蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

他人事にいちいち感想を抱いてしまう

2023-05-18 | 日々のこと
近所の自治会館で、折り紙講習会が行われたようだ。
参加されたご年配の皆さんが、バス停でバスを待ちながら話していた。

ご年配男性が、
「折り紙は、月面着陸の際や、太陽エネルギーを集めたり、重要な有益な叡智が凝縮されていて、NASAでも利用される、日本の誇れる技術の集約なんですよ」
と蘊蓄を熱心に語られる。
しっかりした口調で、1ミリ※の言葉の間違いや詰まりもなく説明されていた。
(※正しい日本語としては単位は「1ミリ」ではなく「一言」または「1単語」または「1用語」。使い方が間違ってますよ、と指摘される方がおられるので)
綺麗な理路整然とした知的な日本語に、頭の良さを感じた。

ご年配女性が、
「素晴らしい知識ですね。なんと賢い人!
優秀な頭脳を活かされて現役の時はさぞかしハイレベルなお仕事をされていたのでしょうね」
と絶賛されていた。
どんな仕事をしていた、とかの話の流れになる前にバスが来た。
わたしの座席の前にそのおじいさんが座ったのだが、彼は降りる際もわたしの前に並んだ。
並んだまま自分の順番が来た時に両替をしようとした。
新500円玉はバスの両替機では出来ないため、運転手さんは特別に自分のズボンのポケットからお金を出して来て両替の補助をした。
おそらく新500円両替トラブルはよくあるのだろう。
想像するには、旧500円玉と替えてくれたのか?
それをまた両替に入れ、がちゃんがちゃんと小銭が出てきて、、、そんなこんなで、時間がかかり、わたしは両替時間をじーっと後ろで待つことになったが、予定より30分も早いバスに乗っていたわたしは、余裕。
おじいさんが降りてくるのを折り紙メンバーの年配女性たちが、バスを降りて数メートルのところで待っていた。

さっき、頭イイ!と、ベタ褒めしていた女性が、「両替する時は、最後に並ばないとダメですよ」と言った。
そして言わなくてもいいのに、「せっかくカッコイイこと言ったのが、台無しですね」と。
そんな余計なことを皆んなの前で言う女性は???
さっきの褒め言葉はなんだったの?と、そんな、おじいさんに恥をかかせるようなことをわざわざ面と向かって言う神経には著しく甚だしくわたしの胸はザワついた。
学問より現実よ!と、いくら偉そうなこと言っても日常の簡単なことも出来ないようじゃ、あかんね、と(さすがにそこまでは口に出して言及しないが)勝ち誇らんばかりにおじいさんに上から言い放つ、その感性。
絶対にお友達にはなりたくないタイプ。
親切で、お節介なのかも知れないが、センシティブな繊細なゾーンをズカズカ土足で、わたしの感覚からすると軍靴で、踏み込んでくるイメージ。
趣味仲間とは言え、少しは気を遣っていただきたいものだ。
言ったご本人はおそらく何も感じていなくて、言われたご本人もまるで気にしてない可能性は大。
傷つけてもいないし、傷ついてもいないかも。
人のことは、ほっといたら?
そんなことより、自分はどうなの?とお叱りを受けそうな、けしからんかも知れないわたしの感想である。

鈍感力は傷から身を守り、人を救う、、、
場合もあるし、救わない場合もある。
人それぞれだ。



恥を恐れず前向きに

2023-05-17 | 老い
あまりにも長い前回の記事。
ざざざざーーっと、スクロールしていただければ幸いかと思います。

わたしは何かを考える時、書いて煮詰める癖があるので、行き着くところまで書く。
あくまでも、結論は何?が知りたいために、書く。
なかなか結論に導けない時は、、、
ただただ駄文がダラダラ続く。
というわけで、読み手側のことは、全く考えていない、わたし以外の人にとっては疲れるブログになっている。
自分を救うための、サービス精神ゼロ、ブログ。

さて。
それはさておき。
わたしのオモチャはやはり文字。
iPhoneに元からくっ付いている別機能で、自由に何でも描く「フリーボード」というものがある。
フリースタイル、フリースペース、文字も、絵も写真も、形も色とりどり、なんでも描ける、、、のだが、ちょっと触ってみて、やめた。
なぜなら、、、スマホ作業だから。
パソコンならいざ知らず、スマホは画面が小さい。
(背中を丸めそうな)一定姿勢や、連続して画面を見続ける目が気になる。
どこでも移動中に作業出来るが、バッテリーも減るし、そんな作業をわざわざ外でするなんてことは、よほど時間を潰さなければならない事態に遭遇しなければ、やらないだろう。
ブログを始めた頃なら自分で絵?らしき落書きを描いていたが、あれはパソコン操作だったし、今は面倒でやらない。
やるとしたら、簡単、単純、文字と写真。
これは実に良い便利なオモチャである。

