雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

おしゃべりは控え目に ・ ちょっぴり『老子』 ( 10 )

2015-06-19 15:01:41 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 10 )

               おしゃべりは控え目に

多言は行き詰る

「多言數窮。不如守中」
『老子』第五章の最後の部分です。
「多言(タゲン)は しばしば窮する。中(チュウ)を守るに如かず」と読まれています。
「多言は、しばしば行き詰るものだ。虚心で無言を守るのに限る」といった意味でしょう。
「中」については、「忠」の文字を使っているものもあるようです。「虚心で無言を保つ」と説明されているものが多いのですが、「中」という文字にそのような意味があるのかどうか疑問です。何かもう少し深い意味があるような気がします。

第五章は、ごく短い文章からなっているのですが、前段部分と、ここに挙げている文章とのつながりも、今一つしっくりいきません。
ただ、「おしゃべりはボロが出ますよ。静かにしているに限りますよ」というのは、実によく分かります。

ついついおしゃべりしてしまいますが・・

「沈黙は金」とか「物言えば唇寂し」などといった教えは、古今東西を問わず、数限りなくあるように思われます。
多くの指導者や思想家などが口をそろえて言っている教えを、なぜ『老子』先生ともあろう人が書き残したのでしょうか。
考えられることは、『老子』の時代には、まだこの教えがそれほど普及していなくて目新しい教えだったのか、あるいは、普及していたとしても、なおわざわざ触れるほど大切な教えだったのかもしれません。
また、時は、春秋・戦国時代にかけてですから、口達者な学者が多数輩出していて、目に余ったのかもしれません。

『老子』の教えの中で、「おしゃべりはボロが出ますよ。静かにしているに限りますよ」というのは、実に分かりやすい教えと言えます。
ですがねえ、教えは分かりやすいのですが、これを守るのは至難の業ともいえる気がします。
まあ、せっかくこの教えに触れたのですから、おしゃべりもほどほどを心がけますか・・。

                                               ( 第五章より )

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女性は偉大なり ・ ちょっぴり『老子』 ( 11 )

2015-06-19 14:58:39 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 11 )</fo<strong>

               女性は偉大なり

不死不滅

「谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地之根。綿綿乎若存、用之不勤」
『老子』第六章は、これで全文です。
読みは、「谷神(コクシン)は死せず、これを玄牝(ゲンピン)という。玄牝の門、これを天地の根(コン)という。綿々として存するがごとく、いくら用いても疲れることがない」といった感じです。
「谷神」というのは、生産を司っている神のようで、『道』のことを指しているのかもしれない。
「玄牝」というのも分かりにくいのですが、「奥深く微妙な女性」と説明している参考書があります。そして、「玄牝の門」が天地の根本となったものを生み出したということのように、読み取れます。

つまり、「谷神は不死不滅であって、これを玄牝という。その玄牝の門は、天地の根本ともいうものである。それは、綿々と、微かにしかも永遠に存在して、あらゆるものを生み出して疲れることがない」というのです。

女性は偉大なり

この短い章は、考えを膨らませて行きますと、物語が出来そうな気がしてきます。
「谷神」、つまり、「谷」は女性を表すことがあるようなのです。それも玄牝となれば、「奥深く微妙な女性」となり、「玄牝の門」から天地が生まれ、その他のあらゆるものを生み続けて疲れることがないとなれば、いろいろなことを考えてしまいます。
単に万物を生み出したものと考えればよいのでしょうが、谷神という女神には夫がいたのだろうかなどと考えてしまうのは、下種の勘繰りの部類でしょうかねぇ。

もしかするとこの章は、『老子』先生は、「女性は偉大なり」ということだけを述べようとしていたのかもしれないようにも思うのです。

                                                   ( 第六章より )

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天地は長久 ・ ちょっぴり『老子』 ( 12 )

2015-06-19 14:57:28 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 12 )

