蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

摩擦

2021-08-08 | 無題
わたしがお手本にしていた人、、、いる?ぐっと考えてみるが、いないなあ、と。
反面教師なら山のようにいる。
憧れることはあっても、自分とは程遠すぎて、お手本にはならない。
別もん。
生きるステージが違う。

そもそもわたしは、ゴーイング・マイウェイ・タイプなので、人のことはあまり気にならない。
人は人、で、おしまい。
羨んだりしても、所詮、人は人で、自分ではない。
人のフリ見て良いと思ったら、良さの原因を推し測り、技や極意を取り入れようと注視する。
(悪い面も然り。そうならないように注意する)
が、一人の人に、憧れの全ては詰まっていない。
あれは良いが、こっち方面はイマイチ。
一長一短、表裏一体で、相反する両面とも長所にすることは出来ない。
で、良い面だけを真似してみる。
悪い面は目をつぶる。見なかったことにする。
悪い面は副作用。
収入を得たらもれなく納付義務が付いてくる税金みたいなもの。

全ての面が良い人がいたら、自分とは違う人種、別ランクの人だと認識し、自分が取り入れたい部分だけを参考にする。
苦手部門には手を付けない。

まるまるお手本、憧れの人は何故か身近には存在しなかった。
100%、意見や感性、価値観が一致するなんてことはあり得ない。
どこかが、必ず違う。
見た目は良くても、目に見えない部分が良くない。

違って当たり前。
合わない面をいかに調和させるか、我慢するか、辛抱するか、うまくやっていくか。
協調の精神。
もし、自分とぴったり合っていると感じたなら、相手や周りの人が我慢して努力して合わせてくれている。
自分が我慢するか、相手が我慢するか。
一方的にではなく、我慢分野はそれぞれ違う分野ごとに譲り合いするとよい。
シーソーのように、順番に我慢し合う。
今回はわたし、次回はあなた。
この分野はあなた、あの分野はわたし。
譲り合いして協調する。
お互い納得の上、協議の上、試行錯誤の上、理想的な我慢バランスが整っていく。
良い面を認め合わないと何も始まらない。
合わない面を調整し合わないと破綻する。

憧れる人は、能力も努力も人一倍。
自分の能力や努力と比べてみると、憧れるだけに終わることは多々ある。
ハイリスク・ハイリターン、ローリスク・ローリターン。
憧れて自分もそうなりたいなら、それに見合う努力をすべし。
それが嫌なら憧れるだけにすべし。
努力をしても憧れには手が届かないなら、憧れを下げる、ハードルを下げる。
局面、局面で調整すべし。
目標と実践の擦り合わせ、手直し、見直しが必要かと。

わたしはどんどんハードルを下げ、超えられないものは何もない。
負荷ゼロ。
それもどうかと。
自由すぎる。脳死状態。
自由闊達が理想かな、と。

今年は姑の初盆。
誰も上司がいなくなり、かつての従来の慣しが行われているかどうか監査する人がいなくなった。
家の宗教だって踏襲しなくてもいいぐらいだが、摩擦を生じるのが目に見えているので、そのままの流れをキープする。

生きるエネルギーは、人との摩擦から生じている。
摩擦がないのは、生きてるのか生きてないのかわからない、お花畑は楽しいな、で、のっぺらぼーの顔なしみたいで、それはそれで良いのかも。
天国イメージ?
あの世だったりして?


純粋と不純

2021-08-07 | 日々のこと
世代交代ターム。
90-60-30-0。
ちょっとズレる。
100-70-40-0。
これ、医療費すごくない?
しかも老老介護。
60歳で90歳の親は介護できても、70歳で100歳の親はしんどい。
で、70歳を支える40歳の子供は、まだ子供を産んだばかり。
子育てと、二重2世代介護。
70歳は、100歳を介護しながら40歳に助けられながら、さらに0歳保育のサポート。
こんがらがり。

60歳で楢山節だと、介護と育児サポート要員を早々から失うことになる。

100歳-80-60-40-20-0
だと6世代存命パターン。
すごい。
60と40の現役真っ盛りが、介護育児サポート真っ盛り要員。
晩婚少子高齢化社会。
赤ちゃんや若者の数に比べて、お年寄りが多い。
昔は多産だったけれど、はるか昔。

