蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

キャンプのような荷物

2023-09-16 | 日々のこと
両手に荷物。
中身は、、、米、ソーメン、塩、梅干し、海苔。
まるでキャンプに行くようなノリ。
コンビニでオニギリを買えば種類も豊富だし、手軽で便利で美味しいのに。

自宅にある塩を塩入れに移し替える時に、塩がバサバサ溢れ落ちた。
この塩入れ、プラスチック製で、ミッキーマウスのミニーちゃんモチーフデザイン。
入れる穴が小さい。出る穴も小さい。
入れる人(わたし)も不器用。
底を見るとMADE IN Chinaとなっていて、12💲ちょっとの値段シールが貼られていた。
高い!
使いにくい!
いったい、いつの?
長い間、家にあったところから想像、推測すると、Disney Worldで買ったものと思われる。
とすると、30年以上前?
ふぅ〜、、、とため息。
ミニマリストや断捨離指導者が見たら、最も糾弾したくなる行為だろう。
まあいい。
新古品ミニーちゃん塩入れは30年ぶりに、息を吹き返した。(元々、使っていないから初めから息そのものをしていない)

この重い荷物を持って、電車に乗って、まずは1個目の目的地に向かっている。
これは近いから家から1時間ちょっとぐらい。
それを済ますと、電車を乗り継ぎ、次の目的地へと移動する。
今度は少し遠いから2時間弱はかかる。
その場所で、お米やソーメン、塩などの荷物を下ろす。
あ、ちなみに、キャンプではありません。


夜中の憂鬱

2023-09-16 | 日々のこと
バテている。
まだ一つしかタスクをクリアしてないのに。
明日から立て続けに予定が詰まっている。
疲れる。
わたしは何もしないのが楽でいい。

人から見れば、何にもしていないと思われるだろうけれど。
夜、いつも好きで見ているTVなのに、見ながら寝てしまった。
疲れているからなら納得できるが、(それも少しあるかも知れないが)、脳の働きが益々悪くなったと自覚する。

とは言うものの、夜はマイナスの気持ちになるようだ。
朝になればまたスッキリ目覚めることだろう。

老年の生きがいは?

2023-09-14 | 日々のこと
いつも訪れている人気ブログの記事に、「高齢者の生きがい」が紹介されていた。
「高齢者の生きがい」に、わたしの場合、ぴったり内容が当てはまる。
自分は高齢者なので、合点がいく。
当たり前。不思議でもなんでもない。

アグレッシブに攻めの姿勢ではなく、現状維持を望む。
守り。
健康であること、然り。
ある調査によると、「趣味」が、生きがいNo.1という結果だった。
納得。
「家族や孫との交流」も高順位だった。
わたしは至って普通の考え方、感性をしているようだ。
平凡そのもの。枠内に収まっている。
調査によると、「何にも考えていない」という項目もあった。
これまた面白い。
生きがいなんて考えてはいないが、何も考えないぐらいに、現状には気持ちの起伏がないのだろう。
ある意味、達観。
あるいは、脳の断捨離、省エネ?
あえて意識せず毎日を平穏無事に過ごしているのは幸せなこと。
でも、知らないうちに過ぎるより、なんらかの機会に、幸せだなあ〜と悦に入るのも幸せが倍増しそうだ。
が、不幸もあまり考えずに過ぎるのなら、いちいち一喜一憂していては疲れる。
不幸は見過ごし、幸せだけをズームアップするのが良さそうだが、そう簡単には行かない。
自然に任せると、不幸ばかりがズームアップになりそうだ。
時が解決してくれるようだが。
日にち薬とはよく言ったものだ。

それはそうと。
本日は、母の退院の付き添い。
朝7時から家を出て、1時間半、電車で立ちっぱなし。
通勤通学ど真ん中のラッシュアワー。
やっと今、座席に座ることが出来た。
まだまだラッシュアワーは9時まで続く。
母の入院する病院まで、遠い遠い遠い。はるかに遠い。
入院時は姉が付き添い、退院時はわたし。
入院中、一度も顔を出さず。
薄情?
いえ、薄情なわけではない。
立ちっぱなしの満員電車こそ、わたしは辛い。
しかも大都会。
わたしの大嫌いな、ごった返す大阪駅を乗り換え、経由する。難関、関所、越え。
通学、通勤の若い人ばかり。
通院のひとは、徒歩かチャリ(自転車)。
見事に分断、棲み分けがされている。

