本日、二月三日は「節分」です。そして、明日は立春。
立春の定番といいたいような言葉に、「暦の上では春ですが・・・」というのがありますが、今年は、立春どころか、大寒の最中でさえ春を思わせるような日や、春たけなわといいたいような陽気の日さえ少なくありませんでした。
しかし、季節というものは律義なもので、「春は名のみ・・・」という言葉は忘れていないようで、立春を迎えるのを待っていたかのように寒波到来のようですから、体調に注意が必要なようです。
さて、「節分」というのは、文字通り「季節を分ける」という意味でしょうから、春夏秋冬にあるわけで、立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれの前日が節分ということになります。ただ、現在では、節分という行事などが残っているのは立春の前日の節分だけのようです。古い時代には、それぞれの節分に行事のようなものもあったのかもしれませんが、すでに江戸時代の頃には、節分とは立春の前日のことを指すようになっていたようです。
「節分」の行事となれば、ほぼ全国的に行われているのは「豆まき」ではないでしょうか。「鬼は外、福は内」と唱えながら豆をまくのは全国共通かといえば、地域や神社や家などによって違いがあるそうです。
まず、「鬼は外」というのは禁句で、「鬼は内」あるいは「鬼も内」という所は、結構あるようです。地域でもあるようですが、例えば鬼などをご神体としている神社などは当然「鬼は外」などもってのほかですし、大名家の九鬼氏なども「鬼は内」としたようです。
また、多くは炒った大豆をまくようですが、落花生という地域や、餅やミカンといった所もあるらしく、古くは米や麦もあったようです。
豆まき以外でも、柊の小枝に焼いた鰯の頭を刺すなども広く行われていたようですし、現在でも鰯を食べるという風習は広く行われているようです。
食べる物となれば、地域や時代によって、麦飯・煎餅・ぜんざい・餅・粕汁・とろろ汁・蕎麦・こんにゃく等々、かなりの物があるようです。
昨今は、それらの食べ物より圧倒的に優勢のは、「恵方巻」の丸かぶりではないでしょうか。巻寿司を食べるという風習の起源は諸説あるようで、戦国時代まで遡るという意見もあるそうです。ただ、「恵方巻」というのは、1989年にあるコンビニの社員が名付けたものだそうですから、その歴史は新しいのですが、関西地区に始まった仕掛けは、僅か30年ほどで、ほぼ全国制覇してしまったようです。
いずれにしましても、今日は「節分」です。鬼を「外に出す」にせよ「中に入れる」にせよ、新型コロナウイルスという脅威にさらされている今、鬼の力もお借りしたいものです。
折から、当地でも多くの店舗からマスクが姿を消しています。神頼みで難局を乗り越えようというわけではありませんが、今日ばかりは、豆をまき、恵方巻を丸かぶりして、たとえ少しでも免疫力のアップを願う事に致します。
( 2020.02.03 )
新型コロナウイルスによる肺炎は、まことに厳しい状況になってしまいました。
2月5日発表によりますと、28の国で感染者が出ており、感染者数は24,500人を超え、死者も492人と報告されています。
特に発生源のある中国本土だけでも、感染者が24,324人、死者が490人となっていて、それに加えて感染が疑われている人も23,000人を超えているとされています。
中国以外の研究所などの推測で、数日前の時点で、感染者数は7万5千人、あるいは10万人などという数字が発表されていました。おそらく、ごく軽症の人も加えれば、武漢市を含む湖北省だけでも、感染者数は10万人ではとても収まらないような予感がします。
テレビ報道などによりますと、発生地とされる武漢市の医療体制は、限界を遥かに超えているように見えます。ここに来て、緊急に病院二つが建設され、すでに入院していっているようですが、ここ数日の感染者の増加を見ますと、とても、歯止めするほどの力にならないような懸念を感じます。
とはいえ、あの大国・中国が、中央政府が本気になって取り組み始めているようですから、遠からず勢いを止め、終息への道のりを示してくれるものと期待したいと思います。
また、武漢市や医療関係者の初期対応について、否定的なコメントを聞くことも、ままありますが、さて、これがわが国であれば、もっと優れた対応が出来ていたものなのでしょうか。たとえば、私が住んでいる街が発生源と仮定した場合、武漢市より優れた対応が出来るのかどうか、謙虚に考えてみる必要があるような気がするのです。
第三者の目で、批判をしたり非難をするのは簡単ですが、いざ当事者となった場合、本当はどうなのか、幾つかの災害対応なども思い返せば、横柄すぎる発言もあるような気がするのです。
折から、横浜市の大黒ふ頭沖に停泊中の大型クルーズ船で感染者が確認されました。この大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」には、乗客乗員合わせて3,711人が乗っています。
最初に感染が判明した人は、すでに香港で下船していて、もし、このまま感染者が出なければ、数日下船を遅らせるだけで済んだはずですが、残念ながら、10人もの感染者が出てしまいました。しかも、発熱などの症状がある人や感染が懸念される人など273人に対してウイルス検査を実施しているうちの、検査結果が出た31人のうちの10人に新型コロナウイルスの感染が確認されたという発表は、実に衝撃的なものでした。
