「隣の家に、立派な柿の木があります。ところが、その枝の一部がわが家の庭に張り出していて、たわわにつけた実がもがれることなく熟し、一つが落ちました。この柿の実、私が頂戴していいのでしょうか」
「隣の家に竹藪がありますが、わが家との境界の垣をくぐって、タケノコが数本顔を出し始めています。わが家の土地から顔を出したのですから、当然頂戴していいのでしょうね」
これらは、法律のイロハを覚える時に、教えられた記憶があります。
隣接している家どうしで、境界線を廻ってトラブルが発生したというニュースを見ることも、たまには出合いますが、ふつうの家庭では、枝が伸び出してきたとか、落ち葉が舞い落ちてくるとか、といった程度のことでトラブルになることはそうそうないはずです。
ところが、境界線を動かされるとなりますと、そうそう簡単に引き下がるわけにはいかないでしょう。
以前に観た映画の中で(題名も覚えているのですが、少々自信がないので割愛させていただきます)、アメリカ西部を舞台にした映画で、「ここでは、土地の境界は角度で測る」といった台詞があったのを覚えています。つまり、ちまちまとメジャーなどで測るのではなく、この角度からこの角度までの間だ、というわけです。
その一方で、例えば、東京の中心地で土地を分割するとなれば、とてもとてもそんな乱暴なことは出来ないことになります。たとえ1センチの誤差でも、何百万円の損得になるとすれば、当然と言えば当然でしょう。
まあ、わが国の中でのことであれば、境界線に関するトラブルは、時間がかかったり、意に叶った結末にならないとしても、大抵のことは法律が解決してくれます。
しかし、これが、国家間のこととなれば、いささか難しく、境界線を廻るトラブルは国家間の紛争の大きな要因になっています。わが国の場合は、幸いにも島国ですから、陸地における境界線を廻るトラブルはありませんが、幾つかの島の帰属に関しては、頭の痛い問題を複数抱えています。また、海の境界線に関しても、不法侵入が絶えませんし、空も同様です。
いわんや、陸続きの国々にとっては、境界線の防備は国家の最重要課題と言えましょう。境界線を廻って長い間紛争が続いている地域は少なくありません。その中には、角度で決めたわけではないのでしょうが、当時の列強国が、地図上で引いた線で国境が定められ、民族や村落の都合を無視したものもあり、未だにトラブルの原因になっている所があるようです。
国家にとって、もちろん国民が第一なのでしょうが、その生活基盤の中核をなす国土は、そうそう引き渡すことの出来ないものであることは確かでしょう。しかし、むしろそれだけに、トラブルを仲裁できる機関が必要だと思うのですが、大国が絡んだ場合には、その解決方法を現在の私たちは持っていないということを、今、見せつけられています。
さまざまな経緯があるとしても、国際的に認められていると思われる国境線が確固として存在していても、武力さえあれば、易々と打ち破られるという現実を私たちはどう考えればいいのでしょうか。
国境線の強硬打破は、多くの人々の犠牲が伴ってしまいます。世界中には、そうした辛い立場にある国家や国民に、同情し支援する国々も少なくありませんが、大国を絡んだ紛争を解決させるには無力に近いことを、今、見せつけられています。
武力で打ち破られた国境線は、ずたずたになり長く傷ついたままになるでしょうが、いつかはそれなりの修復がなされるでしょうが、これによって傷ついた人々の心の境界線は、それより遙かに長く修復されることがないでしょう。
今、こうした状況に、祈る事しか手段がないことに、憤りのようなものを感じています。
( 2022.03.12 )
ウクライナ情勢をめぐる国連・安保理のニュースを見ましたが、失望を遙かに超えるものでした。
国連(国際連合)は、ご存じの通り第二次世界大戦後の世界秩序の再構築のために設立され、発展してきた組織といえます。その設立に当たっては、それ以前の国際連盟では第二次世界大戦を防ぐことが出来なかったことを、相当意識して設立されたのでしょうが、要は、戦勝国による国際秩序の構築といった面が強いことも確かでしょう。
敗戦国であるわが国は、国連という組織の中では、未だに『敵国』と規定されている身ですから、一人前の発言など許されないのでしょうが、どうも、国連の持つ機能のうち、安保理を含め、賞味期限が切れつつある組織が増えてきているように思えてなりません。