車内、席が向こうのほうに空いていたようだが、発見出来ず。
もたもた。
若い人は、ちゃっちゃと上手く空席を見つけ出すのに、わたしと言ったら、、、。
遠く、通路をはさんでボックス席2つのうち、3つも空席があったのに、、、、人が座りに行っているのを見て、はじめて空席があることがわかった。

青息吐息のおばあさんに、席の近くでぜいぜいヨロヨロ立たれると、着席している人も嫌だろうなあと、変に気を遣う。
席を替わってほしいのではなく、気遣われるのがかえって苦痛。
まだまだ本格的におばあさんになっていないのだろう。

こんな通勤タイム移動なら、前泊しようかと思った。
満員電車で立ったまま1時間半は、疲れる。
今、どうにか座れたからよいものの。
新快速は、停車駅が少ないから、一旦座るとゆっくりできる。
やれやれ。

いつも座れる時間帯に電車移動しているので、立ったまま、しかも満員は、結構こたえる。
若い時は、なんとも思わなかったのに。
しかも、周りが若い人ばかりだと、自分が浮いて浮いて、居心地が悪い。
やはり同世代の集合体が快適だ。
一人だけ異種は、身の置き所に困る。
レジャー地のような、ファミリー層が混ざっているのは、色とりどりカラフルで楽しい。
が、学生さんはまだしも、シーンと静まり返った咳ひとつ聞こえない、通勤ビジネスマン・ウーマンの電車は息が詰まる。

満員の時、ドア近くに、身長が、わたしの孫(小5男児)ぐらいの男子中学生がいた。
メガネをかけているが、ちっちゃい。
わたしの孫もほぼほぼ前から1番目か2番目だろうけれど、彼ならダントツ、前から1番に違いない。
どこの中学に通っているのだろう。
などなど、立ったままでは揺れてスマホも触れないから、車内吊り広告や、そこかしこを見るしかない。
とかなんとか、またまた普通電車に飛び乗った。乗り換え。
とりあえずは、座って小休止だ。
まだまだ目的地は遠い。

モノのやりとり

2023-09-13 | 暮らし
自分だけのために何か買ったモノはあるか?
衣類や小物類は別として、食べ物に関しては、必要に迫られて、コンビニでオニギリ、だとか、食パンだとか、そういう類のものは買う。
その他は、家族用として買う。
(自分の分はそれらを流用)
あるいは、頂いたモノ。
一人で外食は滅多にしない。
ソフトクリームぐらい。
時間調整にドトールコーヒーぐらいか。
ということは、わたしは、あまり食に関して思い入れがないようだ。
逆に、頂きモノを、いかに消費するか、という闘いになる。
賞味期限に追いかけられる、迫ってくる感じである。
食品ロスは敵。
食べ物を捨てるなど、絶対にしたくない。
アウトになりそうだと、冷凍庫に放り込む。
が、しぶとくその後に食べ切る。

こう言うと、頂き物に追われる?何言ってるの?贅沢な!と不快な感情を抱かれるかも知れない。
だが、個人的やりとりにおいても、その流れになる。
例えば、姑からいつも何かしら食べモノを頂いていた。
頂かないのはお金ぐらいなものである。
(→じつに余計なことを書いている)

ちなみに、お誕生日にはお祝い金を頂いていたが、お正月にはその5倍の金額、長寿玉を差し上げていた。(→これまた余計なことを、、、)
姑は、孫たち(外孫も)にも、お年玉をあげるので手元には残らないとは思うが。