が、オモチャで遊ぶほど、わたしは退屈していないので、何か書きたいことがないとつまらない。
自分の関心事や思いを一気にアウトプットしたい。
だが、無知丸出しがバレバレのことは文字で残したくない。
公の場ではない非公開のプライベートな場で、ぺらぺら喋ってお終い。
政治や宗教、国際事情に対する、怪しい知識からの薄い軽薄な感想を一気に一方的に喋って10分?ぐらい(体内時計カウント)、相手は猫でも仏像でも何でもよいが、一応、有機物が対象。
目の前にいる生きた人間が相手であるが、相手は聞いてないので、引っかかりがないため、わたしも気持ちよくぺらぺら捲し立てることができる。
たまに、どう見ても(どこかに載っていた情報の受け売り見え見えで)全くわかっていない人が社会を語る話に、付き合うことがあるが、わたしは話が通過して終わるのを静かに待っている。
が、家族を相手にぺらぺらはやらない。
なぜなら、家族にうんざりされるのが見えているし、わたしとしては、うんざりされたくない思いがある。
特に娘たちを相手には、もうあまり話さなくなった。
彼女たちは、わたしの言っていることを理解しようという気持ちで耳を傾けるのは疲れるし、全く無視されているのに(明らかに聞いていないのに)、一方的に話すのはわたしは嫌だ。
もっと歳を取り、まったく人のことなどどうでもよくなったら、一方通行であろうがなんであろうが、自覚なしに喋るだろう。
娘たちも、たまに接して介護親孝行なら聞くフリをしてくれるだろう。

かと言って、ブログはちゃんとしているかというと、全くいい加減だが、主観の内容が主なので、正解は一人一人異なる。

若い人はいいなあ、成長は眩しいなあ、と喜んでいたのも束の間、
アブラの乗り切る年齢に差し掛かかった子供たちとは、彼らが関わる最新の出来事にも理解も追いつかず、話にも着いて行けず、もう接点もなくなりそうだ。
彼らの目を見張る成長&活躍、減少する接点、、、。

で、お年寄り(同世代)同士で、お互い聞いていない、好きな話を順番に代わりばんこにするのが、無難で平和だと感じている。
やはり同世代の仲間は貴重だ。

若い感性や知性の輝きを浴びるにも、受け手自身の感受性、理解力が劣っている現状を、若い側も老いた側も感じている(はず)。
かと言って、理解できなくても、たまには刺激を受けるのは脳の活性化につながる。
恥ずかしいと尻込みせず、わからなくても挑戦するのは良いことだ、と思う、最近のわたしだ。




わたしの愛の行方

2023-05-16 | 老い
わたしのブログは著しく宙ぶらりん。
等身大の自分を軸に書いている。
が、等身大が、あっちこっち極端な要素を抱えて分裂、分断していて、まんなかの平均値を取ると、わたしではなくなる。

昔、昔、、、
わたしが若い独身の頃、、、
お付き合いしていた相手を見るとよくわかる。
自分に相応しい相手というものを勝手に自分で想定して設定したため、歪みが生じていた。
お付き合いしても、瞬時に壊れる。
つまり、続かないのだ。
お付き合い経験なし、と同じ。
そもそも、お付き合いの定義がおかしかった。変。
お人形のように血が通っていない。人間なのに。
付き合うというのは、共通の何か、接点があり、お互い好意を持ち合い、共鳴し、進んでいくものだと思う。
結婚や恋愛になると、途端にギクシャクする。
その人と結婚する気がない。
逆もある。
わたしがその気満々でも、相手はその気がない。
なので、深い関係にはまるでならない。
電車は信号待ちで止まったまま。
付き合ってその結果、結婚があるのが順序。
なのに結婚を前提とした途端、がらがらと間柄が崩れてしまう。
遊び期間がない。
今、思えば、恋愛コースに限ることなく、広くお友達や仲間でも良かったのに。

人間性そのものを見ようとしなかった。
というより、そういう目が育っていなかった。
未熟にも程がある。
人に責任を転嫁して気持ちを楽にしようとするとすれば、親に洗脳されていた。
洗脳を解いて自分独自の道を歩き始めるのが自立の第一歩なのに、それをしなかったのは自分である。
なので、その方面の情緒が未経験、未踏のまま今日に至る。
もう枯れているから、火をつけても燃えない。
ではあるものの、とても良い調子だ。
嘆くわけでも後悔するわけでもない。
自分が歩んできた道を全面肯定している。
理由は、、、今が良ければそれまでは何でも良い。
懺悔とか、しない。

ただ、老化に対してはアタマの中だけでの想像や予習、予備知識だったので、実践を積み重ねたのではないから、ある日、突然、教室の引き戸をガラっと開けたら、頭から金属製の洗面器が落ちてきたようなかんじ。(昭和のギャグ)
落ちてきたのは、チョークや黒板消しではなく。

心構えがちゃんと出来ていなかった。
若い頃は、若さを享受しながらも、若さを失った先の自分を想像して、あまり若さ故の勘違いで天狗にはならないように自戒していた。
今度は、同じ若さでも、また色合いが違う。
老年へ。
前回は、若者から中年、充実期への以降。
それを超えたこの段階で、いよいよ中性になる。
外見も中身もダウン。老化。
へんに自分の特性である「女性」を意識しても、肉体とはかけ離れたところで「女性」。
女性は灰になるまでオンナだと言われているが。
女性としての肉体が不在なのに、魂だけ女性だなんて、、、。
LGBTQの概念、意識を一から学んでいるような気になっている。
女性でも男性でもない。老人的中性。

