日記がある。
わたしは、直接リアルを知っている人なのだが、、、
お孫さんのバレエの発表会の動画を日記に貼り付けてある。
三頭身なので、ゆるキャラの動きで可愛い。
(※ちなみに、「三頭身」は、多少のデフォルメ表現)
歌舞伎役者の子供の初舞台のようなものか。
歌舞伎は伝統芸能で、子孫は引き継がなければならない宿命を背負っているが、バレエは自由選択だ。
しかも三頭身なら、バレエとは言い難い。
あれでも振り付けや指導は大変だっただろう。
しかし、猿やイルカに芸を躾けるほうが大変だと思う。

立派な舞台での晴れの発表会なのだが、なぜ、あのような動画をアップするのか、深層心理を推測するにも、いたって単純、明解。
目の中に入れても痛くない、可愛い孫の、最も可愛い三頭身時代の動画を皆んなに見てほしい、と願う、ばばごころ。
誰にでもある、微笑ましい楽し嬉しい気持ちである。
わたしとの違いがあるとすると、それを不特定多数の趣味仲間に公開するか、しないか。
皆さんは、「可愛い、可愛い」と多くのコメントを寄せていた。
可愛いことは可愛いが、三頭身が一生懸命やっているところが可愛いのだ。
どうせなら、笑える瞬間をとらえた動画のほうが面白いのだが。

しかし、わたしは、そうとうひねくれている。
猿やイルカの練習を重ねたショーは、有料で観客の目を楽しませてくれる。
お遊戯も保護者家族を楽しませてくれる。
教育指導、成長プログラムの過程での、保育園や幼稚園の学芸会ならいざ知らず、
そしてシルクドソレイユや上海雑技団の高度な技ならいざ知らず、大枚を投じてお稽古させ、立派な会場、広い舞台で踊る、三頭身のバレエ、、、
その、熱すぎる趣味に、拒絶反応に近いものを感じた。
こういうお金のニオイ、わたしは大嫌いなのだ。
(どこぞの国の、全員、顔だけ異様に、にこやかな笑顔の、音楽舞踏団の小型・三頭身版にも見えないでもない)

好きでお金を投じる人がいて、かたや、嫌いな人がいて、、、人それぞれ自由であり、誰に文句を言われる筋合いもない。
同好の人々が寄り集まり、お互いを褒め合うのは、精神衛生上、非常に結構なことである。
ただし、広く制限を設けずに公開すると、届いてこない不快な声も必ずあるだろう。
そんなことをいちいち考えて気にしていたら、楽しむこともできない。

なので、わたしはお金のニオイのする三頭身への趣味投資に関する感想は、直接、ご本人には伝えない。
何にお金を使おうが本人の自由であり、邪魔する権利はない。

嫉妬ではない。
1兆円、資産があっても、わたしはしない。
嗜好の違いである。
周りの祖母趣味仲間の皆さんに、多くの同調賛同コメントを寄せられ、悦に入っておられることだろう。
人は人。それぞれの価値観や嗜好は個々に独立して存在することを認めている。
誰にも好き嫌いはある。
が、内容に関しては、わたしの趣味に合わない。

見ても見なかったことにして、なにもなかったことにしておくのが、わたし流。
自分を不快にさせるものには近付かない。

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店じまいを考える

2018-01-16 | 老い
昨日、母から電話があった。
「どうしてるの? また来てちょうだい。待ってるよ」

「昨日、19人も集まって、おばあちゃんを囲んで新年会したやん」
「そんなとこ、行ってない」
・・・
姉2時間、私2時間、目の前にいる、これは誰で、それは誰で、延々と同じことを説明したのは何だったのだ?!
さすがに、言葉を失った。
昨日、涙を流しながら書いたブログは何だったのだ?!