国連の主要な機関の一つである司法裁判所も同様で、おそらく、安保理の常任理事国が絡むような事項では、殆ど解決には役立たないように思われ、今回のロシアによるウクライナ侵攻も、国際司法裁判所で解決できるとはとても思えないのです。
こうしたことを考えますと、人類すべてに共通な「絶対的な正義」といったものが存在していれば、あるいは私たち人類がそうしたものを共有するだけの知恵を持つことが出来れば、世界の秩序は相当違ってくると思うのですが、夢物語なのでしょうか。
それに、「そもそも正義とは何ぞや」ということになりますと、これがなかなか難題のようです。
わが国で「正義」という言葉が使われるようになったのは、明治になってからのことだそうですから、とても新しい言葉なのかもしれません。それまでの「義」に代わって用いられるようになったとも言われていますが、私たちは、「義」と「正義」とを同一のものとして感じているのでしょうか。
困った時には辞書の力を借りることにしていますが、こと「正義」に関しては、辞書の説明を理解することさえ簡単ではありません。
どうやら、「正義」とやらは、国の数だけあるようで、それどころか、百人居れば「百の正義」が存在しているのかもしれません。
江戸時代、わが国の通貨制度は、三種類の貨幣で運営されていました。藩によっては、藩札といった物も発行されていましたが、幕府公認としては、金・銀・銭による三貨制度と呼ばれる物が混在していました。
金は、一両小判や一分金など硬貨になっていましたし、銭もそうですが、銀は、銀貨もありましたが、主体は重さによって価値を計算していました。
しかも、金貨は主に武士社会や大商人に限られていて、長屋の住民が日常に使用することはまず無かったようです。大坂では銀が主体だったようですが、江戸においても使用されていて、ちょっとした商売人であれば、金貨と銀の現物、そして銭の三貨を巧みに取り扱っていたわけです。
さて、それだけ複雑な金銭を使いこなしていた先人の知恵を参考にすれば、数限りないように見える「正義」ですが、何とか少し整理すれば、同じ土俵の上で「正義」を語り、正義に基づいた行動規範を築く可能性も、皆無ではないような気がするのです。
ただ、江戸の町の複雑な貨幣制度が機能した背景には、両替商の存在がありました。現在の世界においても、複雑な性格を持っている「正義」を、そこそこ公平に調整できる両替商的な存在が必要なのでしょうが、さて、そうした機関の登場は期待できるものなのでしょうか。
( 2022.03.15 )
『 小さな小さな物語 目次 』
NO.1521 さまよう国家
1522 花も花なれ人も人なれ
1523 その手を放さないで
1524 優雅な姿にも歴史がある
1525 落とし所
1526 遙かなる星からの使者
1527 「Z」に罪はないけれど
1528 本質のレベル
1529 ヤマアラシですか ハリネズミですか
1530 続けることが大切
1531 お天道様が見てござる
1532 絶対正義
1533 峠を越える
1534 ゴールデンウィーク 悲喜こもごも
1535 これからの50年
1536 問題は大きすぎるが
1537 道なき道
1538 癇癪玉は堪忍袋へ
1539 鏡に映る姿
1540 十年一昔
「私たちにとって、国家とはなんだろう」
悲惨な状況が増しているウクライナの状況を知らされるにつけ、このような疑問が湧いています。
『私たち』というのは卑怯な表現かもしれませんが、今回のロシアの軍事力行使は、私たちに幾つかの問題を提起し、私たちの覚悟の程度を問われているような気もするのです。
私自身に限っていえば、自分が日本という国家の一員であることはしっかり認識しているつもりですが、日常生活の中で、国家というものを意識することはほとんどありません。わが家には、日の丸の旗はありませんし、国歌を書いた物やレコードやCDのような音源もありません。それでも、オリンピックともなけば、俄然愛国的になるのですが、周囲には私のように人も決して少なくないように思われます。
人間社会に「国家」という存在が登場してきた時期については諸説あるようですが、古代メソポタミアにおいて、紀元前3,300年頃にいわゆる都市国家が誕生したのが最初のようです。