日本では、お金のことをネチネチくどくどケチケチ言うのは品が悪いとされる。
日常において何かにつけてお金の話を出すのは、美しくない、タブーだと。
ではあるものの、お金の話は悪とは決めつけず、小学校でも、株式やお金の仕組みを教える機会が生じているようだが。

姑とわたしに関して言えば、お金を差し上げて、差し上げた人の裁量や好みで現物に交換し、個人的物流として還元される仕組みが出来上がっていた。
そして、ありがとうございます、とわたしは頭を下げることになる。
自分では決して買わないであろうものを頂くわけだから、やはり、ありがとうございます、なのだろう。
べつに、皮肉や憎しみ、意地悪根性で言っているわけではない。

物流って面白い。
モノのやり取り。
初めてわたしが姑たちと会った時、これは、〇〇さんから、それは△△さんから、両手いっぱいの紙袋から次から次へと出される包装された銘菓や嗜好品の数々。
びっくりした。
すごい文化だと。

日頃のご無沙汰をモノのやりとりで補完するのか、と。
あなたのことを大切に思ってますよ、という気持ちをモノで表現する??
しかも、義理の関係の人々。
わたしは衝撃を受けた。
この文化を自分で理解して飲み込むには時間がかかった。
地域、風土、世代(年齢)、慣習によるものなのだろうかと推測した。
一昔前は、冠婚葬祭にかける、エネルギーがすごいのは、どこの地もそうだった。
今は、結婚式すらしないこともある。
葬儀も密葬、家族葬。
時代は移る。

話が逸れている。

わたしは、自発的に、能動的に、何かをしたいという気持ちが薄い。
そういう受け身タイプの人と、人に何かをしてあげるのが好きな人との組み合わせは、いつも、一方的な流れになる。
相手はお返しを期待していない。
こちらは、受ける一方。
が、不思議な均衡が保たれている。

だが、受け取るということは、暗黙の了解が含まれている。
やった〜、ラッキ〜、ではない。
受け取るからには、それなりの見返りは、わかっているだろうね、、、
何かあった時に、ぞんざいな対応は出来ないよね、の意味が含まれる。
一種の保険である。
お互いに。
掛け捨て保険も、度重なると終身保険になる。
純粋な気持ちなのに、何を言う?!おぞましい。
美しい心を疑うつもりか?
その心こそ、醜い。

が、仮に無意識で打算が働いていたとしても、自分の身を守る防衛を誰が非難できようか。
互助、助け合いの精神。

頂き物なんですが、到来品のお裾分けです、食べ助けお願いします、
と、純粋な気持ちで人様に差し上げると、もらってばかりでは心苦しいということで、なんらかのお返しがあることがある。
それがお互い重苦しくて重荷になり、次第にやり取りをやめるケースもある。
サジ加減が難しい。
見返りを得るのが目的ではなく、結果的に意図しない意外な見返りがあった、というのが理想だろう。

本音は見えないことがある。
大人のスマートな付き合いとして、配慮したり気遣ったり、相手を傷つけないで嫌な気持ちを抱かれないように上手く収める。
これは、わたしは不得意である。
が、長く生きて来ると、いろんなケースがあり、いろんな思惑があり、いろんな人がいることがわかる。
如才ない人は、苦労した結果、身についたものなのだろうか。

※写真は先月、駅で撮ったもの。
記事内容とは関係ありません。


あれもしたい、これもしたい

2023-09-12 | わたし
わたしは、ある意味、生きるシカバネである。
絶望的廃人ではなく、魂が抜けている。
仏教的には優等生。
わざわざそういう修行に精を出す人もいるぐらいだから。

偉いお坊さんは身体は何百年も前に消滅しても、魂は生きているらしい。
ということは、やはり仏教的にはわたしは劣等生か。

ブラッド・ピット主演の「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」という映画のように、人生を結末から生きている感がある。
生まれた時は臨終の時、しわしわ骨皮おばあさん。
徐々に若返り、5歳や10歳の時は前期・後期高齢者ぐらいまで逆戻り。
さらに若返り、脳みそはツルツル、肌もツルツルになり、最後は生まれたての赤ん坊。
それでいくと、今、わたしは思春期入り口ぐらいのお年頃か。
どんどん若返って、晴れやかなことだ。