               天地は長久

天地は長久

「天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生。故能長久」
「天は長く地は久しい。天地の能(ヨ)く長く且つ久しき所以(ユエン)の者は、其の自ら生きんとせざるを以てなり。故に能く長久なり」
これは、『老子』第七章の前半部分です。
大体の意味は、「天地は長久である。天地が長久であり得るのは、自ら生きようという意識がないからである。ゆえに、長久なのである」といった感じです。

私たちを取り巻く大自然は、懸命に生きようとする者たちの集団のように見えることもあります。
動物や植物はもちろんのこと、山や川や、海も空も、森羅万象すべての者がたくましく生きようとしているように感じることがあります。
しかし、例えば大災害などを経験してみると、それらの努力のいかに小さいかを感じさせられる気もします。そして、その中にあって、天も地も何事も無かったかのように、悠々と存在していることに圧倒されます。

その身を捨てる

『老子』第七章の後半は、前半を受けて聖人の生き方について説いています。
『老子』の中にたびたび登場してきますが、「聖人」というのは、『道』を体得した人といった意味です。
その聖人といわれるような人は、「自分の身を後にして、他の人を先に立てようとするが、かえって人々に支えられて先に立てられるようになり、その身を捨てて、人々のために尽くすが、かえって人々に護られてその身は存続する。これらは、聖人の無私の態度から生じるもので、無私だからこそ、かえって自分の理想を成し遂げることができる」
といった内容が説かれています。

「無私無欲、自然体であれ」というのは、『老子』の思想の一貫した柱だと思われます。
私たちは、ついつい前に出てしまいます。誰かが行動しなければ解決しないなどと、正義の味方とばかり主義主張を展開する人も少なくありません。
しかし、私たちが、聖人のような行動をとることも至難の業といえるでしょう。
せめて、有るか無いかの知識を振り回して、自己主張を他人に迫ることだけは慎みたいものです。自戒を込めてですが。

                                                   ( 第七章より )

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水の如くあれ ・ ちょっぴり『老子』 ( 13 )

2015-06-19 14:56:22 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 13 )

               水の如くあれ

水に学ぶ

「上善如水。水善利萬物而不争。處衆人之所悪。故幾於道」
「上善は水の如し。水はよく萬物を利して争わず。衆人のにくむ所に居る。故に道に幾(チカ)し」
『老子』第八章の冒頭部分です。
上善(ジョウゼン)というのは、「最も善いもの」といった意味で、最善の考え方、最善の身の処し方など広い意味を持っているのでしょう。
つまり、「上善というものは水のようなものだ。水は万物に利益を与えるだけで、争うことがない。そして、衆人が嫌がる低い所に身を置いている。したがって、水というものは『道』に近い存在といえる。

「水の如くあれ」というのも、『老子』の思想の根幹を成すものの一つのように思われます。
周囲の環境によって形を変え、常に最も低い場所に身を置き、それでいて、水はやはり水だということなのでしょうか。

善とは、何か

第八章も比較的短い章段なのですが、上記した部分には「善とはこのようなものだ」といった内容が続いています。
「上善は水の如し」と述べた後に続いているので、自然といえば自然なのですが、「水は『道』に近い」とあとで、善の説明に入っているのは、やはり繋がりとしてはおかしく、書き加えられたのではないかという説もあるようです。

その部分の概略は、
「起居生活は地についたものが善く、心は淵のように静かで奥深いものが善く、与えるのには見返りを求めず仁愛をもってするのが善く、言葉は行動が伴い信頼されるものが善く、政治は平安に治まることが善く、事を成すにはそれに足る能力があることが善く、動くのはその時にかなっているのが善い」
と説明されていて、
「それらは、水のように争わないから、とがめられることがない」
と結ばれています。

何が善なのか、何が正義なのか、私たちの社会では、立場や利害によって複雑に絡み合い、時とともに移ろうことも珍しくありません。
それなればこそ、「水の如くあるのが善い」ということなのでしょうが、さて、現実の問題としてどう考えればよいのでしょうか・・。

                                                 ( 第八章より )

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引き時の大切さ ・ ちょっぴり『老子』 ( 14 )