産む権利、産まない権利。
色々ある。
制度がだんだん整いつつあるが、まだ整う途中だと、少子高齢化は続く。

子供は宝。
産むのも育てるのも大変だけど。
これからの時代はまた違う時代になっていくだろうけれど、今後も平和、幸せが続きますように。

ちなみに、話は変わるが、、、
夫の実家のリフォーム、もうすぐ完成する。
のではあるが、次々に問題点が出てきて、修復箇所が増え、予算も膨らんできている。
今、新たな課題として外壁ひび割れ、及び雨漏り、屋根の修理が出てきている。
が、雨漏りはわかるが、全面修復まで手が回らない。
姑たちがやってきたように、その場しのぎの応急処置をするのに留まるか。
台風で、瓦が飛んだらそれから直すという、後手後手パターンもあり。
資金は無限にあるわけではないので。
家屋維持にはお金がかかるものである。
あれもこれも、は、無理。
すべきことと、したいことを整理して、優先順位をつけて、取捨選択しなければならない。
我々の代は良くてもまた次の代のお荷物になるのは避けたい。
過去、現在、未来を見据えて、調整、バランスを取る。
なかなか読み通りにはいかないことを覚悟して、余裕を持ったプラン、行動を選びたいものだが、、、。
ノリのよい時に、えいやっと威勢でやってしまうというのも、一つの方法だ。

話はまた変わり、、、
わたしは、今、次女に、生き急いでいるみたいだと言われている。
毎日、暑いのにスケジュールをパンパンに詰めて、ふーふーいいながら熱病にかかったように日程をこなしている。
山間に掛けた桟橋が、後ろから壊れ、逃げるスピードと、壊れて谷底に桟橋が落ちるスピードが、ほぼ同じ。
逃げ切れるか?
谷に墜落するか?
スリルとサスペンスと疲労のドキドキ夏を過ごしている。

ところで、このブログ記事を入力しながらバスを待っていると、隣のベンチに13歳ぐらいのラブラブカップル。
お互い手をギュッ握りしめて離さない。
何も喋らず体をぴったりくっ付けている。
相手の体に乗りかかりそうな勢い。
あんなに小さいのに、あんなに幼いのに、マセていないか?
今時の若い子はあんなものだろうか。
あんな歳で子供でもデキたらどうするのだろう?
恋愛に大人は介入しては野暮なのか?
うーーん、、、
教育現場で性教育がどれだけ進んでいるのかは現状は把握していないが、わたしは時代遅れなのだろうか。

少子化に歯止めがかかるのは良いとしても、子供が子供を産むのはいかがなるものか。
いや、純粋な二人だから、子供など出来ないかも。
純粋って、なに?

わたしは、不純な大人になって久しいし、さらにまた、おばあさんになっているから、よくわからない。

1オクターブ高い頑張り

2021-08-06 | 日々のこと
わたしの周りには、普通の中規模おぼっちゃまがいっぱい。
地方、田舎のプレスリーである。

よくよく考えてみると、彼らはおぼっちゃまなのではないか(=おぼっちゃまだ)と思う。
おら、東京さ行く、パターンではなく、学校は遠隔地であっても、やがて地方に戻り、土着の道を歩んだ。
ひと旗揚げる必要はない代わりに、既存のものを受け継ぎ継承させなければならない。
勝利投手には名が上がらない、中継ぎの地味な役目。
プレスリーのように、決して目立たない。
縁の下の力持ちなので、目立つ必要もない。

飛び抜けて優秀な人は東京で偉くなったようだが、地方には戻って来ない。
その子孫たちは東京人となって、都会に馴染んでいる。
都会なら地価も高いだろうからピンチに遭っても家を切り売りしたりして、窮地を切り抜けられることだろう。

さて、土着の地方のおぼっちゃまたちは、、、。
コロナなど経済学者では予想できなかったパンデミックが発生したりすると、都会のメリットとされていたことがデメリットに転じたり、東京一極集中は益々再考に拍車がかかる。
そこで、地方は、良いよね、の動き。
リモートワークが推進され、会社の本社を丸ごとリモートした企業もある。

それはそれとして。
わたしの身近なおぼっちゃま達。
おじいさん達である。
過去のおじいさん達も含めて、おぼっちゃま、、、ではあるが、頑張ってきた。
時代の波、色、特徴もある。

