蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

素敵なひと

2023-09-05 | 日々のこと
昨日のこと。
電車、私鉄からJRに乗り換えた。
ホームに到着した車両に乗り込み、席を探した。 
ん、あの席に座ろう、、、と、座った途端、目の前の人物に聞かれた。
「この電車、どこ行きですか?」

見ず知らずの人ではあったが、えっと〜〜っと、わたしは考えた。
「〇〇に行くんじゃないですか?
電車名にも〇〇の文字が含まれているし、、、」
ドアまで戻り首を伸ばして、車体の外側に記されている表示を見ようとした。
が、実際に見たかどうか、気持ちだけが肉体本体から離れた、わたしの描いた心象風景かも知れない。

目を白黒させて(誇張表現)えっとぉ〜〜状態は続いた。
「この電車、環状線だったかどうか。環状線に乗ったつもりなんで。
どうせ、次で降りるんですけどね」
と、その人は言うが早いか、間髪を入れずに次の話題にチェンジするのが早いか。
「それにしても、今年の夏は異常ですねえ」
と気候の話になり、わたしは身を乗り出して「ほんとにそうですよね〜。どうなってるんでしょうね」

と、気候に話題はシフトし、ずっと以前からの知り合いか友人のように自然に会話が流れた。
今年が異常なのか、来年はどうなのか、過去、現在、未来に及ぶ気候現象の話やらなんやらしながら、
途中であまりにも自然に話している自分に気づいて、この人、この話術はただものではなく、詐欺師か営業マンか、信仰宗教勧誘員か、ナンパ氏で、この手で親しくなって良い思いをした成功例をいくつも持っているのではないかと、ふと疑いが頭をかすめた。

シミひとつない色白の肌(どちらかと言えば青みかかっているため、息をしなくなってもこのままだろうと、余計な憶測)、
余分な肉、脂のない身体(と言っても身体は顔から延長上の想像)、にこやかな静かでアクのない表情、美しいシルバーヘア。
あ、この人、男性です。
清潔で知的な雰囲気の70代?シニア。

頭の中で色んな思いが交錯しながらも、自然体でのおしゃべりは続いた。
お互い、次の駅で降りるので、一駅だけのトーク。
降りてからの展開によって、人生の花が咲く場合もあるだろうし、起承転結の「承」の部分がどういう方向に進むのか、ドラマの掴みの場面だ。
が、人混みに混ざってお互いは紛れてしまい、乗降ドアの(たぶん)右と左に分かれて歩いて行った。
後ろを振り返ると多くの人の頭しかなかった。

若い時なら、それが縁で結婚する場合もあるかも知れない。 
あるいは、結婚しなくても、お付き合いが始まるかも知れない。
が、お互いシニア。
吉永小百合の最新作映画「こんにちは、母さん。」みたいなこともあるかも知れない。
(昨日、観たばかり)
想像したり、余韻を楽しんだり。
1日経ってブログに書いて、また再度思い出して、にやにや。
1年、10年後に、ふと思い出すかも知れないし、ひょっとしてどこかで偶然、遭遇するかも知れない。

一歩、家の外を出ると、いろんな可能性や、思い出の原材料がある。
原材料から実際に料理するのも悪くないが、わたしは、にっこり思い出す優良資源が増えたことをこころの糧にする。
ある日の出来事として。
ほんの一駅間だけの、微笑ましい時間になった。

写真はラピート。
今回の電車ではありません。

文章で遊ぶのは楽しい

2023-09-04 | ブログ
9月になってもまだまだ暑い。

読書、、、涙、涙に、本のページに涙がぽとり。
いつもいつも、わたしのむき出しのハートは感受性の塊になっている。
が、やっと一区切り。
と思いきや、第6巻まであるようで。
わあ、それは無理。
休憩しなくては、頭が持たない。
(安物の頭は、持ちが悪い)
インターネットで続きを購入しようかと思っていたが、しばし躊躇、再考。
ばばばばーっと一気に片付けるのが苦手なわたしは、あとまだまだ6巻まであるのかと考えただけで、へばった。
どう考えても熱烈読書好きではないと思われる。