「写真見せてくれなかったら、(そんなことがあったかどうか)わからへん」
と、母。
遠方から母の妹がわざわざ訪れてきてくれたりしても即、忘れる。
食べたことも忘れる。
かなり、進行しているようだ。

美味しいものを食べさせたり色々しても無駄だと悟る。
過去の記憶にあることだけ、しかも気分が良くなったり楽しさが蘇るような話題を選んで、思い出を引き出すような話をするしかないか。
過去は過去、現実は現実。
ノスタルジーに浸っていても現実を変えることはできない。
せいぜい、母も周囲も、最大限、快適に過ごせるよう努力するのみ。
自分も行く道なので、見本があるからわかりやすい。まさに道標。
受け入れるも受け入れないも、生物の摂理。
老化とは酷なものである。

さて、わたし。
あと25年の間、自分という店じまい。
棚卸し。
終活とは少し違う、閉店準備。
いかに楽しんで店を閉めるか、いかにあがかずに店を閉めるか。
赤字、黒字、収支数字によっては閉店日が前倒しになることもあるだろうし、ちょっと延命されるかも知れない。
考えている間に、あっと言う間に過ぎそうだ。
店を閉まってからも、とりあえずはまだまだ生き続ける予想だが、医療費圧迫で若い世代に税金を負担してもらうのは気の毒だ。
わたしだけに関しては、店じまいをしたあとは、毎日、少しずつ、天国の階段を登りたい。(誰でもか)
階段が長すぎるようなら、途中でカット、割愛してもらっても構わない。
が、最後の一歩の後に天国があるのが望ましい。
今から、どこかの宗教に入信するのもヒネすぎた信者だろう。
だから、母の提唱していた「宇宙教」か、自分の都合いいことだけを考える「自分教」の教祖、兼任、第一信者(定員1名、自分だけ)となろうか。

こんなことを考えていたら、時間が瞬時に過ぎるが、(今日に限っては)意外と悟りが早かったので、地下鉄、降車駅より、早めに本日のブログは終了できそうだ。
(むしろ時間が余って退屈。
スマホ、新バッテリーの威力はスゴイ)

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女は強し

2018-01-15 | 
わたしが勝負をしないのは、負けることがわかっているから。
臆病者かというと、ちょっと性質が違い、計算、打算。
ムダなエネルギーは使わない主義である。

素手で、ナイフを持っている人には向かわない。
勝負するとしたら、「じゃあ、あなた、昨日の夜はどう過ごした?」と、比較点数で競えない分野で、自己満足度を勝負する。
勝ち負けは、自分判断。
他人が見て、「あなたの方が負けていますよ」と見なしたところで、わたし自体に、価値を置いていないところで負けても、痛くも痒くもない。
頑張ってくださいね、と応援するのみ。

これは、わたしが、社会から緩やかな離脱を行なっている最近のこと。
子供の頃や、学生時代、成人になってから、、、競争社会に身を置いて頑張らされていた頃は、こんなことは感じなかった。
それでも自分の特性を活かした頑張り方を求め、模索し、自分なりに頑張ってきた。
が、わたしの中では、もう終了した。
過去の話になった。
だが、過去は消えない。それだけの話だ。

これからは、よいお年寄りになる予定だ。
が、もう老害が出始めていると感じる。
わたしがこの世から居なくなって周囲に少しでも喜びを与えることができたら、それもまあ、消え甲斐があるかも知れない。
少しの涙と、少しの安堵と、少しの喜びを感じてもらえば、それで良しとしよう。

自分の末路を想像して、良かったね、と、じーんと来た。
家族がわたしを終えるまでのケアから解き放たれ、義務感からの解放と、見終わった充実感で、少しだけ、安らいでほしい。
たくさん安らいでもらうのは、避けたい。
それぐらいたくさん、家族に負担をかけていたということだからだ。

母と話していると、「あんたは、何もしていない」とわたしを非難するが、「あんたこそ、今は何もしていなくて、何もできなくて、周りにお世話になっているではないか」と逆ギレする。
自分の置かれた状況を把握していなくて、昔の元気な頃に気持ちが戻るのだろう。
現役の頃を思い出させるのは、娘であるわたしと向かう時。
わたしたち子供を育て、孫たちとも元気に接し、頑張っていた日々にフラッシュバックする。
そういう過去は消せない。
その過去があり、今がある。

同じ話ばかりを繰り返す母と接し、イライラするが、老化が進んでいるだけである。
認知症がゆるやかに確実に進んでいるが、若いころの母や、まだしっかりしていた頃の母を子供たちや孫たちは覚えている。

昨日は、母を囲む新年会を実家で行い、総勢19人が集ったが、求心力は母なのか、今となっては力がない母に代わって、我々をかき集めた実践者の姉(姉一族)と、わたし(わたし一族)なのか。
超遠方に赴任している、わたしの息子以外は全員集合して、元気な顔を見せ合った。
しかも、去年より、一人、人数が増えている。
義理の姻戚関係の人は5人、全員男性。
血縁近親者は女性6人(孫は省く)(男性もいるが独身)
つまり、この会にはお嫁さんがいないということだ。道理で男性方は、おとなしい召使いになっているような印象を受けるはずだ。

強力なリーダーがいれば、みんなついていく。
世代交代には、まだあと20年はあるようだ。
しかし、力は新旧、徐々にスライドしていくことだろう。

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負けたって、いいじゃない?