さてLGBTQ。
生まれた時の体が女性で、心が男性の人。
またはその逆。
女性の身体、女性の心で好きになるのは同性の女性、あるいは異性の男性、あるいは両方。
元○、現○、好きになる相手は同性または異性または決まっていない。
相手も、元○、現○または、同性または異性または決まっていない。
・・・ややこしい。
何通りのパターンがあることやら。
数式が必要だ。

整理すると、自分に関しては、
生まれた時は体は女性で、見た目も女性であることを好み、自分が好きになる相手は異性(男性)。
その相手は生まれた時の体は男性で、見た目も男性であることを好み、好きになる相手は異性(女性)。
これが基本情報だが、生まれた時の体が女性である事実は不動だが、老年になって体は元女性であっても女性としての機能は衰え中性に近づくのだが、精神的には女性のままであり、好きになるのも異性(男性)。
あまり変化や問題はないように思われるが、一つだけ変化があり、体が元女性で中性になったこと。

異性(男性)が異性(女性)を好きになるとすると、わたしはその相手範疇から、はみ出る。
元男性が女性になった現在女性という人と同じグループに属する?
肉体も、外側だけの形を変えても、臓器までは取り替えられない。
病気で心臓や腎臓移植する人もいるから、子宮を移植して女性になるケースもあるのだろうか?
健康な子宮を取り出して他人から移植されるよりも、健康な子宮を本人の身体に入ったままお借りして子供を生み出すほうが自然な流れ。
肉体的に自分が(例え移植されたものでも)子宮を持たなければ完全に女性になった気がしない、という超こだわり屋さんがいるとしたら、、、最新医学と倫理との擦り合わせをして検討していただきたい。
基本的に病気を治す目的ではない場合は、倫理的な側面から臓器には手を付けないとされている。
健康な人の健康な臓器を、病気の人に移植することはあっても。

とすると、老女になると、臓器は女性特有の臓器が老化しただけで、そのせいでホルモンの影響を受けて女性らしさは失われた中性に近づいていく。

ところで、
体は元女性、現在中性の女性を好きになる相手はどんな人か。
女性で異性が好きな場合、相思相愛になるには相手は男性であるのが望ましい。
元女性の男性でもオッケーか?
いや、わたしの場合、性転換した人とお付き合いする嗜好はまるでない。
相手からオファーがあれば、その時考えるとしても、普通は元・性同一性障害の人同士がペアになるほうが、すんなり行くと考える。

もし、元女性で現在老化女性のわたしを好きだ、素敵だと思ってくれる人がいれば、元女性であっても、バイセクシャルの人であっても、トランスジェンダーの人であっても、何でも良いのだが、、、それ以前にどんな人であっても恋愛感情を抱いたり、肉体関係に移らないと想像する。
男女に限定されない人間愛に移行している。
性別の垣根は超えてしまい、性別そのものが消滅している。
それが老化なのか。
かわいいおばあちゃん、元女性。

わたしが愛を注ぐ相手は、世界中の生きとし生けるもの?
とはいうものの、宗教家ではないので無理だ。
目指そうという気持ちも全くない。
無理して精神を高めたり広げるのではなく、自然派、土に還る派か。
大して豊かな愛をたっぷり持ち合わせているわけではないので、大きく手を広げても愛が自然増しない分、薄まるだけ。
それなら有機野菜を育てるように、自分の滋養を土に還して、地に足ついた余生を送りたい。(わかりにくい説明、自分だけがわかって陶酔系)
自分を濃縮させたエッセンスをぽとり土に垂らす。
液体にならなければ、気化するか、小さく個体にまとめて土に埋める。

出来の悪い偽瀬戸内寂聴みたいなかんじ?
言い過ぎ?
が、決して今東光ではない。
世俗に背を向けるのではなく、身に張り付いた垢は無理やり剥がさず、強制的に除去しようとせず、そっと騙し騙しそのままにしておく。
無病息災ではなく、一病息災。


本日の記事、長すぎました。
自分の人生もそう思うことだろう。





子供1人既婚40代主婦

2023-05-15 | ブログ
セミリタイアを目指す40代パート主婦さんのブログを初めて読んだ。
子供1人あり。
セミリタイアまでの道のりが楽しくて仕方ないそうだ。
完全リタイアはしない、心身に悪いから、とのこと。
それ、面白い。
心身に悪いのか。なるほど。

年齢、ライフステージを軸に、収入を細かく分けて、自分の目標を定める。
数字に強いと見た。 
仏像彫り師とはまた違う世界観。

この仏像彫り師さんも、NHK ETVシニア番組「あしたも晴れ!人生レシピ」で紹介されていた。
同じような年齢、状況。既婚主婦、子供2人?大卒。
お金に振り回される人生は嫌になったという彫り師さん。
かたや、仕事が大嫌いの、自分が生み出すお金計算の上に幸せ実感が成り立つパート主婦さん。
主婦にも、見る角度によって違うが、本質に迫りたい、自分と対峙する試みは同じ。
真摯な実践派。