人類の登場となりますと、更に絞り込むのが難しくなりますが、現代人と同グループと考えられる新人類の登場は、およそ20万年前とされていいます。
文明でいえば、旧石器時代の始まりは、およそ200万年前となり類人猿の時代まで遡ってしまいますが、新石器時代となりますと、その始まりは紀元前6,000年の頃と考えられています。
私たちの祖先が、この地球上に登場し、人口を拡大していくうちに「国家」という組織を得るまでには長い時間を要しており、逆に言えば、私たち人類が、「国家」という組織を得てからは、せいぜい5千年あまりしか経っていないということになります。
古代メソポタミアで誕生した都市国家の周辺には、次々同様の組織が生まれ、世界中の広い地域にも似たような組織が誕生してきたのでしょう。しかし、19世紀に帝国主義という領土拡大競争が起きるまでは、世界の中には、どの国家にも属していない地域が存在していたそうです。
それでは、「国家」とされるには、どういう条件を必要としているのでしょうか。
一般的に「国家」の条件としては、「①一定の領土 ②国民 ③国民を治める排他的な統治権を持つ政治社会」の三つとされているようです。
人類がはじめて築いたとされる都市国家は、おそらく③が中心であったのではないかと思うのですが、現在でも、他国の発言や行動に対して、「内政干渉」だと強く反発するのは、この伝統のような気がします。最近では、領土に関する争いが、国家間の紛争の主原因のような気がしますが、わが国にも「一所懸命」という言葉があるように、国家の形体を持つ集団が増えるに従って、領土に関する軋轢は増していったのでしょう。
国家であるための三要素の中で、国民の重要性はどれほどの地位を占めているのでしょうか。
多くの近代国家においては、少なくとも民主主義を標榜する国家においては、国民の生命を守ることこそが最大の責務とされているように思うのですが、実際はそうでもないようです。
国土を守るためには国民の犠牲は厭わないという風潮は強くありますが、その一方で、国民を守るために国土を譲り渡すという例はあまりありません。実際は、そうした例はたくさんありますが、そのほとんどは、わが国も同様ですが、惨憺たる国民の犠牲を積み重ねた後というのがほとんどです。
そうではなく、国民が最も大切なので、それを守るためには国民が立ち上がらなければならないという考え方は根強く、おそらくその通りなのでしょう。そして、その為にも、正しくて強力な政権を求め、豊かな経済力を求め、強固な軍事力を求め、同盟国や親密国を増やそうと努力するわけです。
しかし、同盟関係というものは、お互いがお互いを必要としている間だけ有効であることは歴史が教えてくれています。知力が武力を上回るとの教えは唱えられてから久しいですが、これも平和な時だけのように疑ってしまいます。また、「お国のために命を懸けよ」という場合の「お国」は何を指しているのかも難しいところです。
さらには、これから何十年間のうちには、国内から崩壊の危機を迎える国家は少なくないような予感があります。
今、私たちは、圧倒的な軍事力による侵略という悲劇を見せつけられています。世界はこれをどういう形で決着させることが出来るのか、そして、その後の国際関係はどのような形になるのか、多くの国家は揺れ動き、わが国とても「さまよう国家」の一つに成り得ることを認識する必要があるように思うのです。
( 2022.03.21 )
戦乱の時代、戦いの大波に翻弄されながらも、壮絶な最期を粛々と迎えた一人の女性がいました。
『 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 』
これは、その女性、細川ガラシャの辞世の句とされるものです。
ガラシャは、1563 年、明智光秀の三女(次女とする説もある)として誕生しました。本名は、「珠/玉」あるいは「珠子/玉子」と伝えられています。
1578 年、後に肥後細川家の初代当主となる細川忠興に嫁ぎます。この結婚は、織田信長の仲立ちによるとも伝えられていて、いわゆる「主命婚」の最初ともされているようです。
ただ、二人の仲は極めて睦まじいものであったようです。ところが、1582 年に本能寺の変が勃発、光秀が主君である 信長を討ち果たし、わずか十日あまり後には羽柴秀吉らの軍に敗れ討たれてしまいました。