これを受けて、乗客乗員全員が、14日間程度の隔離状態を強いられることになったのは、まことに気の毒でありますし、その他の検査結果や感染が、小さなものであることを祈る思いです。
多くの乗客乗員を乗せた大型客船内での感染症の発生は、おそらく、わが国においては初めての試練ではないでしょうか。しかも、乗客には多くの外国人も乗っています。
しかし、起きてしまった以上は、いかに乗客乗員の身を守り、秩序を保ち、わが国の医療技術を存分に投入して、一日も早い全員の下船を実現して欲しいものと、関係各位に尽力をお願いしたいと思うのです。
そして、固唾を飲んで見守るだけの私など多くの国民は、文字通り命懸けで解決に取り組む方々にエールを送り続けたいと思うのです。
おそらく、今回のこの出来事は、医療関係者ばかりでなく、多くの分野の人々にとって、歴史的な出来事と語られるほどのことのように思われるのです。
まさに、わが国の国民性と国力が問われているのではないでしょうか。
( 2020.02.06 )
小さな小さな物語 目次
No.1281 「日日是好日」は覚悟が必要
1282 癪の種に咲く花
1283 共存共栄
1284 理想と現実、知識と実践
1285 健康もどき
1286 何が正解か
1287 チャレンジの三月
1288 思いがけない事
1289 二つに分ける
1290 大器でなくとも
1291 餅は餅屋
1292 オリンピックの存在意義
1293 見えてくるもの
1294 客観的に見る
1295 国家の力・社会の力
1296 『社会力』が試されている
1297 医療関係者を守れ
1298 大きな声は目立つが
1299 感染させない行動を
1300 「この社会」は私たちの社会
当ブログの中で、「日々これ好日」というカテゴリーを発表させていただいています。
この表題を選んで、原則として毎日書いてみようと思った動機は、一つは、日記のような感覚で、その日に感じたものを出来るだけ短く記録していこうと考えたことです。そして二つ目には、日々見聞きするニュースや出来事には、嫌なこと・不愉快なこと・悲しいことなどが多く、楽しいこと・嬉しいこと・微笑ましいこととなどの方が遥かに少ないというのが現実だと思うのですが、それだからこそ、その日の出来事や感じたこと、あるいは大小にかかわらず報道されているニュースなどの中から、一番あたたかなもの、一番微笑ましいもの、といったものを選んで書き止めてみようと考えました。「日々これ好日」という表題は、そういう気持ちから選定したものでした。
しかし、書き始めてみますと、早々に、悲しいことや不幸な出来事などが主流を成すようになってしまいました。
決して、「人の不幸は蜜の味」などといった心境からではないことを強調しておきたいのですが、日々のニュースなどで惹きつけられるものは、「幸福」と「不幸」に二分すれば、後者の方が多いことは否定できません。
NHKの朝のドラマにこんなシーンがありました。無断で使用させていただきますので、不都合がありましたら、どうぞご勘弁ください。
それは、主人公である母親が、息子が大学に入るために家を離れるシーンでのセリフです。
『 何でも楽しみなさい。 つまらないと思ったら、つまらないことを楽しみなさい。 しんどいことがあれば、しんどいことを楽しみなさい。 お母ちゃんに会いたくなったら、会いたいという気持ちを楽しみなさい。・・・ 』
といったものです。記憶で使用させていただきましたので、正確でない部分があるかもしれません。
このシーンに、私は強く感動したのですが、それと同時に、「楽しむ」ためには、相当の信念と根性が必要だとも感じました。
「日々これ好日」、正しくは、「日日是好日」と表記すべきなのでしょうが、その語源は、禅語からきているそうです。
「碧巌録(ヘキガンロク)」という、中国の宋時代の頃に成立した禅の公案集の中に記されているそうで、『 雲門文偃(ウンモンブンエン・949年没)という高僧が、「ここまでの十五日のことはお前に問わない。これからの十五日をどうするか、一言で言ってみよ」という設問に対して、自ら答えた。「日日是好日」と。 』といったものです。
さて、この「日日是好日」をどう理解し、どう実践すればいいのでしょうか。
この言葉の読みについて、私などは「ヒビコレコウジツ」と読んでいました。一般的にはこう読むことが多く、辞書にも載っています。しかし。正しくは、「ニチニチコレコウニチ」と読むらしいのです。
そして、その意味となりますと、「毎日が良い日だ」「毎日が良い日でありますように」などと単純に理解していて良いのかどうか、考えてしまいます。
禅問答だとしますと、「毎日が良い日となるように努めよ」「そもそも、日々のことについて良し悪しを考え一喜一憂することは誤りである」「あるがままを良しと受け取れ」といった説明がされているのも納得してきます。
もしかすると、どう読み、どう理解するかは、それぞれ一人一人に委ねられている言葉なのかもしれないと思うのです。