2015-06-19 14:55:23 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 14 )

               引き時の大切さ

腹八分目

「腹八分目」という言葉がありますが、誠に至言だと思います。
『老子』も第九章で、次のような内容のことを説いています。

「器に水をいっぱいに入れて、こぼすまいと持っているほど馬鹿なことはない。刃物を鍛えて鋭くするにしても、鋭利にしすぎると長く保つことができない。宝玉を堂から溢れるほどためこめば、とても守りきることなどできない。富貴になったからといって驕(オゴ)れば、他人から咎めを受ける・・」
と、何事もほどほどにしなさいと言っています。

引き時が大切

「功成名遂身退天之道」

第九章の最後の部分です。先に記した部分の後に書かれています。
読みは、「功なり名遂げて身を退くは天の道なり」となります。

富であれ名声であれ、手にすれば手にするほど放しにくくなるらしいのは、『老子』の時代も現在も、全く変わりがないようです。
優れた多くの先輩たちが声を大にして説いていますが、不様なまでに地位や名声にいつまでもすがりついている姿は、今もなお珍しくありません。並の人間には、自らの引き際を見定めることは実に難しいことのようです。
世間に知られるほどの立場でない者にとっても、肝に銘じておきたい教えだと思います。

                                                ( 第九章より )

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徳を積む ・ ちょっぴり『老子』 ( 15 )

2015-06-19 14:54:29 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 15 )

               徳を積む

最高の徳とは

「徳を積む」といった言葉は、今日の日常生活で使うことはあまりないようです。死語というほどではないとしても、忘れられつつある言葉の一つのような気がします。
この場合の「徳」は、「身についた品性。人格の力」といった意味を指します。「徳を積む」とは、そのような品性を積み上げていくことを言います。
『老子』第十章には、この「徳」について説かれています。

「生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰。是謂玄徳」
日本語読みは、「之を生じ之を畜(ヤシナ)い、生じて有せず、為(ナ)して恃(タノ)まず、長じて宰(サイ)せず。これを玄徳という」といった感じです。
これは、第十章の末尾の部分です。大体の意味は、「(『道』は)万物を生み、万物を養っているが、生み出したものを我が物とせず、成したことの功の見返りを求めず、成長させたからといって支配することはない。こういうのを玄徳という」となります。
この「玄徳」というのは、「最高の徳」といった意味のようです。第六章には、「玄牝」という言葉が出てきていましたが、「玄」は同じような意味のようです。

どのように徳を積むか

徳を積むということは、すなわち『道』を究めるための一手段のような気がします。
第十章の前の部分については、それを会得するためのことが述べられています。
その概略は、
「心を取り巻く肉体に乗り、心中には『道』を抱き、これから離れないようにしよう。気を専一にして、肉体は柔軟にし、嬰児のようであろう。心を洗い清め、過誤のないようにしよう。民を愛し国をよく治めて、無為でありたい。万物の生滅変化に対して、牝のように従順であれ。心は公明で、あらゆる出来事に通じていながら、愚者のようであれ」
と、あります。このようにして、徳を積み、『道』を究めなさい、ということらしいのです。
この中で、「民を愛し・・」とあるのは、この文章が為政者を対象に説かれたからのようです。また、「牝のように従順・・」というのも、原文に「牝」という字が用いられたのでそのまま記述しました。これは人間の女性ということではなく、動物全般を指しているように読み取れますが、それが「従順」というのは、『老子』先生の観察眼も完璧ではないような気もします。
この章に示されているようなことを実行することで徳を積めるのかどうか、凡人にはどうも納得性に欠ける気もします。もっとも、その前に実行できるかどうかの問題もありますが。

ただ、「生み出したものを我が物とせず。功績を威張らない。育てたからといって支配しない」などは、スケールの大きさはともかく、私たちも心すべき教えのように思われます。

                                               ( 第十章より )

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無こそ有用 ・ ちょっぴり『老子』 ( 16 )

2015-06-19 14:53:32 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 16 )