幸せの絶頂から、突然「謀反人の娘」となったガラシャは、細川家との離別に追い込まれましたが、帰る実家がなくなってしまった愛妻を、忠興は丹後国の味地野(京丹後市)に幽閉しました。そこでの生活は、侍女たちが世話をしたようですが、どうもこのあたりのことは疑問があります。
幽閉されていたとされる間に、ガラシャは男子二人を生んでいるのです。それも、細川家の男子としてですから、幽閉というのは形だったようで、忠興の愛情の深さが感じられます。
1586 年、天下を掌握した秀吉の取りなしもあって、ガラシャは忠興のもとに戻り、大坂の細川屋敷での生活を始めました。ガラシャは、三男二女を儲けており、幸せな結婚生活であったと考えられます。
ガラシャは洗礼名です。キリシタンとしての最期の姿がよく知られていますが、その入信の切っ掛けは、夫の忠興がキリシタン大名として名高い高山右近から聞いた話を妻に話したことから、ガラシャはキリスト教に興味を持つようになったようです。
1600 年、夫の忠興は、徳川家康に従って、上杉征伐のため東国に向かいました。すると、家康との対立が深刻さを増していた石田三成らは、決起に向けて、家康に従軍した武将の妻を人質に取る作戦を実行しました。
大坂玉造の細川屋敷にも、ガラシャに大坂城に入るよう使者が来ましたがガラシャは拒絶しました。翌日には、軍勢が細川屋敷を囲み、ガラシャが大坂城に入ることを強請しました。かねてからこのような事態も予想していたガラシャは、侍女たちを屋敷から逃がしたあと、自らは自刃を決意しましたが、自殺を禁じているキリスト教の教えに従って、重臣の小笠原秀清に介錯を委ねました。
秀清は、ガラシャを介錯したあと、屋敷に爆薬を仕掛け、火を放ったあと、切腹して壮絶な最期を遂げました。
これを知って、三成勢の人質作戦は頓挫し、間もなく起こる関ヶ原の合戦に少なからぬ影響を与えたとも言われます。
美しく聡明な一人の女性は、キリスト教の教えに出会い、豊かに人生を過ごしたのでしょうか。
本能寺の変では、実父が信長を討つという大事の実行者となり、関ヶ原の合戦の前夜ともいえる抗争の中で、ガラシャは壮絶な最期を遂げました。
いくら美しくても、いくら聡明であっても、いくら神に祈っても、戦乱のあおりを避けることは出来なかったようです。
『花も花なれ 人も人なれ 』
今、私たちは、ガラシャのこの絶唱を、どのように受け取ればいいのでしょうか。
( 2022.03.24 )
当市は、数年前から、捨て猫を守る運動が盛んで、野良猫を捕らえて避妊手術を施した上で、地域猫としてノラ生活を続けさせる運動を行っているようです。
私宅の近くにも数匹のそうしたノラ猫がいて、ボランティアの人たちが朝夕に餌を与えに回っているようです。
そうしたお方の一人と知り合いであったことから、今、私宅には一匹お世話させていただいています。その猫は、ノラたちの中で仲間はずれのようになっていたようで、食餌を満足にもらえなかったようで、私宅の庭にも顔を出していたので、たまに餌を与えたりしていたこともあり、餌で釣って家に閉じ込んで、むりやりわが家の猫にしたのです。一年あまりを経て、今ではすっかりわが家の一員と言うより、少なくとも私よりは上位の家族になっています。
少し前からは、やはりボランティアの方たちがお世話をしている一匹が、わが家の庭あたりをベースにするようになっています。朝早くには食餌を待っているほか、最近では日中や夕方にも来ています。私の顔を見ると声を出して餌をねだりますが、ある程度以上は近づけさせません。
ボランティアの方の話でも、もう、人に飼われるのは無理なようなので、今の状態が彼女(メス猫です)に取って一番いい状態らしいのです。ただ、食餌の世話だけは見捨てないようにしたいとのことで、今では、わが家には、内と外とにニャンコという仲間がいる状況です。
特に外のニャンコには、トイレの場所は好き勝手に見つけてくれていますので、あとは昼寝できる場所を提供するなどしながら、出来るだけ快適な日々を送ってもらいたいと思っています。
ペットから連想したわけでは決してありませんが、子供の虐待といった事件が気になります。それも、他人からの虐待や殺傷という事件ばかりでなく、実の父母がらみの事件の多さに胸が痛みます。