2018-01-14 | わたし
人を踏み台にして、競争に勝つ。
自分は踏み台にされた。
自分は競争が嫌なため、避けたら、それなりの評価を下された。
サラリーマンの世界では脱落者だ、と、そうボヤく人がいる。

負ける人がいなければ、勝つ人がいない。
負けた人に対するフォローが必要だと力説していた。
確かに、勝ち負けは厳しい。
そんな世界に身を置かずに一生を終える人も少なくない。
たとえば、外の世界に出ない人。
引きこもりは、外の世界では身の置き場がないために、引きこもるのだろう。
こころの病気ではなくても、普通の専業主婦なら、勝ち負けの世界は遠いと思う。
ママ友や、ご近所のライバルと、勝った負けたは、今、わたしがここで取り上げようとしていることと、種類や質が違う。
わたしは、そういうことには言及していない。
虚栄心や見栄を張ったりする、勝ち負けは、ただ単に馬鹿らしい、意味のないことだと感じている。
そんなくだらないことではなく、本当の勝負、自分自身の力、能力の勝負。
この手の勝ち負けで勝ち進んで行った人には、評価が上がっていく。
誰もが認める基準があっての勝ち負け。
運もある。
それ以外の主観的な勝ち負けなんかは、自分だけの世界になる。
そんな世界に満足することを自己満足というのだろうか。

わたしはこれまでに、勝負らしい勝負をしたことがない。
だから低い評価に甘んじている。
踏まれて行っても大して何も感じない。
お先にどうぞ。
行った先は、たかが知れている。
負け惜しみと取られるかも知れないが、決して負け惜しみではない。
変わっているのかなあ、わたし。

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寒く退屈で電池たっぷりな1日

2018-01-12 | 日々のこと
寒く退屈だが、電池がたっぷりで良かった1日だった。

今日の日記を1行にまとめるとこんな感じ。
遠方地での用事を2つ終了したが、3つ目の用事はアウト。
3つ目は、2つ目の用事の時間が押してドタキャンとなった。
ついでに、用事と用事の間に、ブーツの踵修理。

そもそも雪のため、JRが遅れていた。
初っぱなから、良くないスタート。
ぎゅうぎゅうにタイムスケジュールを詰め込んでいるので、ひとつ遅れると、次のスケジュールに影響を与える。
分刻みで、乗る電車、バスが決められている。ひとつでも遅れると、次にさし障る。

徒歩→私鉄電車→地下鉄→JR→バス→滞在→バス→ブーツ修理→JR→用事→JR→地下鉄→3つ目の用事に間に合わない→私鉄→バス
我が家と目的地は、なんて遠いんだろう。
たいしたことはない、と思っていたが、そんなことはない。
1日仕事だ。
その中間地点で、もう1つ用事を入れようなんて、厚かましいか。

都心を通過する電車移動が多いためか、外国人男性と日本人女性のカップルを2組見た。
2組とも母国語は英語ではないが、母国語なまりの英語を話す。
1組の男性はポルトガル語? かぎ鼻。日本人女性の英語は抜群。日本人だと気づかなかったぐらい。でも、イチャイチャしすぎ。
もう1組は、ドイツ人男性。日本人女性の英語は、発音が悪い。
どちらもラブラブカップル。
言語は、ラブがあると、コミニュケーションを潤滑にする見本。恋人。
おばあさんに近い、おばあさん予備軍のおばさんであるわたしには、全くなんのカケラも関係がないことが、うら悲しい。
まあ、そういうお年頃に突入してしまったのだから仕方ない。

別SNSの日記は、ただいま自滅傾向にあり、墓穴を掘っている。
私自身が楽しくない。面白くない。
停滞している人の中に、停滞した内容の日記。
顔ぶれも、コメントも同じで、つまらない。
動きがなくて飽きる。