昭和人間のわたしにはまるで隔世の感、、、かと思いきや、そんなことはない。
時代の価値観が推移していっているだけで、自分自身は同じ。
潮流が変わるだけで、自分は自分。
わたしに関して言えば、時代に振り回されることはない。

明治生まれの「姑の姑」は、女性も手に職を持ち仕事をするほうが良い、と、ひ孫に勧めた。
姑は、結婚は人生で一度はしたほうが良い(後で離婚したとしても)、と孫に勧めた。
男性に保護され従え、とは言っていない。
とは言え、バリバリ仕事を持って外で働いたかというと、姑たちは家庭内で働いた。
だが、本人たちの意識では男たちに雇われた感はない。
ではあるが、実際のお金の流れも知っている。
先人たちは、強かにしなやか生きてきたと、わたしは感じる。
大きな戦争や自然災害にも遭う中で。

清濁併せ持つ。
理想は理想、現実は現実。
でも夢や希望、目標は生きる糧。

貨幣経済に振り回されないで、お金に解放されたという彫り師さん。
彫り物(作品)と食べ物と物物交換もする。
原始的な基本的な動きが気持ちを心地よいものにするそうだ。
こころの拠り所は、人それぞれ。
自分1人だけ凝り固まるのではなく、自分も活かし、家庭も持ち、子供を育てる。
その境地に至るまでには紆余曲折があっただろう。

お金になぜそんなに執着するのか。
健康を保ち、衣食住を快適に毎日を過ごすのに、どれぐらいのお金が必要なのか。
人それぞれ基準が違うだろうけれど。
贅沢だと捉えられることが、個人の感性によって異なる。
その感覚が同じ人と時をシェアするのが理想。
安心安全を得るために、仮に地下シェルターが必要だと考えるとすると、日本人はどれぐらいの人がクリアしているか。
政府要人とお金持ちのノアの方舟。
タイニーハウスの真逆。
色々だ。

頭の中を整理して何が大事か、あれこれ取捨選択する。
それを行動で現すのが断捨離らしい。
寝袋一つで十分な人もいるだろう。
人のことなどほっておいて、さて、自分は?


少し前に、趣味SNSで、わたしが人の行動の考察を書く度に、「人のことばかり見て、肝心のあなたは、どうなの?」といつも反論をコメントを付けてくる人がいた。
わたしとしては、「ほっといてちょーだい、あなたこそ、人のことなど構わずに自分の感性で突き進んでください」という気持ちだった。
コメントにはそうは書かなかったが。

自分の道を模索するための試行錯誤のあれこれのために、人の行動や方法を参考にしている段階、プロセスなのに、書いて脳内整理しているのに、いちいち、「人のことはほっておいたら?」と言われると、「そうじゃない、そういう、他人を評価したいわけではなく、自分の参考にするため、自分を定めるため、良くも悪くも道標にするために他人の行いを見ている」わたし。
いつもコメントされる度に思っていたが、やがてその人はコメントは付けなくなったものの、わたしのページに(訪れた)足跡は付いている。
気になるのだろう。悪い意味で。
嫌いなら無視していただくと良いのに。
わたしは、一生、モラトリアム、、、だから未完成。どこかが欠けている。

色々な人がそれぞれの場所で生活されているのを見ると、今の私には刺激になったり癒しになったりはするが、、、
もちろん素晴らしい、感銘を受け涙することも度々だが、悲しいかな単なる暇つぶしになっていると鈍さを感じることがある。どよ〜ん。
これは、わたしの感性がどんどん衰えている現れだと思う。
就寝中、夢でも、わたしの衰えを示すような内容の夢を観る。
まだわたしは自分の衰えを客観的に受け入れられず、意識下でも、無意識下でも、あがいているようだ。






母の日プレゼント

2023-05-15 | 日々のこと
牡蠣パーティは無事終了。
娘婿は帰り、次女母娘は、そのまま我が家にお泊まり。

次女と長女のLINE話合いの中に、
「おかあさん(わたし)は、今日は予定はないらしい」というくだりがあった。
わたしは、予定が土日ともにあったのだが、キャンセルして家族行事を優先した。
そうグループLINEに抵抗、申し開きしたら、長女に「忙しいアピールしている」と言われ、ちょっと気を悪くした。カチン。
たまたま土日にイベントが重なるので頑張って家族を優先しているのに、そう言われると心外である。
が、そう思われるような日々をこれまで重ねてきたこともある。
自業自得、因果応報。
ちびちゃん(孫)は、あっという間に大きくなってしまうので、小さいうちの一瞬、一瞬を大切にしたい。
孫が産まれていなければ、そうでもなかったか?
ではあるものの、孫はすぐにばあちゃんなど相手にしてくれなくなる。
孫にとって、ばあちゃんなんか、なんのメリットもないけれど、かわいそうに思って慈善やボランティアのつもりで接してくれることだろう。
わかっていること。
いいじゃないの、接してくれるだけでも。
仲違いして顔も見られないより。
理屈抜きに愛を注ぐ対象があるのは幸せだ。
そのうち、孫の顔を見ても名前が出てこなくなる。
よくよくそういう時間の流れは、姑や実母を見てきて嫌というほど身に染みて経験している。
ま、それが無常というもの。無情ではない。
これは、一種の仏教の教義でもある。
何ごとも執着してはいけない。
「今」という時間は存在しないらしいけれど、わたしはよく意味を理解していないので、深く追及しない。
今、この瞬間は存在していると思っているので。
仏教的には違うらしいが。
仏教家にも宗教家にも啓蒙家にもなるわけではないので、わからないことがあっても別に立ち止まらず、さらっと流す。
疑問のまま抱き続けていたら、また別の機会に少し理解出来るかも知れない。