『その手を放さないで』というのは、あるドラマの中で聞いたセリフです。そのストーリーはほとんど忘れてしまいましたが、この言葉だけは心の片隅に残っています。
子供が被害者となる事件は、何も最近発生し始めたものではないのでしょうが、新聞やテレビで報道されるものだけでも、実に凄惨なものが少なくありません。それも肉親が加害者となる事件がです。そうした事件の加害者の中の誰かが、『その手を放さないで』という声を聞き取ることが出来ていれば、幾つかは防げていたのではないかと考えるのは、甘すぎるのでしょうか。
今、ロシアの侵略にさらされているウクライナにおいては、多くの子供が殺害され、多くの子供が国外に逃れ、多くの子供が国外に逃れることも出来ない状態になっています。悲しいかな、すでに孤児となってしまっている子供もいるのでしょう。
残念ながら、世界の英知は、この惨状を治めるには、なお犠牲を必要としているようです。
そして、何を為すことも出来ず見ているだけの私などは、せめて『その手を放さないで』の一助になるためには何が出来るのか、考えてみたいと思っています。
( 2022.03.27 )
久しぶりに姫路城に行ってきました。
子供の頃から何回も訪れていますが、ここ数年はすっかりご無沙汰でしたが、コロナの蔓延防止等重点措置が終ったことと、千姫がらみの特別展が開かれているとかで足が向きました。
桜はまだ三分咲き程度でしたが、やはり、白鷺城と称されるだけに優雅な姿は、とても優しく、平和の象徴のような気さえしました。
しかし、当然のことながら、「城」は戦いのための施設であり、その存在の背景には戦乱の時代があったのです。
姫路城の前身は、遙か後醍醐天皇の御代にまで遡ります。
1333 年、播磨の豪族赤松則村は、護良親王(後醍醐天皇の第三皇子)の命を受けて挙兵、京に向かう途中、姫山の地に砦を築いたのが、その始まりといわれています。
1346 年には、赤松貞範が本格的な城を築きましたが、その後応仁の乱にかけて、中央の動きがこの地にも影響を与え、赤松氏、山名氏、小寺氏が入れ替わり入城しています。
1545 年、小寺則職が少し西に当たる御着に移り、姫路城を黒田重隆に任せました。重隆とその子の職隆は小寺氏の許可を受けて、1555 年から 1561 年にかけて、御着城の支城として、本格的な城郭を築きました。本格的な城ということからすれば、この時が姫路城の初代といえるかもしれません。
この城は、1567 年に職隆の嫡男孝高(後の官兵衛)が城主となります。織田毛利の戦いにより小寺氏は没落していきましたが、羽柴秀吉とよしみを結んでいた孝高は秀吉に臣従し、本丸を秀吉に譲り自分は二の丸に移ったと伝えられています。
1580 年には孝高の勧めもあって秀吉は姫路城を居城としました。そして、翌年には三重の天守を築きました。大坂城を築くまでの間、秀吉は姫路城を本拠地としました。
1583 年、秀吉が大阪に移ったあとは、弟の羽柴秀長が入封していますので、秀吉がこの地を重視していたことがよく分かります。
1585 年には、秀吉の正室(北政所、ねね)の兄の木下家定が入封しました。
1600 年、関ヶ原の戦いのあと、池田輝政が姫路城主になりました。天下人となった徳川家康も、この地を西国をにらむ重要な土地と考えていたようで、五十二万石の大大名として姫路城の大改造を命じ、1609 年に五重七階の連立式天守が完成、現在に近い姿となりました。その間には、明石城(船上城)、赤穂城、三木城、龍野城、利神城、高砂城なども、姫路城の支城として改築しています。姫路城をいかに重視していたかが分かります。
1617 年には、本多忠政が嫡男の忠刻と千姫と共に入封しました。千姫は、十万石の化粧料を持参しての輿入れといわれています。千姫は、個人的には大好きな歴史上の人物ですが、ここでは割愛させていただきます。
このあと、どういう理由からか、姫路城主は激しく移動しています。再任されている人も多いですが、いずれも親藩か有力譜代大名です。本多家のあとの城主を列記してみますと、奥平松平家・越前松平家・榊原家・越前松平家・本多家・榊原家・越前松平家と受け継がれ、1749 年に酒井家が入封、以後は明治維新まで藩政を担いました。