               無こそ有用

有用と無用

「 故有之以為利、無之以為用。」
読みは、「ゆえに、有(ウ)の以って利を為(ナ)すは、無の以って用を為せばなり」となります。
これは、『老子』第十一章の最後の部分です。
「有(存在しているもの)が人々に利をもたらすのは、無(存在していないもの・隠れているもの)が働きをしているからである」といった意味です。

この章は短いものですが、この文章の前の部分では、無があってこそ有が役立っている事例を挙げています。
少しわかりにくい部分もありますが、概略を述べてみますと、
「車輪は三十本の矢で支えられているが、それらは中央のコシキ(軸を受ける空洞の輪)に繋がっている。この空洞の働きがあるから車輪はその役に立つのである。
粘土を丸めて器を作る。その器は、中の空洞の部分があるからこそ、物を入れるという役に立っている。
戸や窓を開けて部屋を作るが、人が入る空間部分があるからこそ部屋として役立つのである」
と、具体的に説明しているのです。

『道』とは無のようなもの

『道』は、その存在が目に見えない。無のようなものである。しかし、その見えないもの、隠れているものがあるからこそ、万物は存在し、それぞれの働きを為している。
どうやら『老子』先生は、この章で『道』の一端を示そうとされているようです。

「無用の長物」などという言葉もありますが、日頃さして役にも立たなかった人が、いなくなってからその存在が大きかったことを感じることがあります。
ついつい無駄と分かっているような物を、なかなか捨てられないのは、私たちが無意識のうちに「無」の大切さを感じているからかもしれません。
何事につけ、合理性や効率性が優先されがちな世相ですが、心豊かな人生には、鈍重なまでに悠々としたもの、日頃は存在さえ忘れてしまっているようなもの・・、そのようなものにこそ大きなヒントが隠されているのかもしれません。

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五色は人を惑わす ・ ちょっぴり『老子』 ( 17 )

2015-06-19 14:52:40 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 17 )

               五色は人を惑わす
 
質実の勧め

「 五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁伝猟令人心発狂。難得之貨令人行妨。是以聖人為腹不為目。故去彼取此。 」
以上は、『老子』第十二章の全文です。
読みは、「五色(ゴシキ)は人の目を盲(モウ)ならしむ。五音(ゴイン)は人の耳を聾(ロウ)ならしむ。五味(ゴミ)は人の口を爽(ソウ)ならしむ。馳騁田猟(チテイデンリョウ)は人の心を発狂せしむ。得難き貨(カ)は人の行いを妨(サマタ)げしむ。是を以って聖人は腹の為にして目の為にせず。故に彼を去りて此を取る」といった感じです。
この章は、質実な生活を勧めているようです。

「五色」とは、本来、青・黄・赤・白・黒を指しますが、ここでは、美しく彩色された衣服や調度を指すのでしょう。
同じように、「五音」は美しい音楽に耽溺することを指すのでしょうが、耳に心地よい言葉も指すかもしれません。「五味」はご馳走を指すのでしょうが、「爽ならしむ」というのは、ご馳走に慣れて素朴な味を忘れるという意味のようです。
「馳騁田猟」というのは、馬を走らせ狩りを楽しむことのようです。

腹の為にして、目の為にしない

この部分は、なかなか面白い文章だと思います。
つまり、『道』を修得した聖人と言われるような人は、生きていくため最低限必要なものを食べ、目を楽しませるための贅沢はしないというのでしょう。

古来、「質素倹約」とか「質実剛健」などという言葉があるように、質実な生活を勧める教えは数多くありますが、地位や富を得れば、なかなか守り難い教えのようです。
『老子』の時代もそうだったようですが、せっかくの教えにかかわらず、今も何ら変わりがないように思われるのですが・・。

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恥とつきあう ・ ちょっぴり『老子』 ( 18 )

2015-06-19 14:51:58 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 18 )