カチンコチンの岩のように難しい文章を一つ一つ読み砕いて理解し、その結果、涙が流れていた。
私の頭に「ご苦労さん」の意味もあるのかも。
とは言え、関西弁でひらがなも混ざり、読みやすい文章である。
が、なにしろ時は明治。
天皇制に移ったばかりで、国の方針転換が急激過ぎて、やや、ぎくしゃくする感は否めない。
これ、司馬遼太郎の昔、TV放映されたVTRが先週、再放送された中で言っていたことの、パクリです。
が、ちょっと司馬遼太郎の発言の影響を無意識に受けたのかも知れないが、なんとなく彼の主張を実際のテキスト(明治の小説)で復習しているような感じ。
洗脳されやすい?
これは要注意だ。
しかし、デリケートな問題なので、安易に書くのは控える。

さて、と。
バス停での皆さん。
待ち時間に色々おしゃべりをされていた。
話題は病気一色。
ここが痛い、あそこが痛い。
あの薬は、どーだこーだ。
あの先生は、あーだこーだ。
微に入り細に入り、説明しておられた。
先生もこういう場所で評価を上げられたり下げられたりするのだ。
上げられることはまあない。
大概は悪口。
どこに行っても、そんなに良くならないということ。
先生や薬のせいだけでもないと思うが。
痛い痛い、と嘆きを口にすると、ちょっとは気が晴れる?
「わたしはもっと重症です」という話が聞ける?
暑い中、バス停でひとり無言で待つよりは、仲間を見つけて時間の有効活用。
悪い作用はないと思う。
わたしは一人スマホ入力だから、声をかけてくれるなオーラを放っているだろう。
ブログネタも拾えるし、悪くない。
こうやって好奇心をもって、人の話を聞き、文章にするのは脳の老化に役立つらしい。

別に何か効果を求めてやっているわけではないのだが、ブログという趣味を持っていて、楽しいし、大満足である。

男性からは幼い頃の話を聞いたことがない

2023-09-03 | 思い出
閲覧数の突然の乱れは徐々におさまり、もう1日、2日ぐらいでいつものアクセス数に落ち着くことだろう。
こういう作為的なことは、自然な結果を目安にモチベーションを保つ者にとっては弊害になる。
人気を売りにしているタレントや政治家、有名人が人気のバロメーターにしているのとは違い、一般人一ブロガーにとっては作り事ではない事実を反映したアクセス数でなければ、ブログシステムへの信頼が揺らぐことになる。
なかには、一般人のちょっとしたつぶやき(例えば、「保育所、落ちた」など)が世相に火をつけ、政治まで動かす事態になることもある。
わたしのブログはそういう類のものでは決してない。

前には、コピー盗用事件も何度かあった。
ブログの著作権は、ブロガーにあるが、まるまるパクられて、見知らぬブログにアップされていることもある。
けしからん「あだ花」にはキリがない。


突然、話はワープする。
昔昔、60年以上前、わたしが幼稚園児の頃。
幼稚園でお絵描きの時間があった。
いつも必ず、Y.Hちゃんが、わたしの絵を真似した。
幼稚園児のことだから、かわいいもの。
いつもいつもだったので、わたしは少しだけ不思議だった。
へえ〜、今回もか、と、事実を認証するのみ。
が、別にそれ以上の深い読みやツッコミはなかった。
感情を害するわけでも、真似するなと怒るわけでも、真似されるほど良いんだと自惚れるわけでもなかった。
彼女はやがてピアノの道に進んだ。
だから、分野が違うから問題ない。

とは言え、自分で絵を思いつかないのは、独創性、オリジナリティの欠如である。
しかし、ピアノの世界でオリジナリティを生み出すのは並大抵のことではない。
まずはルールに則った演奏を基本にする。
作曲したりするのは別として、何百年も前からある曲を弾くのは練習の積み重ねしかない。
その後、道は分かれていくのだろうけれど。

無から何かを生み出すのは、エネルギーがいる。
時代が認めない、評価しないこともある。
芸術って、プロは大変。
商業化するにしてもそうだ。

こんな話、誰一人興味ないだろう。
書き手の深い考察も理解もなにもない。
上っ面だけすくって書いている。
確信しているが、観客ゼロのホームパーティは快適だ。

ホームパーティついでに。
わたしは、幼稚園の時からピアノと習字を習っていた。
ある山手高級住宅地に居を構える先生のお宅に毎週、坂道を上り階段を登って通っていた。
ピアノの先生は本職は学校の先生をしていて、アメリカンホームドラマに出てくるような背の高い優しそうな上品な夫さんがいた。
これまた絵に描いたような、上品でお利口そうな坊ちゃん(当時幼児と幼稚園児ぐらい?)が2人いた。
(わたしより、ほんの少しだけ歳下)