姫路城は戦うことがなく、戦火にも遭わなかったことから、今日まで優雅な姿を伝えてくれています。その建造物は、すべてが文化財といえましょうが、国宝八棟・重要文化財七十四棟に及ぶそうです。
関ヶ原の戦い以降に今日の姿に生まれ変わったのですから、戦乱に遭わなかったということは不思議ではないとはいえ、多くの城主が受け継いでの四百余年となれば、火災や落雷で焼失しなかったことは奇跡的と言えなくもありません。実際に、多くの天守や神社仏閣が焼失している例は数多くあります。
姫路城も、幕末の戦乱においては、新政府軍に包囲され砲弾を撃ち込まれたりしていますが、ある豪商が大金を新政府軍に支払って和解の道が開かれたようです。
第二次世界大戦においても、姫路の町は大きな被害を受け、姫路城も多くの爆弾が落され、大天守には焼夷弾が命中しましたが、角度の関係などで不発に終り、延焼を免れています。城内にあった学校が焼失するなどの被害は受けていますが、城郭の建造物はほとんど無傷であったようです。
さらに、明治維新以後の変遷の中で、これだけの建造物を維持していくためには、多くの方々の努力があったればこそと忍ばれます。
形ある物はいつかは壊れる。まさにその通りだと思われます。そして、それだからこそ、護りたい物があるはずです。
さらに、そうした物ばかりでなく、いつ壊れても不思議でないものばかりだからこそ、暴力や戦乱によって喪失させたくないと思うのです。如何なる言い訳も、戦争を許容できるものなどないと思うのです。
( 2022.03.30 )
かつて、ある人から、こんな話を聞きました。
「商売で大切なことは、こちらが五分五厘、相手が四分五厘で決着させることだ。五分五分の商売なら並の商売人だし、こちらが六分も七分も取って喜んでいると、いつかは相手が気づいて得意先を失ってしまう。相手が気づかないまま長く商売が続くとすれば、そのような相手は危なくて仕方がない、そのうちに倒産する可能性がある」といった内容でした。
なかなか興味深い話で、今でもよく覚えています。ただ、私自身は、仕事の上でこの教えを実行したという実感はありません。
最近は、企業間の取引ばかりでなく、国家間の取引においても、やたら「ウインウインの関係」といった言葉を聞きます。
「ウインウイン(win-win)」という言葉は、アメリカで誕生した経営学の言葉ですが、「取引により両者が共に勝つ、つまりどちらもが利益を得ることが出来ること」を指しています。
確かに、こうした取引や交渉ばかりだとすれば、どの企業も繁栄し、国家間の経済的な軋轢は激減するはずです。ところが、現実はなかなかそうは行っていないようです。
物々交換が始まった時は、余裕のある物と必要な物を交換したのでしょうから、この場合は確かに「ウインウインの関係」が成立していたはずです。
しかし、品物の数が多様化するうちに、いくら余裕がある物でも、また、いくら必要なものであっても、少しでも有利な条件での交換を狙うようになり、その為に、力関係や縁故関係や情報力など「商品そのもの」以外の条件も絡まって、五分五分だと思っているうちに倒産してしまう企業が出てしまうのでしょう。
商売であれ、国家間の交渉事であれ、言葉では「ウインウインの関係を」と言いながらも、本音では少しでも有利な条件をむしり取ろうと考えているものです。
ただ、相手がしっかりしていればいるほど、相手が優良企業(国家)であればあるほど、こちらの都合よくは行かないはずです。
そうかと言って、交渉事で決裂することもあるでしょうが、多くの場合は、互いに歩み寄って、どこかで決着を見る場合も多いものです。そして、その時の決着点は、五分五分と言うことはまずあり得ないことで、その差が交渉力であり外交力と言うことではないでしょうか。
商売であれ、外交であれ、「ウインウインの関係」というのは、一つ一つの交渉結果で考えるものではなく、もっとトータルで考えるもののようです。
従って、個々の交渉においては、理想的な決着点は描いているとしても、同時に「落とし所」というものは考えているものです。そうしたものもなく、やみくもに我利を求めるのは、あまりに稚拙ということになるでしょう。
折から、ウクライナとロシアとの停戦交渉が続いています。若干の進展が見られたとも、単なる時間稼ぎだとも言われていて、真相はよく分かりません。