               恥とつきあう

「恥知らず」とは言われたくない

私たちには、少なくとも「恥知らず」とだけは言われたくないという心理が、かなり強く働いているような気がします。
ちょっとした口喧嘩でも、「バカ」とか「アホ」とか口にすることはあっても、「恥知らず」となると、かなりお互いの心情に影響を与えてしまうような気がするのです。
『老子』も「恥」について触れています。

「 寵辱若驚、貴大患若身。何謂寵辱若驚、寵為上辱為下。得之若驚、失之若驚。是謂寵辱若驚。 」
読みは、「寵辱驚くがごとく、大患を貴ぶこと身のごとし。何をか寵辱驚くがごとしと言う。寵を上と為し辱を下と為す。之を得ては驚くがごとく、之を失いては驚くがごとし。是を寵辱驚くがごとしと言う」といった感じです。
『老子』十三章の前半の部分です。
大体の意味は、「人は、寵(チョウ・愛されること、大切にされること)を受けることや、辱(ジョク・そしられること、恥をかくこと)を受けることで心を動揺させ、大患(大きな災いとなるもの。ここでは、奢侈や宝玉などを指す)となるものを、身を尊ぶのと同じように尊んでいる。人は、寵を尊いものとし辱を卑しむべきものとしている。寵や辱を得ては動揺し、寵や辱を失っては動揺している。これを『寵辱驚くがごとし』というのである」

人には、褒められたいし、そしられたくないが・・

口では立派なことを言っていても、見え透いたようなお世辞にでも、ついつい頬が緩んでしまいます。
正義の味方のような発言をしていても、恥はかきたくないし、非難誹謗には、無意識のうちに頬をひきつらせてしまいます。
そんなことでは大事は為せない、というのが『老子』先生の教えなのでしょうが、なかなか難しい教えです。

この章の後半には、「真の意味で自分の身を尊ぶことを知っている人物にこそ、天下を託すべきだ」といった教えがなされています。
つまり、「世間の寵や辱に、おろおろしなさんな」ということなのでしょう。

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見えず聞こえず捕えられず ・ ちょっぴり『老子』 ( 19 )

2015-06-19 14:51:14 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 19 )

               見えず聞こえず捕えられず 

見ることも聞くことも出来ない              

「 視之不見、名曰夷。聴之不聞、名曰希。捕之不得、名曰微。此三者不可致詰。故混面為一。 」
『老子』第十四章の冒頭部分です。
読みは、「之を視れども見えず、名付けて夷(イ・影も形もないもの)という。之を聴けども聞こえず、名付けて希(キ・声も音もないもの)という。之を捕えんとすれど得られず、名付けて微(ビ・隠れているもの)という。この三者は致詰(チキツ・究明すること)すべからず。故に混じて一と為す」

この章は、『道』とは何ぞやという説明のようです。
つまり、「『道』とは、見ようとしても見えないし、聞こうとしても聞こえないし、捕まえようとしても何もとらえることができない。これらの、『夷・希・微』というものの正体を究明することなどできない。そして、『道』とはこれらの三つが混然として一体となっているものだ」というのでしょう。

太古以来の真理に従え

さらに『老子』先生は、『道』についのて説明を続けています。
「その存在は、つまり『道』というものは、その上方が明らかなわけではなく、その下方が暗いわけではない。じょうじょうとしていて、名付けようがない。・・・前から迎えようとしてもその首は見えず、後からついていこうとしてもその後ろ姿が見えるわけでもない・・」
と続いていて、「じゃあ、どうすれば付いて行くことができるのか」と言いたくなってしまいます。
そういった凡人の声が聞こえたわけではないのでしょうが、最後の部分で、「それは、つまり『道』は、太古以来の真理を執り行って、今の万物を支配し、その万物の始原を知っている」と説明しています。

なかなか理解し難いのは、当然のこととして諦めるしかないのですが、「下手な知恵を働かせず、太古から脈々と伝えられている揺らぐことのない真理に身を任せなさい」というのが『老子』の思想の根幹を成す一つと思われ、この章も、そのことを教えるためのもののように思われます。
ただ、私たちは、その教えを受けて、どう日常に生かせばよいのかとなりますと、お手上げといった感じです。

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