と、それがどうした?
という流れになってしまった。
今日は、ツッコミ、〆、総括、結論に導けない雰囲気。
で、話題を変える。


姑の初盆を迎えるにあたって、親戚や関係者からお供えが届く。
お礼の電話をするのが、強烈に苦痛なわたし。
礼状なら何十通だって平気だが、生の声は大、大、大の苦手。
業者ともインターネットでのやり取りが楽。
何しろ、わたしは生身のお付き合いが嫌いなのだ。
自然体で接することが、自然に出来ない。
右足と同時に右手が出る感覚。
文章だと、すらすら。
気持ちが本人のbodyから抜け出し幽体離脱して、指先で文体で脳内を表現する。
(得意分野もそれぞれ。
絵や音楽、踊りで表現する人もいるだろう)

だが、実際リアル表現は、入れ物bodyだけのわたしが、脳からの指示待ちをしている。
で、お礼の電話を(かなり自分に鞭打って)していると、次女が一言。
「1オクターブ高い声、出して頑張ってるなあ」
これは、評価してくれているのか、おちょくっているのか。
その時のわたしは、余裕がなく、むっとした。
理由などないのだが。
頑張りを見抜かれ、茶化されたような気がして、気分を害した。
やはり、人間は余裕がないとだめだ。

わたしの美学は、頑張りが外に現れないこと。
いかにも頑張っている感ありありは、ゴムがパツパツに伸びきって、カッコ悪く、なんだか悲壮感さえ漂う。
全然平気で楽々鼻歌風、涼しげ、そよ風がわたしの理想。
実際のところはそうなるには水面下では必死で努力しているにしても。
とは言え、結果論。
結果が良ければ全て良し。

と、ここでLINEが入り、喜びの報告だった。
長女から。
わあ〜、やったぁ〜、頑張ったね!
今から暑い暑い、きつい夏をもうひと夏も、ふた夏も乗り越えなければならないことになる長女だが、応援は惜しみない。
「ばあちゃん、嫌い! 帰って!」の、いじめっ子(3番目孫)、4歳意地悪っ娘のイジメにも耐えようではないか。
がんばれ、わたし。



暑い夏の思い出

2021-08-05 | 思い出
わたしはエコ主義。
余計なエネルギーは極力使いたくない。
最小のエネルギーで、目標に近づけるよう、手抜きに関しては最大の努力をする。

お金で時間や労力、技術を買うこともあるが、生まれつきドケチ。
よほどのことがないとお金を使わない。
自己擁護すると、倹約家、節約家なのである。

ちなみに、わたしは、田舎育ちなので自然派でもある。
が、虫は苦手、大嫌い。
最近、1番の幸せを感じる瞬間は、猛暑なのに一瞬、自然の風が吹き、風を肌に感じる時。
わあ〜と、理屈抜きで感激する。

わたしが幼い頃、過ごした田舎では祖母が季節毎に、暑さ寒さを凌ぐ工夫をしていた。
夏には打ち水、御簾、風の通り道に、涼しげな色柄の、のれん、、、。
(母は、夏の建具、調度品に交換)
子供の頃は祖母が我々きょうだい(孫)の世話をしてくれた。
井戸水をスイカと共に汲み上げる。
冷えたスイカだ!!
子供ごころに、わくわく。
土間の食堂でガブリかぶりつく。
夏野菜、キュウリ、茄子、トマトを畑から採ってきて食べさせてくれた。
が、子供のわたしは、またぁ〜と、げんなり。
とは言うものの、季節ごとの野菜を食べさせてもらったのが、今の健康な身体の基本を作っていると感じる。
ただし、野菜ばかりでうんざりしたけれど。
だが、そのなかで、祖母の作るコロッケは大好物だった。
それと茄子の素揚げも。
おばあちゃん、ありがとう。

明治25年生まれの小柄で無口な祖母だった。
大人しいが忍耐強く、芯は強い、明治の女性。
(嫁である母とは真逆。
強いところは同じだが)
88歳まで一人で田舎の家を守っていた。
祖母は「88歳になるまでは一人で頑張る」と言っていたが、その信念は貫いた。