ただ、いずれはどこかで決着させなくてはなりません。
その場合、ウクライナにすれば、最終的には「ロシア侵攻以前までの復興費用、人命及び負傷者への保証・慰謝料+今後の安全保障」は最低限の条件でしょうし、ロシアも、大義名分がある戦いだと思っているのでしょうから、「戦費と人的損害に見合うだけの領土獲得+ウクライナの無力化」を望んでいるのでしょう。これを主張し合えば、絶対に停戦などできるはずがありません。
残念ながら、両国や、全世界がいくら知恵を絞っても、この戦争を決着させる交渉では「ウインウインの関係」を成立させることは不可能です。
いくら悔しくとも、どこかに「落とし所」を見つけ出すしか仕方がありません。そして、もう一つ考慮しなくてはならないことは、決着後も、この二国は隣国であり続けることです。
少々歪んだ形であっても、一日も早い停戦の実現を祈るばかりです。
( 2022.04.02 )
『 米ジョンズ・ホプキンズ大と千葉大などの国際チームは、129億年前に輝いていた星の光をハップル宇宙望遠鏡で観測することに成功したと英科学誌ネイチャー電子版に発表した。単独の星としては、これまで最古だった約90億年前との記録を大きく塗り替えた。
千葉大の大栗真宗教授(宇宙物理学)は「現在の宇宙の星と質量や成分を詳細に比較できれば、宇宙がどのように進化したかを知る手掛かりになるかもしれない」と話した。今後、より高性能なジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡でも観測を続ける予定という。
138億年前の宇宙誕生から約9億年という初期の星を出発した光には、途中にある銀河団の重力で曲がり、強まる「重力レンズ」という現象が起きていた。さらに望遠鏡の側でも、9時間という長時間の露光をしたことで、かすかな光をとらえることができた。
チームはこの星を、古い英語で明けの明星を意味する「エアレンデル」と命名。太陽に比べ質量は50~500倍、明るさは100万倍もあった可能性がある。発した光が129億年かけて旅をしてくる間にも宇宙の膨張に伴ってエアレンデルは遠ざかり、今では280億光年かなたにあるという。 [ ワシントン共同 ] 』
以上は、4月2日付け毎日新聞朝刊の記事を引用させていただきました。
何ともスケールが大きな話です。
米ジョンズ・ホプキンズ大といいますと、世界各国の新型コロナウイルスの感染者数を集計し発進して下さっている大学としても知られていますが、こうした研究も行っていることに感心し、わが国の大学が加わっていることに誇りのようなものを感じます。もっとも、この発見がどの程度すばらしいことなのかを理解するだけの知識はないのですが。
それにしても、129億年前にその地点に存在していた星が発した光を、今、この地球上にいる研究者が望遠鏡を通してとはいえ見ているということを、どう理解すればいいのでしょうか。つまり、今見ていると思っても、すでに消滅していることは十分考えられることですし、前記の記事によれば、すでに、研究者が見ている光の発信地点からは、さらに151億光年先に遠のいていることになります。
宇宙旅行だとか、火星探査だとか、人類の宇宙開発技術がどんどん向上しているような声も聞こえますが、この記事を見ますと、火星だ木星だといったあたりを宇宙と表現して良いのかどうか疑問に感じてしまいます。
「人間五十年 下天の内を くらぶれば 夢幻の 如くなり ・・・ 」
これは、幸若舞の「敦盛」の一節ですが、織田信長が登場してくるドラマなどでは、必ずその舞姿が描かれます。
この「下天」といいますのは、仏教世界において、私たちが輪廻を繰り返すとされる六道のうち、一番上の世界である天道のうちで一番下の「四大王衆天」を指していて、そこでの1日は人間界の50年に当たるといった意味で、人間の寿命が50年だと詠っているわけではありませんが、人の命の儚さを詠っていることに違いはありません。
それは、何も信長が詠っているだけでなく、鴨長明は「朝(アシタ)に死し、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。・・・」と書き残しておりますし、近くは、「いのち短し 恋せよ乙女 ・・・」といった名曲もあります。