リタイアしたら、あれもしたい、これもしたい、と夢を描く(人が多い)。
自由の身になるまで、家族のために頑張る。
いざ、自由の身になったら、何をしていいのかわからず呆然とする人や、いきなり病気になってしまう人や、あまりにもしたいことがあり整理できない人、、、などなど。

とりあえず、優先順序をつけてトライしてみる。
ある人は、奥さんと同時に絵を始めた。
1年半で頓挫。奥さんは今も続いている。
適正があると思う。
興味や能力が潜在的にあり眠っていて、いざ起こしてみると、不発の人やら、ハマる人やら。
例えば登山。
あのしんどいハードなスポーツ。
これにハマる人もいる。
自分の残っているエネルギーにハッパをかける。
苦しさを乗り越えてこそ、苦境を脱する時に生きていることが実感できる瞬間、達成感。
わたしなら、疲れるからパス。
また下山するのは、登るより疲れるし。
人それぞれだ。

ちなみに、一昨日の民放TV「情熱大陸」で、女性登山家が紹介されていた。
わたしは全ての面で端から端まで絶対に無理。
だが、圧巻、脱帽、実に頼もしい女性だ。
さすがプロの領域。

常に昇り続ける、走り続ける、泳ぎ続ける、それが生きがいの人。
心臓をMAX最大限に効果的に動かす。

わたしは何がしたいかと言うと、別に何もしたくない。
やりたいことはやった。
遊びも。
今はその思い出を糧に生きている。
まるで寝たきりの状態。
せっかく動かせる体があるのに、動く間に動かないと勿体無い、悔いが残るのでは?
が、そういう気持ちがなぜかない。
凪のように静かに落ち着いている。

もし、やりたいことがあるとすると、、、
あれ、と、これ、と、、、
リストアップは出来る。
なあんだ、まだやりたいことはあるんだ。
ただ、エベレスト登頂を願うのではなく、近所の低山ウォーキングでよい。
今まで高品質、高レベルのものを見てきていて、内容の違いはわかるが、低いランクでも構わない。
いざ自分が取り掛かろうとすると、良いものを知っているだけに理想が高くなる。
で、二の足を踏む。
だが、経験して知っていることは滋養になっているはず。
しかし、昇華してしまい、心身、一体化して切り離せない。取り出すことは出来ない。
自分は出来ないのに、口ばかり達者な、うるさい人になっている?

悟りを開いていない。
仏教の落ちこぼれ。
俗人である。

こういうブログ内容は、絶対に賛同も共感も得られない。
誰の得にも役にも立たない。
読む側に対して何の忖度もされていない。
こういうのを一方通行という。
自分だけが、なんだか安らいだ気持ちになっている。


毎日、決断は先送り

2023-09-11 | 日々のこと
今日は、とてつもなく退屈だった。
ずっと考え事をしているのだが、年内には行動に移りたいので考えをまとめなければならない。
なのに、ちっともまとまらない。

資料を出してきて照らし合わせたり、電話で疑問点を尋ねたり。
が、一向に前に進まない。
重い石が頭に載っている。

相談する人もなく、ぐるぐる一人で同じ場所を回っている。
そうこうしているうちに臨月に、、、と、もう赤ちゃんは生まれないけれど。
別に病気を苦にしているわけでもなんでもなく、いたって健康。
自分の方針が決まらない。どうする?
経営者やビジネスマンなら、こんなにグズグズしていたら即座にアウトだろう。

実母も誰にも相談しないタイプ。
大きな選択ミスもしていた。
血は争えないのか。
ではあるものの、反面教師としての側面は嫌というほど身近で見てきている。

ワニ園の微動だにしない、ほぼ剥製のワニである、わたし。
飼育員が、餌を放り込んでくれ、水圧の強い水で地面に放水してくれる。
剥製になる日は近い、、、のであればまだしも、人生100年時代から120年にまたまた延びるようで、自分の寿命に愛想が尽きそうだ。
と言っては罰が当たる。
健康で生き長らえていることに感謝しなければ。