門を通って庭を歩き、右手側に玄関。
玄関を入って右手側には、ピアノのレッスンに使われている応接室がある。
左手側に進むと、お習字教室に使われている和室がある。
和室の前は縁側廊下になるが和室との扉(障子)は開け放たれている。 
ここでは、ピアノの先生のお姑さんにあたる先生が何人もの生徒に習字の手ほどきをしている。
玄関を見ずに門から真っ直ぐ歩くと、右側に習字和室を見ながら突き当たりに、小ぶりのサブ玄関がある。

わたしは、ピアノの後、習字だったか、習字の後、ピアノだったか、その時々に応じてだったか忘れたが、小学6年までピアノを習っていた。
習字は大筆の後、小筆になってから小筆が嫌でやめた。
百人一首のような、おかき(米菓子)の包装紙に書かれているような、いかにもいかにも、あんな文字がさらさらと書けたら大したものなのに、、、その手前、入り口でやめてしまった。
親も辞めるにあたり、何も言わなかった。
習字と入れ替わりのようなかんじで、算盤とバレエを習いたいと親にせがんだ。
親はバレエは少し難色を示したかも知れないが(忘れた)、算盤はすんなりオッケーだった。

ピアノは、同じ応接室内で生徒はレッスンを受けている子の次の順番を待つ。
そこに、わたしの大嫌いな悪ガキとよく鉢合わせた。
わたしとは幼稚園から一緒のS.Hである。
(あえて「君」はつけてやらない)
わたしが生涯でたった一人だけいじめられたのは、このS.Hである。
幼稚園のブランコに乗っているわたしをいじめた。
そのシーンはハッキリ覚えている。
最初で最後のごんたくれ。
(医師になったらしいが)
色白で、ひょっとこみたいな顔。
この子が同級生の他の子と、わたしが練習が満足にできてないピアノレッスンをくすくす笑うのだ。
耐えられないなら、ちゃんと練習してくれば良いものを、練習しない、わたしもわたしだ。
・・・・・

本日スケジュールの時間も差し迫り、キリがないので、昔日の話はちょっとストップ。

ちなみに、
ふと思ったが、高齢の男性たちのブログや話には幼い頃の話を聞いたことがない。
(一部、例外を除く)
大概は現役時代の話や、リタイアしてから頑張っていること等。
元気をいただくものの、幼い頃の時代、気に入らなかったのか、記憶にないのか、黒歴史で無かったことにしてしまいたいのか、人に話すほどのこともないのか、話しても自分は高揚しないからか、、、
いったい何故なんだろう?







バタバタ読書

2023-09-02 | 日々のこと
自分専用、筆マメのわたしは、今日も書く。
次から次へと同じ題材をよくまあ書くこと、書くこと。
モチーフは自分。
お喋り井戸端会議の如く。
ストレス解消。
アウトプットしないと、自分の中の空気が澱む。

今、読んでいる、わたしが20年ぐらい前に舅の家から持ち帰ってきた、舅の本。
当時、まだ舅は健在だった?
あるいは、あの世とこの世の端境?
あるいは、もうあの世?
どちらにしても、あの本が一冊、本棚から姿を消しても誰もわからない。
そして、うちにあの本が一冊、新顔で加わっても誰も気づかない。
持ち帰った当の本人さえ忘れている。
うちのダイニングルームの戸棚に眠っていた。

ハードカバーの上に掛かった装丁カバーの上に、さらに、白地に少しだけ模様の包装紙を掛けている。(かつて、わたしが)
舅の家の近くのお米屋さんでもらった、乾麺(うどんかなにか)の箱に使われていた包装紙だろう。
カバーの上のカバーがもう、クタクタになりかけている。
が、よくよく見ると、その包装紙は倉敷チボリパークのマークデザインが施されていた。
じつに自分の記憶は、思い込みが強く、いいかげんか。
なんで、うどんが、倉敷チボリパークに?