果てしない宇宙の広がりを思い描いたとき、私たちのいのちの儚さは、比べることこそ虚しいことといえます。
しかし、それであればこそ、私たちは生きていくことに意味があるのではないでしょうか。
まだ幼くして世を去って行く人もいます。未だ誕生に至らないまま消えていく命もあります。長く生きたといっても、今は百歳を超える人は珍しくもありませんが、二百歳を迎えたという人を聞いたことがありません。「下天の内」と比べたり、「エアレンデル」が発した光の旅と比べますと、どの命も、ほんのひとときの輝きに過ぎないのかもしれません。
そうであるとすれば、その輝きのひとときを私たちは生き抜く必要があるのではないでしょうか。何かを為したとか為さなかったとか、寿命が短いとか長いとか、そうしたことを全く無視することは出来ないとしても、与えられた命を生きる意味は同じだと思うのです。
そして、それだからこそ、理不尽に命というものを消し去ってはならないと思うのです。しかも、それが戦争など大量の命が失われる行為を、未だに防ぐ知恵を持っていない現実を、私たちは率直に見つめ直す必要があると思えてならないのです。
( 2022.04.05 )
最近、「Z世代」という言葉をよく耳にします。
つい先日もテレビでかなり熱心に報道されていましたが、つまりは、どういう事なのかは良く分かりませんでした。
年代的に言えば、およそ10代から20代前半くらいの世代、具体的には11歳から25歳くらいの層を指しているようです。
この世代は、物心がついた頃からデジタル化に出合っており、スマホ文化の急拡大と共に成長しているあたりに特徴があるとされています。そうした若者たちが、文化面で社会をリードするばかりでなく、消費動向、さらにはモラルや選挙対策上も無視できなくなっているそうなのです。
先日の韓国の大統領選挙においてもこの世代の動向が注目されたようですし、わが国においても、選権権年令が引き下げられたことから注目が高まりそうです。
「Z世代」という言葉は、アメリカで誕生したようです。
わが国では、突然「Z世代」という言葉が使われ出した感がありますが、その前には「X世代」があり、それに続いて「Y世代」があって「Z世代」が登場したわけです。つまり、「未知の」あるいは「理解不能」の世代「X」、といった意味でスタートした言葉だったのでしょう。
これは、アメリカあたりの考え方だと思うのですが、誕生年によって次のように区分されることがあるようです。
* ジェネレーションX世代 1965 年頃から 1980 年頃まで
* ジェネレーションY世代 1981 年頃から 1995 年頃まで
* ジェネレーションZ世代 1996 年頃から 2010 年代始め頃まで
と、されているようですが、確定的な分類ではないようです。
先にも述べましたように、この世代の動向が、これからの社会の動きに大きな影響を与えそうなことから注目されていますが、アメリカなどに比べて、わが国のこの層の人口は高齢者層に比べて少ないので、若者たちの相当の奮起がなくては、アメリカほどの影響を与えられないかもしれません。
カタカナに弱い私は、久しぶりに英和辞典を開いてみました。
幸いにも「Z」で始まる言葉は少ないので、薄い辞書ですが、しっかりと見ることが出来ました。
少ない単語の中でも、「ZERO・・ゼロ、零」とか「ZONE ・・地域」とか「ZOO ・・動物園」などは、日常でもよくお目にかかる言葉です。
「Z」そのものの説明には、「『A to Z』・・始めから終りまで 」という奥深いものがあり、「 第三の未知数。(X.Y.Z)」というミステリアスなものがあり、「 Z・Z・Z・・ズ・ズ・ズ 」つまり、漫画でおなじみの「グウ・グウ・グウ」も説明されていました。
単語数は少なくても、「Z」は私たちに多くのものを教えてくれているようです。
ただ、「悪貨は良貨を駆逐する」という有名なグレシャムの法則とやらが存在していることが少し心配です。
ただ今現在も続いている、あの残酷なロシアによるウクライナ侵攻ですが、ロシア軍の戦車や軍用車両には「Z」の文字が描かれています。これによって、「Z」の文字が理由なき迫害を受けないかと心配しています。
「Z」の文字も、「Z世代」の若者たちも、少々の障害は力強く乗り越えていってくれるものと信じてはおりますが。
( 2022.04.08 )