しかし、あと50年も自分の寿命が延びたら、はっきり言って困る。
あと半世紀も何をすれば良い?
もう頑張らないのに、剥製のようになっているのに。

考え事は、わたしには向いていないようだ。
何も考えずに、ぼーーっとしているのが、わたしの幸せ。
考えるのは嫌い、苦手。
決断が出来ない。
アタマが痛い。
熟考して、手を尽くして出した結論が正しいとは限らない。
ギャンブル、時の運もある。
とは言え、いつもわたしは好機を逃している。
自分から積極的に運を掴みに行くのは、どうも、動きが鈍い。

欲を張ると、よくないらしい。
今日も結論は先送り。
大丈夫???
まあどうにかなる。
なるようにしかならない。
なるようになる。

今日も一日、終わったが、虚しさが残る。
やはりあんまり自分にタスクを課してはいけない。
わたしは、やる気満々のアクティブ人間ではないから、追い込んでも、動かないものは動かない。

孫たちと、必死で手を抜かず、日本語ことわざカルタをしている熱量ぐらいがちょうどいい。
全力で挑んでも勝てないが。
すごい勢いで脳が細胞分裂している子供には負ける。
負けると同時に、成長が楽しみでもある。



人は人と言うけれど

2023-09-09 | 無題
わたしに取っては、何もスケジュールが入っていない時が一番平穏。
落ち着く。
スケジュールが動き出すと、関連付いて、あれこれ予定が入る。
それが2週間ぐらい続く。
今はその前の週。
のんびりできるが、来週を考えると、浮き足立ってなんだか今から疲れる。
せめて何もない日だけでも、ゆったりすればよいのだが。
どんだけ活動が嫌いなんだか。
非活動家。非社交家。
微動だに動きたくない、ナマケモノである。
ワニ園にいる、剥製と間違える生きているワニ。


ダイニングの本棚を整理した。
出るわ出るわ、本の宝庫。
新古品も続々。
わたしは読むのが遅いから、あれだけあれば、しばらく本は買わなくていい。

非生産的な時間の過ごし方をしても、人に迷惑をかけなかったり犯罪でなければ、本人がよければそれでよい。
わたしは、そういう考えではあるが、いかにも非生産的なことをわざわざ時間を割いてしている人を見ると、もちろん非難はしないが、よくわからない。
何が面白くて、、、と不可解なだけだ。
邪魔はしないが理解もしない。

スポーツや、音楽・絵画、映画鑑賞、読書、ものづくり、運動、旅、グルメ、ファッション、健康、教養、資産運用、娯楽、ギャンブル、お酒、ゲーム、交流、色々、趣味は人それぞれ多岐に渡る。
人に理解してもらえそうもない趣味、時間の使い方をしている場合、普通は、自分からは明るみにしない。
が、しつこく根掘り葉掘り聞いたわけではないが、たまたまわかってしまうことがある。
理解出来ない案件として、触れず触らずそっとしておく。
誰しもがメジャーな趣味を持つ人ばかりではない。
もっと他に有意義な時間の使い方はないのか?と思うが、人それぞれ。
その人にとっては、他の人の時間の使い方が理解出来ない(はず)。

自分の好きなことや理解できることをしている人といるほうが楽しみを共有できる。
お互いの理解も深まる。

まるで価値観が違う人から刺激を受けるのは、その時限りのことが大きい。
たいがいは、ビックリ水の効果後は、元の自分のコースに戻っている。
そうやって、自分を小さくまとめてしまうのだろうか。

価値観の共有がキーとなる。
だが、突然変異の変人が、創始者になって、その道を切り開くこともある。
ではあるものの、後には誰も続かないこともある。

面白くもなんともない、毒にも薬にもらならないことを延々と書いている。






横道に逸れる

2023-09-08 | 暮らし
昨日から別の小説を読みはじめた。
またまた古い作品。
山﨑豊子の「女系家族」。
令和の時代に「何を今更」的作品。
文庫本末ページには、昭和41年10月20日発行、昭和50年11月10日18刷と記されている。