それはそうと、母の日でプレゼントを貰った。
別にそんな世間のお仕着せ忖度ルールを守らなくてもいいのに、という母の日プレゼント反対派だが、実際に貰うと嬉しい。
気持ちが嬉しい。
息子からは電子花束ギフト。
スマホの購入手続き済み画面を見せて、お店でリアルな花に替えるもの。
金額もバッチリわかるところが、面白い。
金額より少ないお花を選んでもお釣りは出なくて、価格オーバーしたら足りない金額は足すシステム。
近所に取り扱い店舗が1店しかなく、その店の口コミ評判がまた悪いこと。
まあよい。
5ヶ月先の期限日までに、お花をゲットして期限切れにならないようにしなければ。
長女からは、昨夜の牡蠣フライに不足していたサラダ油(1本)と、回転寿司、ご招待。
次女婿は、きのこチキン・グラタン、ネギお好み焼き、タルタルソースを自宅で作って持ってきてくれた。
グラタン、お好み焼きは、タネを準備して我が家で焼く。

それにしても、母の日、回転寿司屋さんの激混みなこと。
コロナも収まりつつあり、飲食店に蘇り感が濃厚、活気がある。
母の日も悪くない。

ダメ押し、最後に別の1通LINEが、深夜、息子から来た。
「ババの日、おめでとう」
せっかく花束で喜んだのに、何、これ?
息子のセンスには時折、着いていけない。

蛇足。
長女に電子花束プレゼントを回転寿司店で待ち時間に見せたら、「LINE、友だちに招待したら?」との進言。
で、そう言えばLINE友だちにしてなかったと帰宅後、招待に操作した。
それでかなあ??ババ追加LINE。



牛でももっと動く

2023-05-13 | 日々のこと
今、やる気エネルギーをチャージ中。
前から予定があった、神戸港町、異人館街のお散歩を泣く泣くキャンセルして、代わりに押し込んだ今日の我が家での合同食事会。
神戸は生憎15時頃から雨のようだが。

それより、我が家。
(サボり)チャージしながら横目であちこちにある埃が目に入る。
早く掃除しなければ。
散らかる部屋。
早く片付けなければ。
シャワーを浴びて、パジャマ部屋着から普通の部屋着に着替えるのは、掃除が終わってから。
掃除、早く早く早く、、、、早くしなければ、、、いつになったら取り掛かる??
と、いつもの追い込みパターン。

この追い込みプランに、食事準備時間を計上していない。
そもそも食事会なのに。
美しくない室内ばかりが気になる。
おそらく、食事準備は時間切れとなることだろう。

牡蠣フライのサラダ油が不足気味なのだが、それ、誰か買ってきてくれないかなあ。
サラダ油が無いと話にならない。
あまりにもキツキツ、カツカツ。
50個か40個、牡蠣フライを揚げるのに。
一番小さいサイズのサラダ油ボトルに半分しか残っていない。

いつもわたしは、こんなかんじ。
追い込まれないと心身が動かない。
長い時間をかけて前々から身体を動かして準備するのではなく、全く心身や脳を動かさないで、やる気を溜める。
というか、やる気がなかなか起こらない。
やる気なし持病にはほとほと困っている。
とは言え、どれぐらいの時間で出来るか、だいたい目安を測り、もう動き始めないと無理という時間が来ると動く。
タイマーが作動。
時間に余裕を持つ方が丁寧に、しっかり出来るのに、時間がないと行動が粗くなる。
見落としもあるし、急なトラブルに対応出来ない。
前々から少しずつやっていると、いざトラブルがあっても対応できる。
にも関わらず、わかっていながらギリギリにしか動かない、動けない。
我が家に皆んな集まってくれるのに、明るく楽しくゲストを迎えないと、、、と有り難い気持ちで感謝しないと、、、
なのに、いつも、行動の前はどんより頭に重いものが載っている。

旅行もそうだった。
どんより。
ミニ憂鬱。
だが、行く直前になったら、腹をくくる。
楽しいことがあるのに、待ち遠しいのとは真逆の、なぜか気が重くなる。
テコでも動かないサボり気質がわたしを悩ませる。
お尻に火が着いてもまだ動こうとしない。
これは一種の病気か。

そうこうしているうちに、娘から、あれ要る?これ買って行こうか?と手助けのLINEが入る。
動かない牛(わたし)と、協力隊の娘達。
うまい具合に出来ている。
どうやらサラダ油、持ってきてくれるらしい。