話は変わるが、
昨日、スマホのバッテリーを交換して、すこぶる良い調子である。
飽きるほどSNS三昧も、新バッテリーのおかげ。
だだ、交換に行った店は、家からやたら遠い店舗。
ひょっとして、わたしの家は、不便なところにあるのかも?と、今更ながら、認めざるを得ない。
しかし、その大変な時間と労力のおかげで、今日は1日中、移動時間はスマホ。
嬉しかったかというと、すっかり飽きた。
やはり、何事も、ほどほどが良いようだ。

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打算はうまくいかない

2018-01-09 | わたし
わたしは、人づきあいが苦手だ。
しかし、顔を見たこともない人と年賀状のやり取りが30年も続いたり、顔を知っている場合は、5年〜50年のお付き合い。
長く続かない人とは、初めから付き合わない傾向がある。

ただし、ダンスは他の要素が加わるため、新陳代謝が激しい。
上手い人をつかまえようと欲を張ると、逆効果になることが多い。
何事も打算は、ろくなことがない。

目的を達成するには、一度に多くを求めないこと。
ひとつひとつクリアしてから、徐々に段階を上げていく。
人間関係は、短気は損気。

トラウマ氏は、全てにおいてアウト。
なかなか切れなかったのは、最初に浮かれて契約してしまった、わたしの読みの甘さと自責の念から。
さらに、すぐギブアップするは、自分自身が情けないと感じ、頑張った。が、無理だった。
パワハラと感じる事態を受け続けると、壊れる。
早めに離脱できて正解だ。
人間関係には相性があることを知った。

最初からダメな人は選ばない。
だが、万が一、ダメだった場合は、早めに決別する。
できるだけ早い決断が、自分のダメージを最小限に食い止める。
ダメでない場合は、どちらかがこの世からいなくなるまでのお付き合いとなる。
それがわたし流のようだ。

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相手を通して自分を見る

2018-01-08 | わたし
【Caution 】
この記事は、自分が考えるために書いたものなので、他の方がお読みになっても、全くつまらないものです。


家庭以外の場において、
他人の中にいる、わたしというキャラクターは、相手を映し出す鏡のようなものだと最近、思うようになった。
自分自身に色がない、実体もない。
透明人間である。

はにかみ屋さんで、目立つのが嫌いで、自己主張が出来ないからでもある。
まわりに流されてしまうのが嫌で、一人でいることを好む。
一人だから、まわりの人の相手をする必要がない分、余裕がある。
で、しっかり、まわりを観察してしまう。

仮に、誰かと関わりが出たとしても、その相手の、わたしは自由帳になる。
好きなことを描いてもらう。落書き帳かも知れない。
わたしが主張しないので、相手は、わたしに構うことなく、好きなように自分を出す。
あくまでも他人であり、分別あるオトナなので、全てをさらけ出す、とまでは行かないが、奥に隠しているものが、ちょろっと出る。

それは、意外に、自慢や、自己擁護、自己肯定、自画自賛であることが多い。
自己否定や愚痴が出ない理由は、わたしが関わる人は、マイナス思考の人を無意識のうちに避けているからだろう。
不幸自慢系は、縁がない。最初から、すり抜ける。
マイナス臭を五感で感じ、避ける。

でも、修行が足りないからか、表面はちゃんとしていても中身が腐っているものが、まだ見抜けない。
気づかないうちに蝕まれるが、気づいた瞬間に放り出して、傷んだ部分を取り除く除去手術を行う。
その瞬間は痛いが、後々のため。

人は、承認され、褒めてもらいたい願望がある。
なので、目の前にいる本人の話を静かに聞く。
ただそれだけで、承認されたことになり、気持ちが安らぐようだ。
オベンチャラやお世辞を言う必要はないし、わたしはそういう類は嫌いである。
ただ、相手の言っていることに耳を傾けるだけである。

これはカウンセリングの方法にもあるようだ。
悩みがある人は、人に悩みを伝えるにあたり、自分の考えや思いをまとめ、整理し、答えを自分で見つける。
悩みがなくても、自分と向き合い、自分が肯定されたと感じると、爽やかな気分になる。