わたしに長女が生まれてから7ヶ月後に、この世を去った。
小さいけれど、頑張り屋さんだった。



眠くなる話

2021-08-03 | 読む人々には興味ない話
疲れる毎日。
暑い季節はそれだけで負荷がかかる。
日本に住んでいたら宿命か。

さて。
ポスティングされていたミニチラシを孫が持ってきた。
毎日を楽しく過ごす極意、良いことが書かれていた。
写真に撮って、データ・キープしたわたしは、なかなかのものだと感激した。
まるで宗教への誘(いざな)いだ、と感心していたら、なんてことはなく、宗教だった。
あのチラシの文章の次には、どんな宗教が来ても、どんな会社案内が来ても、どんな倶楽部案内が来ても、どんな商品が来てもいけそうだった。
プレゼンの資料として保存しておくと使い道があるかも知れない。

その宗教をググッてみると、新興宗教だった。
ちなみに、わたしは、宗教は毛嫌いしている。
大学をはじめ、政党まで持っている宗教もある。
絶大な力。

次女にミニチラシを見せたら、街を歩いていると、宗教の勧誘らしきものを何度か受けたことがあるという。
いつもは、「急いでいるので」と立ち止まらず無視するかっこうだそうだ。
だが、ある日、20歳ぐらいの純粋な感じの女の子が、ベテラン会員さんといっしょに勧誘活動をしていて、ちょっと話を聞いてみようかという気になったらしい。
聞けば、田舎から出てきて知り合いもなく寂しい状況だったところをその宗教に誘われて入ったら、寂しさも飛び、満たされた毎日に変わったとか。
その話を聞いた次女は、「その20歳ぐらいの女の子の母親に知らせてあげようかと思った」と言う。
まだ社会経験も浅いのに、都会で変な宗教に片足突っ込んでますよーー、と何も知らない親に注意を促す、、、。
本人に警笛を鳴らす以前に、親に知らせたいという次女だが、次女はすでに社会経験を少々積んで保護者の心境か。

一方で、親が信じる宗教に子供を巻き込むのはいかがなるものか。
洗脳に他ならないが、家庭内のことには外からは介入出来ない。
子供が成長して自分で考える力をつける前に、強制的にパワハラで子供を洗脳するなんてことは、自立を阻む。
良い教えだけを抜粋して正しい道徳心を植え付けるのなら悪くないが、行き過ぎ、エスカレートする危険性がある。
学校の倫理の授業のようなら良いが。

宗教には共通する教えはある。
だが、相容れないものもある。
偶像崇拝か、禁止か。正反対。
歴史的に重みのある日本古来の仏教も、日本でアレンジされたとしても、インドから始まり中国などの大陸経由で大筋やって来たのではないかと、うすぼんやりおおまかに想像している。

ある新興宗教の信者さんが不治の病にかかった。
枕元にはズラリとその宗教関係者が病人を囲んでお祈りする。
結局、その人はしばらくして亡くなった。
その様子を見ていた友人の人はつぶやいた。
「なんの力にも役にも立ってない」と。

しかし、本人にしてみれば、こころが救われたかも知れない。
周りから見ると、ばかばかしいとしても。
どんな悲惨な悲劇のどん底にいても、宗教が自分を救ってくれるなら、立派なものだ。

「あなたは、神の元に召されます」
そんな教えがある宗教があるとしたら、喜んで神の元に召されるのかも知れないが、悪用されると大問題、社会問題だ。
国ごと、一丸となって突き進んでいた時代もあった。
深刻である。

ある記事で紹介されていた話。
死ぬと、自分は死んだことがわからない。
客観的には、死は存在するが、主観的には死は無いそうだ。
だから、心配しても始まらないとのこと。
あっけらかんとして明るい。
ふむふむなるほどと納得できた。
考え方も色々。
自分が好きな考え方を選ぶとよい。
選択肢が多すぎて、眠くなりそうだ。
残された自由時間を使ってしまうには、あまりにももったいない。
不眠で睡眠不足の人にはちょうど良い睡眠導入剤になる。
わたしには、たんに集中力や緊張感が持たなくなるだけの話である。
眠るのが大好きで、大の楽しみ、というのも、立派な教え、生き甲斐の一つだとか。
(冒頭のミニチラシに紹介されていた)
眠り姫であるわたしは、「眠り教」の幹部ぐらいにはなれるだろうか?
否、なれない。
ただ自分が快眠を貪るだけで、人のことなど眼中にないから。

またまた長いだけの、睡眠導入記事になってしまった。