今後、ますます動かなくなるんだろう、牛のわたし。
牛の置物になるに違いない。
さて、あと2時間サボって、始動しよう。





おばあちゃんの幸福

2023-05-12 | 老い
おばあさんになった、わたし。
「祖母」には10年前から、なっているが、今、新たに、実質的老女に格上げされた。
格下げではなく、格上げである。

自分の腕をふと見る。
腕だけは細い。
肉が付いていない細い腕。
細かい「和柄」(日本の伝統的な柄)かと思うような、幾何学模様がカサカサ現れている腕の皮膚。
顕微鏡で皮膚を拡大したかのごとく。
ところが、、、倍率1倍。

これは、全然、自虐表現ではない。
事実を事実として書いている。
それに引き換え、
83歳のデビ夫人の美貌!
国会で生のまま、ほうれん草?をムシャムシャ。(CM)
お見それしました。
おそらくもう、何も思い残すことはないと思う。
やりたいことは、やり尽くした感がある。

市川房枝、沢村貞子、、、その路線から時代は、森光子を経て、草笛光子、さらにデビ夫人。
歳を重ねても美しい女性を目標に、憧れに、女性たちは将来を見る。
しかし、女優でもない、文学者でも政治家でもない一般人は、頑張らなくてもいいと思う。
そう思い、アンチ・アンチエイジングをわたしは一人唱えていた。
ところが、、、時代は20年も寿命が伸びて人生100年。
あと20年は、若く活動しなければならない。
それから、寝たり起きたり、健康寿命が揺らぎ始める。
なんと、長いことか。

和柄模様の皮膚に感嘆(マイナスの)している場合ではない。
寝たり起きたりを30年も続けるわけにはいかない。
まだもうひと踏ん張りしなけばならない、そんな歳。
でも、ひと踏ん張り、したくない。
シワシワでよい。だが、まだ、年齢が若い。
困ったものだ。

若い皆さんは、将来、一人につき一人の高齢者をおんぶしなければならない。
重い。気の毒。

かといって、姥捨山は令和の時代なら虐待、犯罪。明治でも昭和でも犯罪だ。
老人鬱なんていうものもある。
歳が行って生産性がないことをマイナスに捉えては、明るく生きていけない。
人間はだれでも生を受けたからには、老いる。
そんなことを嘆いていては、せっかく生きているのに、かえって罰当たりである。

ではあるものの。
今回の旅で思った。
半世紀近くも前に造られた、アメリカのアリゾナ州のサンシティのように、高齢者が集う街があればいいなあ、と。
快適なのは良いが、その一方で異世代間コミュニケーションや刺激がないのがネックらしく認知症などの弊害もあるようだ。
受け身だけではなく、積極的にキャリアを社会に還元できるような仕組みが作られているとか。
なんだか、ちょっとわたしにはピンと来ない。
理想的すぎて、現実味がない。

高齢になるとお金のあるなし、ではなく、好奇心があるなしがポイント、重要らしい。
両方ない人は?
と、憎たらしいことを言ってみても始まらない。
お金がなくても工夫すれば楽しく生きていけるようになっているとも思うが、引きこもりがちな孤独、独居の人には、絵に描いたようようには行かないのが現実かも知れない。

わたしは、政治家ではないし、高齢者向け美容家でもないので、はっきり言って、広く浅く遠く、自分と関係のないことには興味はない。
とは言うものの、自分の幸福の定義を自分で確定すると、幸福になれるそうだ。
だがしかし、実際のところ、そうそう定義出来る人は多くないと思われる。

さっそく、わたしの先ずは一つ目の課題は、、、見た目の老化にどう向き合うか。
中身もしっかり老化している。
自分の目標、対策としては、好奇心を持ち、積極的に活動しないことには、老化をそのまま引き受けることになる。
ではあるが、皮膚へお高い美容クリームを購入する気はゼロ。
皺にヒルアロイン酸注射をする気もなし。
フェイス、リフトアップもしない。
若い人が見ると老婆に映るだろう。
いいの、いいの。
老婆を卑下する自分には決してなりたくない。
誰か他者に認められたい欲求もない。
ただ一人、自分が自分を肯定したい。

さて、肯定するために、何をしようかな、、、と、、、
お天気、快晴、太陽ポカポカの一日を外にも出ず、コーヒーとFMラジオで終わらせようとしている、わたし。

言い訳は用意している。
明日、次女一家(超こだわりグルメ娘婿が頭痛のタネ)が晩御飯を食べに来るので、今日は目一杯サボっている。
サボりまくっている。
ああ、気持ちよいサボりタイムだった。

と、皺をまた増やしているが、良いのだ。
自分の幸せは自分で決める。
毎日が楽しければいいそうだ。
そう著名な宗教家が言っている。
サボる時にはその宗教家の教義?をいただく。
サボらない時は、それはそれでまた良し。
なんでもよい。