だからかどうか知らないが、目の前の人は自分を受け入れてくれると感じると、相手は安心して地を少しずつ出す。
カウンセリングの場合は、相手が、やがて自分で自分を受け入れるまでの過程だと思う。
カウンセリングではない、一般の場合は、ボレーでお返ししたり、わたしの個性を足してラリーしたり、行ったり来たりしているうちに、新しい融合が生まれる。
これ、結構、楽しい。
自分が相手に与えた影響が、相手の持ち味をプラスして、また自分に返ってきて、新しい発見になる。

ただし多勢、わいわいガヤガヤは苦手。
わたしは、1対0、または、1対1が、快適である。

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迫る、逃げる、諦める、省略する

2018-01-07 | 人生
忍びよっているのではなく、確実に、堂々と、ボケが、真正面から迫ってくる。
こんな恐怖はない。
目の前には、わたしの30年後の姿が実際のモデルとしてある。
ボケは、フィクションではなく、ノンフィクションなのだ。

でも、まだ30年ある。
母のようなかんじになるのは、正確には25年ぐらい先。
まだまだあるじゃないか。
と、一瞬、顔が緩む。
でも、必ずそうなる。
仕方ないけど、覚悟がいる。

自分のボケの現実に、まだあまり慣れていない。
モノを置いた場所を忘れる。
あった出来事を正確に思い出せない。
表現したい言葉や人名が、なかなか思い出せない。
食べた、食べてない、は、さすがに、まだのようだ。
一番の不安は、自分のボケがどれぐらいの速さで、進行するかだ。
ゆっくり、ゆっくり25年かけて進行してほしい。

ご近所の方でも認知症を発症した人がいる。しかも複数。
頭がお元気な頃を知っているだけに、辛い。
いろんな光景がフラッシュバックする。
いずれは自分も、、、
あと、25年。

まあその頃には、ひ孫もいるかも知れないし、労力としては期待はされないだろう。
「手伝わなくてもいいから、自分のことだけをしてちょうだい」と娘に言われている。
まさに、その通り。
厄介をかけ、重荷にならないよう、気をつけよう。
意外に今とあまり変わらないかも知れない。
さらに、子供の時や若い頃とも、あまり変わらないかも知れない。

元々、ポテンシャル エネルギーが低い人は、衰退してもあまり変わらないようだ。
よかった、、、
って、喜んでいる場合ではないが。

こうなったら、省エネ人生を突っ走るしかない。ただし、めんどくさいことは省略の「省」。
突っ走るといっても、亀の歩みで、あと25年。
その後は知る由もなく。

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ゴシップネタを提供するサービス精神、なし

2018-01-05 | 趣味
朝から母から何度も何度も電話。
同じ内容。
いいかげん、うんざりするが、電話対応だけで親孝行できるなら、お易い御用。
こんなやり方なら、世の中を賑わせている「振り込め詐欺」の電話役も、カンタン楽々な役目だと想像する。

話は変わり、さて、
またまた引きずるネタを引きずる事態になった。
昨夜ミッドナイト、ある人Cさんからメールが届いた。
トラウマ氏を含む、複数の人が絡んでしまった。
ある人物Bさんがデマをでっち上げて、自分の思う方向にコマを進めたいようだ。
最初はトラウマ氏がBさんからメールをもらい、そのメールを受けて、トラウマ氏がわたしに、なんたらかんたらメールしてきた。
昨夜メールのCさんは、Bさんと逆の内容を伝えてきた。
わたしは、トラウマ氏に、Bさんの言っていることを頭から信じないように、Cさんの言っている内容を伝えた。

さて、我々(トラウマ氏と、わたし)は、いったい誰を信じればよいのか。Bさんか、はたまたCさんか。
真相は藪の中。

ひとつ言えることは、だれかが情報を捏造し伝えたということ。
故意になのか、他意はない偶然なのか。
真相を究明したところで、始まらない。
わたしが、今回の登場人物全員が在籍している別SNSの日記にまた書くと、他の会員も参戦し、コメントが行ったり来たりで、ますます複雑化する。
なので動かず静観する。
事実はひとつしかない。
なんでもいい。

皆さん、よほど退屈しておれるようだ。
格好の暇ネタ、ゴシップを提供して皆さんの好奇心を満たせてあげるほど、私は親切ではない。
別SNSに日記は書いたものの、非公開にした。
なので、ほっておく。
降りることにした。

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