その本は、2階にある元・長男の部屋の本棚からチョイスした。
元・長男の部屋は、わたしが今は寝室として使っている。
この部屋には横長のロフトがあり、天井が山小屋みたいに三角に尖り、ロフトの前には、まん丸の大きな、はめ込み窓がある。
まん丸窓から射す灯りは、太陽の自然光だったり、街灯だったり、大きさや形が変化する、家の前を通る自家用車のライトだったりする。
その明かりを下方から見る。
見なくても勝手に視界に入って来る。
2階は長男の部屋だけ、当時の長男の要望で畳敷きにしている。
勉強机を置いている床の面だけ、板張り。

そう書くと素敵そうなイメージだが、(気に入っていることは気に入っているが)エアコンがいつの日からか壊れている。
今年の猛暑も扇風機。
ちょっと前は、大きな団扇だった。
手動。ぱたぱた。
エネルギー源は電力でも風力でもなく、生身のわたし。
何時代に生きている人間なのだろう、わたし。

今年の記録的暑さは尋常ではなかった。
が、よくも倒れもせず(倒れたまま)、高温の、もあっとした部屋から朝になると生還出来たものだ。
帰宅時に閉め切った部屋の温度計は36°以上。
窓を開けてもさほど風は通らないし、室温もそう変わらない。
ではあるが、なぜか、この部屋で寝る。
というか、他の部屋で寝る気があまりしない。
一晩中エアコンをつけると、身体がだるいような気がするからだ。
床(畳)に直接、布団を敷くため、床すれすれの位置に身体を横たえる。
窓の開口部が床の位置まで来て、開いているので、外から微かに流れてくる風が、それより上からの空気よりほんの少しだけ冷気を帯びることがある。
わたしはなぜか、それが好きなのだ。
とは言うもの、酷暑には無駄な抵抗だったが。
朝まで、もわんもわんとした熱気に包まれたままということもある。
それを扇風機でかき回すだけ。
顔に、もわんもわんの風を当てる。
パジャマは汗だく。

元・長女の部屋も、元・次女の部屋も空いているが、2部屋ともベッドのため、床から少し高い状態で横になることになる。
第一、エアコンは同じく故障。
すでに選択肢に並べるには条件を満たしていない。
さらに、向きも、ベッドの頭側に窓があったり、ベッドが窓から離れていたりする。
それに対して、窓に面して身体全体を横たえることが出来る元・長男の部屋は、わたしの要望を満たしている。
微妙な好みがある。

この長い長い説明、動画なら一瞬。
写真や絵なら一瞬。
なんでこんなに文字を割いてわたしは書いているのだろう。
要約すると、
「エアコンが壊れている部屋で、開口部が床まである窓際に布団を敷いて寝ている」。
おしまい。

ちなみに、ここ2〜3日、涼しくなって大喜び。
また暑くなるにしても、あの酷暑、真っ只中ほどではないだろう。
と、本のことを書こうと思ったのに、延々と部屋の説明をしてしまった。

子供が、言いたいことの前に、そのことが起きる直前の話をずっと話し続けているようなもの。
買い物を言いつけられた子供が、道中で水たまりをまたいだ途端に、買い物の内容がアタマから飛ぶ。
いつも脇道に逸れる。
道草に夢中。
本題に取り掛かる頃には、すっかり日が暮れている。


もやもや

2023-09-07 | 暮らし
昨夜のNHK TV「クローズアップ現代」。
もやもやすることのススメだった。
これは、とても面白かった。
なぜなら、もやもやは、わたしそのものだったから。
あなた、それでいいんだよ、と言われているような気持ち。
タイムパフォーマンスが著しく悪く、何をするにもグズグス、何を聞いても、イエスともノーとも言わない、どっちなの?と、イライラされる。
答えや結論、選択が、即座に出てこない。
優柔不断の極め付け。