わたしにとって、幸福とは、、、限りなく自分を甘やかすこと。
だが、脳みそが溶けるのが弊害。
良いことばかりを望むのは欲どしい。
一つでも良いことがあれば、良い。


銀河鉄道の父

2023-05-10 | 映画
宮沢賢治。
その父の映画を観た。
「銀河鉄道の夜」は、読んだことはない、、、と多分思う。
小学生の頃に読んだかも知れないが、内容はすっかり忘れている。
が、宮沢賢治の名を知らない日本人はいないだろう。
わたしもその一人。
「注文の多い料理店」のタイトルは知っている。
が、中身はどうだったか?
読んだか、読まなかったかも忘れている。
ではあるものの、宮沢賢治の名前は、よくよく頭に刻まれている。
松本零士と混同することは、さすがにない。

で、映画。
賢治の父親役、役所広司、熱演。
祖父役、田中泯、怪演。
賢治役、菅田将暉、熱&奇演。
母親役、坂井真紀、静&快演。
妹役、森七菜、好演。

中でも、祖父に放つ、妹の言葉が心臓を一突き。
シンプルで的を得て、グサリと刺さる。
愛と理解を持った上での進言。
あの一言、すごい。
ここに書いてもいいか?どうか?
ネタバレになるのは避けたい。
が、誰も読んでないだろう、影響力もなかろう、わたしの人気のないブログなど。

認知症状が出て暴れる祖父に、
「キレイに死ね!」
と妹が言い放つシーン。

これは、よく端的に言い切ったものだ。
さすが直木賞受賞作品だけはある。
しかし、作家が生み出したものか?
この作品は実話に基づいているらしい。
多少の演出、脚色、創作はあるだろうけれど。
脚本はおそらく原作に忠実に作られていると推測する。
が、詳しいことや真偽の程はよくわからない。

最初から最後まで涙が出っ放し。
水分不足に陥りそうだった。

次の日の夜に、NHK TV番組「プロフェッショナル」で、病児病棟に勤務するチャイルド・ライフ・スペシャリストを見て、これまた涙が溢れ出た。
わたしはこれまで鈍感に生きてきた分、今頃になってウエット&ナイーブになっている。
どうなってる?
おそらく今までの人生、流した涙量が少な過ぎたのだろう。
琴線に触れて触れて、涙腺が敏感過ぎて、いやになる。

ちなみに、舞台となった明治の家屋、懐かしい。
というか、故郷の田舎の家を彷彿させる風情。
廊下越しの中庭や、せんだい(庭)。
あの規模の商家なら下働きの人が家の中にちょこちょこしていても不思議ではないが、女中さんや男衆さんらしき人物はいないようなかんじだった。
それと、妻(賢治の母親)の着物が美しすぎるような気がする。
外出着ではないなら、もう少し普段着っぽい着物を着るのではないだろうか。
もっと、いかにも木綿の質素な着物。
そういう木綿の衣服は、お百姓さんのいでたちか。

商家は、そうでもないのか?
わたしは昔の店舗兼自宅の商家を知らないので、知識不足である。

旅のまとめや感想も書かずほったらかして、映画を観たりして、全く違うことをしている。
何をしているんだか。
行動に統一性がない。
今日のブログ内容も、思いつくまま気の向くままで、まとまりがない。

ではあるが、、、
自然の涙を流すのは、癒し効果がある。


すごく老けて愕然とした

2023-05-10 | 老い
さて。
旅の話を書きたかったのだが、またの機会に。
トップ画像に、南国写真はずっと続くが。

写真と言えば、わたし、マスクを取った顔、表情筋が破滅状態で、写っている。
孫たちとの手作りブレスレットや、シーサーを使ったオブジェ作りの店でスマホ撮影したものを、家族写真共有アプリに長女がアップしていた。
その中の一枚を目にしたところ、姿勢といい、頭髪といい、表情といい、あまりにもわたしのおばあさんぶりに驚愕、落胆したので、先ほどアプリからの削除をお願いした。
たぶん、なかなか削除されないだろうけれど。
数年ぶりに見た自分の生写真が、想像を超えて老けていて、それはそれはもう、、、現実を直視せざるを得ないのだが、、、直視出来ない。受け入れられない。
手っ取り早い安易な方法は、直視しないで、写真をなかったことにする。
削除してもらう。そして忘れる。
現実が消えたわけではないのに。

日頃から、アンチ・アンチエイジングを自分のブログで主張しているわたしなのに、朝令暮改。
自分の老いを真正面から受け入れることが出来ない自分と、どう向き合うか。
これからの課題になりそうだ。
理想ばかり言っている自分、、、現実との乖離、、、ああ情けなや。

もう一枚、11人全員で記念撮影した写真があるのだが、これがまた強烈にわたしの顔がブサイクで、大ショックを受けた。
写真写りが悪いのだろう、写真の撮影の仕方が悪いのだろう、と思ったが、他のメンバーは本人と写真の写りは同じ。
わたしだけが実物とかけ離れて特別ブサイクに写ってるいるわけではないという客観的証拠を前に、シクシク泣いている(胸の中で)。
突然の老女の出現に、これ、わたし?と、おろおろしている。
これからは、老女(見かけ)に自分を合わせるか、あるいは、表情筋を鍛えて(顔の)巻き返しを図るか。
今のままでは見かけと意識が一致していない。
(頭脳能力が低下している自覚はあるが)
悲しい情けない擦り合わせである。
情けないと思うのであれば、見かけを若返らせなければいけない。
だが、見かけにとらわれ、ジタバタ執着するのは不本意だ。見苦しい。
とは言うものの、見かけが自分が思っている以上に老けていることだけは事実なので、これからは少し(調整するか納得するか)自分の中で変化があることだろう。