それに、ハードカバーの本は手のひらサイズからはみ出し重いので、読みにくい。
テーブル(ダイニングルームなので食卓)に置いたり、手に取ったり。
スマホより大きく硬くずしりと重い。
なので、少し読むと、すぐ疲れる。
ちょっとずつ読んでは、バタンと本を閉め、何か別のことをし、また読み、、、を繰り返している。
ちょっとしたことで涙したり、連続朝ドラのようなノリになっている。
つまり、楽しんでいるというわけだ。

明治時代末期の子供。小学生の兄弟。
今とは隔世の感。あたりまえか。
お兄ちゃんは、尋常小学校を卒業して上の学校に行かず、大阪に丁稚として働きに出た。
まだ物語は、ストーリー途中なので、これからの展開が楽しみ。

毎日、わたしの流す涙の分量は減ることなく増えるほど。
涙に飢えている?
涙腺トラブル?
そう言えば、喉が痛く咳込んだりすると涙がはらはら流れる。鼻水も、たらたらと。
これは身体反応のようだ。条件反射?
喉と涙は、耳鼻咽喉繋がりか。
涙は目、だけれど、目と鼻は近い。
わたしは辛いものを食べると涙と鼻水が止まらない。

先日、焼肉屋さんで、シシトウのような緑の細長い野菜を食べた途端、辛いと感じた瞬間に、喉、鼻、目が連動して透明の液体(涙、鼻水)が、どっと溢れ出た。
司令塔シグナルで、一斉に反応するようだ。
収まらないので、かなり困った。
あんな辛い食材をしれっと普通に他のものと一緒に出すのはやめてほしい。

それはそれとして。
涙が出るのはそのままでもよいにしても、鼻水ダラダラは、やはり処理したい気持ちになる。
席を立って鼻水を拭く。 
読む→涙、鼻水→席を立つ→鼻水処理→読む→涙、鼻水→席を立つ→鼻水処理
これの繰り返し。
それなら手元にティッシュペーパーを用意すればよいのだが、やはり、わざわざ鼻水処理をしに行くところに、リズムが生まれる。
どんなリズム?
おそらく、根を詰めて読めないのだろう。
集中力の欠如。
だから、連続朝ドラになる。
本も長持ちしてよい。
作者も心魂を傾けて書いているのだが、一気に読まれては、しんどいのでは。

学生時代の元同級生の作家がそう言っていた。
作家の気持ちとしては、「一晩で一気読みしました!」と感想を言われると複雑な気持ちになるんだそうな。

時間をかけて作った料理や、手間暇かけて育てたフルーツを一口で一気にどんどん、ばばばばとすごいスピードで食べられてしまうと(小5男児孫がブルーベリーを食べ尽くすように)嬉しいというよりも、もう少し味わってほしいと、欲が出る。

と、またもや話が逸れている。

面白かったり感動した作品があると、芋づる式に(この表現はマイナスの色合いを帯びるから、適切ではないか)、その作者の他の作品を読みたくなる。
だが、ダイニングルームの本棚には、これまた出番を待っている本がある。
たくさん眠っている本があるのだが、読みたい本はほんの少し。(クローゼットに眠る服と同じ)
特にトレンド解説のノウハウ本などは、10年も20年も前のものは、気が抜けたサイダー。

そして、「女性の品格」などは、パラパラと飛ばし読みしたが(再読)、何を今更、もうお腹いっぱい。めんどくさくなった。
今、わたしが求めているものではなかった。
食べ物と同じで、自分の気分や空腹ぶりに左右されるようだ。
というか、わたしは読書はほぼしない人間だったので、本を読むようになった自分に驚いている。
自分再生?再構築?
あるいは、よっぽど暇なのか?

ちょっとこのツマラナイ記事で様子を見ます。

どうなってるの?

2023-09-01 | ブログ
ブログの閲覧数がおかしい。
1カ月分の雨量が1日の数分で降った、ゲリラ豪雨、のようなかんじ。
gooさん、どうなってるんですかね?
どこの誰が何の意図で、こんなつまらない何の影響もない一ブログを標的にするのか全くわからない。
危険思想も特定される誹謗中傷も何にも入ってないし。
特別にいつもと変わった内容でもないし、何のうま味も特典もメリットもないのに。
1日経てばアクセス数は何ごともなかったかのように元通りになっていると思うけれど。
不愉快、一歩手前の「不可解」である。