それでいいそうな。
番組で紹介されていた実験では、タイムパフォーマンスの良いグループと、もやもやグループに分かれて課題を出して比較した。
その結果、もやもやチームが良い結果を導き出した。
斬新なアイデアが次々に出た。
一方、タイムパフォーマンス・チームは、時間は早かったが、平凡な案で終わった。

これは、そのままビジネスに使える面もあるが、使えないこともある。
結果を出すのがビジネスだから。
結果はありません、さて何でしょう?では、成り立たない。
収益がなくて、どうやって社員に給料を払うのか。
公務員さんなら給料は税金からだから、また別だが。

ではあるが、人生やプライベートなジャンルなら、結果を出さないことが、「結果」ということもある。

結果を出さないまま、人生を送り続けている人を直に知っている。
社会にはもたれ掛からない、独自の生き方をされている。
結果を出さないスタイルがその人のスタイル。

時代によって、もてはやされる現象がある。
トレンドが変わる。
思考までも。
戦時中のモノのない時代から、大量生産・大量消費、やがて断捨離。
時代背景によって変わる。
モノを作って売れた時代、景気がよい時代と、売れなくなった時代、不景気な時代。
国際競争に勝ち進んでいた時代と、負け続ける時代。
産めよ増やせよから、少子高齢化。
将来、明治時代の人口、生活に戻ることもあり得なくはない。
軍需産業ではなく、農業が平和的。
食糧の自給率が低い日本。
国土が狭いこともあり輸入に頼る。
だが、外貨獲得の国際競争に勝てるのか、わたしは不安だ。

scrap and buildの究極は?
人類は繰り返している。
誰も止められない愚かなことを。


同じくNHK TVで、地方に移住した若者が、挫折する例を紹介していた。
個人主義の都会の若者のライフスタイルや考え方を地方にそのまま持ち運んでも、排他的、同調的な暮らしをしている地方の人々との調和が取れにくい。

外国人観光客は日本にお金を落としてくれるが、生活者としての外国人との摩擦は絶えない。
第一次産業だけでなく、サービス業にも外国人労働力に頼っている現状を垣間見る。
国内旅行をすると地方で外国人が働いているシーンに、よく出くわす。
旅行しなくても、地元のそこかしこで。
小学校も肌の色の違う生徒の姿もある。
人、モノ、情報のグローバル化が謳われて半世紀ぐらい経つ。
実際の出来事として、暮らしにその現実を感じる。
半世紀も経ってからやっと肌で感じるようになったわけだが、予告する学者が正しいことを言うとは限らない。
そして、自分がいる位置(ポジション、立場)にも大きく関係がある。
学者や経済界にいるのならわかる。
現場、先端でのビジネスマンはもちろん、たとえ末端だとしても景気や時代の雰囲気は感じるだろう。
わたしは政治経済は、とんとわからないので、動物的嗅覚である。
たんなる直感を繋ぎ合わせている。
一人の一つの感覚である。

頭が柔軟すぎる人、あるいは、カチンコチンの人は、洗脳されやすい。
わたしは、もやもや人間なので、なんでもかんでも疑ってかかる。
真実はどれ?
表面はこう見えるが、真実はどこに隠されている?
今はフェイクニュースも氾濫していて、わけがわからない、作る(流す)側と受ける側のイタチごっこのドロ沼となっている。
半世紀前、インターネットを含め、コンピュータの益々発展を予測していただろうけれど、AI生成の精度は上がるばかり。
企業人はさておき、一般人はどうやって自分の身を守ればよいのか。

一歩も部屋から出ない引きこもりウン十年であっても、刻一刻変化する世界事情を、部屋の中のコンピュータから覗くことが出来る。
攻撃することも出来る。(→犯罪)

SF映画で観たことは、今や現実。
現実には起こっていないこともあるが、起こって欲しくない。
行き過ぎには弊害がある。
むしろある意味、時代が逆戻りしてくれないかなあと思ったりする。(保守傾向は嫌なんだけど)
ただし、男尊女卑や差別、人権侵害の時代には二度と戻って欲しくない。

