ちょっぴり『老子』 ( 10 )
おしゃべりは控え目に
多言は行き詰る
「多言數窮。不如守中」
『老子』第五章の最後の部分です。
「多言(タゲン)は しばしば窮する。中(チュウ)を守るに如かず」と読まれています。
「多言は、しばしば行き詰るものだ。虚心で無言を守るのに限る」といった意味でしょう。
「中」については、「忠」の文字を使っているものもあるようです。「虚心で無言を保つ」と説明されているものが多いのですが、「中」という文字にそのような意味があるのかどうか疑問です。何かもう少し深い意味があるような気がします。
第五章は、ごく短い文章からなっているのですが、前段部分と、ここに挙げている文章とのつながりも、今一つしっくりいきません。
ただ、「おしゃべりはボロが出ますよ。静かにしているに限りますよ」というのは、実によく分かります。
ついついおしゃべりしてしまいますが・・
「沈黙は金」とか「物言えば唇寂し」などといった教えは、古今東西を問わず、数限りなくあるように思われます。
多くの指導者や思想家などが口をそろえて言っている教えを、なぜ『老子』先生ともあろう人が書き残したのでしょうか。
考えられることは、『老子』の時代には、まだこの教えがそれほど普及していなくて目新しい教えだったのか、あるいは、普及していたとしても、なおわざわざ触れるほど大切な教えだったのかもしれません。
また、時は、春秋・戦国時代にかけてですから、口達者な学者が多数輩出していて、目に余ったのかもしれません。
『老子』の教えの中で、「おしゃべりはボロが出ますよ。静かにしているに限りますよ」というのは、実に分かりやすい教えと言えます。
ですがねえ、教えは分かりやすいのですが、これを守るのは至難の業ともいえる気がします。
まあ、せっかくこの教えに触れたのですから、おしゃべりもほどほどを心がけますか・・。
( 第五章より )
★ ★ ★
おしゃべりは控え目に
多言は行き詰る
「多言數窮。不如守中」
『老子』第五章の最後の部分です。
「多言(タゲン)は しばしば窮する。中(チュウ)を守るに如かず」と読まれています。
「多言は、しばしば行き詰るものだ。虚心で無言を守るのに限る」といった意味でしょう。
「中」については、「忠」の文字を使っているものもあるようです。「虚心で無言を保つ」と説明されているものが多いのですが、「中」という文字にそのような意味があるのかどうか疑問です。何かもう少し深い意味があるような気がします。
第五章は、ごく短い文章からなっているのですが、前段部分と、ここに挙げている文章とのつながりも、今一つしっくりいきません。
ただ、「おしゃべりはボロが出ますよ。静かにしているに限りますよ」というのは、実によく分かります。
ついついおしゃべりしてしまいますが・・
「沈黙は金」とか「物言えば唇寂し」などといった教えは、古今東西を問わず、数限りなくあるように思われます。
多くの指導者や思想家などが口をそろえて言っている教えを、なぜ『老子』先生ともあろう人が書き残したのでしょうか。
考えられることは、『老子』の時代には、まだこの教えがそれほど普及していなくて目新しい教えだったのか、あるいは、普及していたとしても、なおわざわざ触れるほど大切な教えだったのかもしれません。
また、時は、春秋・戦国時代にかけてですから、口達者な学者が多数輩出していて、目に余ったのかもしれません。
『老子』の教えの中で、「おしゃべりはボロが出ますよ。静かにしているに限りますよ」というのは、実に分かりやすい教えと言えます。
ですがねえ、教えは分かりやすいのですが、これを守るのは至難の業ともいえる気がします。
まあ、せっかくこの教えに触れたのですから、おしゃべりもほどほどを心がけますか・・。
( 第五章より )
★ ★ ★