努力して見かけを磨くか(自然の摂理に抗って)、自信を失くして中身が更にゆるゆるヨボヨボになっていくか。
中身もかなり記憶力や理解力が低下している。
それは日々、はっきり決定的に具体的に知る出来事に触れ、中身も老化しているのはじわじわ認識済み。
それに伴って外見も老化していたことに対しての驚き。
なにを今さら。知らぬは自分ばかりなり。

旅に出て、写真や行動で、自分の老いを強烈に自覚した。
普段、日常、何もないと自覚する機会がないが、非日常の場で、自分の変化が目に見えることがある。
マイナスの変化なので悲しいが、事実は事実である。
悪あがきはしたくない。
が、まだ、写真はつい最近のことなので、感情が追い着いていない。
昼行燈を地で行く。

徐々に(マイナスの)変化に慣れていくのだろう。
新しい自分を受け入れるには、時間が必要だ。
しかし思うに、このブログ内容、思春期の子供と大人の間を、成長する肉体と未熟な精神の不一致プロセスを、身体とこころが行ったり来たりで揺れ動く若い人が悩むようなこと。
そんなキラキラ時期ではなく、衰える肉体、能力と、自意識の間で揺れ動く老女、、、フレッシュさがない、かわいくない、、、。
甘酸っぱさの代わりにあるのは、渋さを通り越して、苦さ?塩辛さ?
だが、これは、生を受けた生き物の摂理である。
自然の法則を前には太刀打ち出来ない。

そう言えば、70歳超えた母(当時)が、シワがあると嘆いていたのを、あきれて聞いていたのを思い出した。

楽しい旅の話を書こうと思ったのに、なんでこうなるのか。
次こそ、旅のエピソードを書こう。
(当てにならないが)


キックするのはやめてね

2023-05-08 | 
娘たち一家と、旅行。
総勢11名。
飛行機とホテルのみ予約。
楽しいな、楽しいな、、、には、ならなかった。
やっと帰って来れて、嬉しいな、嬉しいな。

初日は移動のみだが、すでに帰りたくなった。
バス〜私鉄〜地下鉄〜私鉄〜モノレールを乗り継ぐ。
旅先現地でも空港からモノレール。
非接触型交通ICカードで、皆んなスイスイ。
ま、待って〜、どこに入れた?カード?
リュックの中をゴソゴソしている間に、皆んな先々進む。
どこで降りる?
予習ゼロの、最後尾くっつき虫は焦る。
途中で、親切で敬愛なるジイ様から降車駅名がLINEで送られてきた。
が、、、
乗り継ぎ飛行機のEチケットが無いとかで、ANAアプリをインストール後、マイページから、チェックインしろとのこと。
12年以上前にANAの会員になり予約したことはある。
ANAアプリ??インストールしたものの会員番号だけではログインできない。
空港までのモノレール乗車中、立ったままでパスワードの設定をし直すため、登録アドレスへのメール着信を待ち、あれこれアタフタ。
早くしないと降りる駅に着いてしまい、空港にそのまま繋がる。
焦った、焦った、、、時間制限があり、車内だと他のお客さんと立ったまま揺れながらスマホを操作すると、降車駅が近づくにつれ焦ると余計に出来ない。
もたもた、冷や汗。こういうの、不得意。
一度に二つのタスクをこなすのは、苦手中の苦手。
で、、、空港ではギリギリ電子チケット読み取りが完了。
スーツケースお預かりは全て無人。
重量を測り、フライト情報を読み取り、タグが機械から出てくる。
以前は全て人がやっていたのに、隔世の感。
来るたびに機械が一新され変わっている、と、娘婿が驚いていた。

それはそうと、初日から帰るまで、常に小学生孫男児付きの部屋。
人数バランスから割り振り当てられた。
彼らの寝相は恐ろしく半端なく悪い。
運動会の夢でも見ているのか。
蹴っ飛ばされる側にとっては、甚だしく安眠妨害。
それにしても、男児君、寝ているのになぜ蹴る?
キック力がやけに強い。
それ、スイミングで活かしてね。

と、旅がスタート時からお疲れ様のわたし。
GWお天気に恵まれ、べたべた日焼け止めクリームを塗りたくった。
まる1日、朝から晩まで、気温、体温調整が出来る服をチョイスするのは難儀。
と、文句しか言わない(書かない)その姿勢、自省しよう。

キョロキョロ周りを見渡してもお年寄りは、土着の方(住民)のみ。
あんなに南方の果てまで、高齢になると旅行先には選ばないのでは?

長女夫婦は10年ぐらい前に、わたしは45年ぐらい前に行ったことがある、石垣島。

さて、楽しい話はまた後ほどに。
書き始めると、いつも自虐色が強くなるのは、マイパターン。