こうやって、いつも、もやもやしている。
もやもやしたまま、個人的に事態が好転した事例がぽつぽつ出てくると、喜びを実感しながら、もやもやで良かったんだ、と自分の道を肯定する材料が増える。
もちろん、全てが好転するわけではない。
ほぼほぼ思い通りにならないものと諦めていたら、その中で、少しでも望みが叶ったら儲けものだ。

望みすぎて蟻地獄

2023-09-06 | 無題
長年の知人Aさんは、気心は知れているが、話が面白くない。
圧倒的に、わたしが知りたい知識に欠ける。
だが、それは望みすぎだ。
わたしだって、ひどいものだ。
先生になるわけでもないから、生きていくのに十分なだけの知識でよい。
のではあるが、やはり義務教育程度の知識は欲しい。
必要ないことは、脳の断捨離で忘れたにしても、最初から脳を素通りしている疑惑が頭をもたげる。
わたしにとって、その人と共感する面はないのだが、悪い人ではない。

自分も完璧ではないのだから、人に、気に入らない点があっても、致し方ない。
人から見れば、わたしも気に入られていない可能性は十分ある。
なので、人は気に入っている同士で付き合う。

だが、嫌いな人と接しなければならないことは、多々ある。
まあしかたない。
全てなんでも思い通りにはならない。
一つか二つ、良いことがあればよい。
気に入っている点が、気に入らない点を上回れば上々だ。

そもそも、気に入らない人がいても、無意識に視界から遮断している。
深掘りしない。
近寄らない。
逆に、気に入った人には近寄っていく。
ただし、接近しすぎは良くない。
嫌な面が必ず見える。
だから、見えない程度の距離にとどめておくと、火傷しない。
嫌な面を含めて、その人なので、嫌な面だけ無かったことにして封じ込めるのも、正しい理解が出来ない。
人には悪い面は必ずあり、存在を認識するが、あえて触らない。
どうしても耐えられなくなれば、去ればよい。

頭から全てを盲信するのは、自分の妄想の押し付けである。
誰にでもマイナス面はあるのだから、それを承知で接する。
そのマイナス面が、表面に大きく出てくる場合もあるし、あんまり出てこないで水面下で大人しく静かにしている場合もある。
自分では気づかない眠っている潜在意識のこともある。
どういう状況に置かれるか、それぞれの立場で、人の特性の発露が変わってくる。 

嘆き過ぎると病気になる。
なので、鈍感になることも悪くない。
無病息災よりも、一病息災のほうが力強いと思う。
何ごとも知らない天真爛漫さは良いが、知らないだけに途方もなく不安にもなる。
だが、恐れすぎも本末転倒なので、ちょっとだけ気にかけるぐらいでいいのでは。

なんて結局、当たり前のことを綴っている。
当たり前の幸せを当たり前と感じるのか、有難いと思うのかでは、随分違う。
当たり前のことは、退屈だと思うだろう。
退屈ぐらいが丁度良い。
退屈の有り難み、である。

ヒマって楽しい。
この感覚は、わかってもらえないだろう。
何もすることがない苦痛というものがある(らしい)。
何もすることがなくなると、何をしようかと考える楽しさがあると思うのだけど。
考えても実現できずに余計に絶望するなら、実現できることを考えたらよい。
が、誰にでもできるそんなことは、やり甲斐が感じられず、またまた退屈の海に飲み込まれるだろう。
人とは違う幸福観を持っている自分に、文句を言うしかない。
無理やり、自分の考え方を変えねばと思い込む必要はない。
時が流れると自然に整う。
まだ苦悩している場合は、その時がまだ訪れていないだけで、いずれ来る。
が、生きている限り、なんらかの苦悩はあるわけで、無くなるなんてことはない。
苦悩と仲良しになるだけだ。
調和。

調和されると、また退屈になる。
また難題に出会し、それの繰り返し。
退屈するヒマがないと思うのだが。

人間は矛盾する生きものだ。
相田みつをさん風に、AIで何か書いてもらうか。
が、自分で書いたほうが、絶対に楽しい。