そして、どう理解するかは自由だとしても、実践するとなれば、相当の覚悟が必要な気がするのです。
( 2020.02.12 )
何かと腹立たしくなることがあります。
何事であれ明確な原因があって、それで腹立たしくなるのであればどうということではないのですが、もちろんその場合でも気分が良くないこと良くないのですが、それほど明確な原因がない状態で腹立たしい気分になるのは、何とも精神衛生上よろしくありません。
もっとも、全く原因が無いかと言えばそうではなく、心当たりはあるのです。たとえば、テレビのニュースやコメントが気に入らなかったり、朝早くに出会った人のことで気に食わないことがあったとか、普段なら一瞬不愉快な気持ちにはなるとしても、それっきり過ぎ去ってしまうような出来事が、何故だかしぶとく腹立たしさが心の中に居座ってしまうことがあるのです。
そうした時、ふと思うことは、もしかすると私の体の中には、「癪の種」のようなものがあって、ちょっとした出来事が、まるで水か肥料のような役割を果たして、その種が芽を出してしまうのではないかということです。馬鹿々々しいと言われますと、私自身がそう思っているぐらいですから否定など出来ないのですが、どうも、私に限らず多くの人は、「癪の種」のようなものを抱えながら日々の生活を送っているような気もするのです。
「癪の種」の「癪(シャク)」というのは、病のシャクからきているようです。ヤマイダレの中に積の文字を入れて『癪』という字を作ったのでしょうから、癪というのはよほど辛い病気を指しているのでしょうね。
現代医学が行き渡るまでの日本においては、原因が分からず激しい痛みを伴う内臓の病気を「癪」と名付けました。
癇癪玉(カンシャクダマ)というのは、花火の一種で、地面に投げつけるなどして爆発させて遊ぶ物ですが、怒りを爆発させる時の表現にもよく使われます。文字を見てみますと、何ともおどろおどろしい感じがしますが、全くその通りで、「癇」も「癪」も、かつての日本では、原因のよく分からない辛い病気を示す言葉なのですから。
私たちの多くが、心の中に「癪の種」を抱えているものとしますと、それとの付き合い方を考えることが大切ということになります。「癪の種」を山ほど抱えていても、修行や知恵を積むことで発芽を押さえることが出来るのかもしれませんが、それが及ばない身としましては、芽が出てしまった癪を、だましだまし爆発させないようにして育て上げて、花を咲かせてみようかと思うのです。
根や茎などに毒を持っている植物が、美しい花を咲かせたり、薬などとして役立つ例は少なくありません。そう考えれば、私の試みは、なかなかの妙案だと思うのですが、問題があるとすれば、その花からまたまた山ほど種が出来るとすれば、さて、その増え続ける種をどうするのかという、新しい課題が生まれてきてしまうのですよねぇ。
( 2020.02.15 )
「共存共栄」という言葉は、ゴロも悪くないし、持っている意味も人を傷つけないようにも思われるのですが、最近はお目にかかる機会が少なくなっているような気がします。
今回のテーマに使う機会に手元の辞書で意味を確認してみますと、「ともに生存し、ともに繁栄すること。」とありました。私などは、もっと気軽な意味で使っているような気がしますし、そのように説明している資料もありますが、この辞書の説明にあるような「ともに生存し・・」となりますと、もっと重い意味を秘めているような気がします。この言葉の語源のようなものは知らないのですが、もしかすると、国家間の存亡をかけるような交渉事を意識しているように感じてしまいます。
最近では、共存共栄的な意味合いの場面で、「ウィンウィン」という言葉を耳にすることが多いように思われます。
この言葉は、アメリカのベストセラー作品で使われたことからメジャーになった経営学用語ですが、経済界ばかりでなく、国家間の交渉などでも使われていることがよくあります。
「ウィンウィン」、つまり、交渉する双方が勝利する(利益を得る)という意味で、文句をつけようがないほどすばらしい言葉ということになります。但し、双方の勝ち方が、本当に対等なのかどうかが難しいところです。
かつて、ある先輩に交渉事に関して次のような指導を受けた記憶があります。
「商売に限らず、自分が有利になるための交渉方法は、5分5分では駄目で、少しばかりこちらが有利でなければならない。ただ、それが、「7対3」や「8対2」で成立するような交渉は成功とはいえない。なぜなら、そのような交渉は、明らかに相手に損をさせているので、そのような交渉が長く続くようでは、相手の能力が低ければ没落していくだろうし、並の能力を持っていれば、そのうち相手にされなくなってしまう。「5.5対4.5」あるいは、もっと微妙な差で利益をものにするのが優れた交渉力なのだ」といったものでした。
実際には、交渉事には、お互いの必要性や、得意分野といった要件も絡んできますので、それほど簡単に数値化できるものではないとは思います。
目下、中国・武漢市が発生源と思われる新型コロナウイルスが深刻さを増しています。わが国内でも、すでに水際で完全に止める段階は過ぎていて、正念場を迎えつつあります。
この問題は、中国はもちろん、わが国にとっても、その対応力が問われているわけで、必ずや、それほどの時間をかけずに一応の解決を図ってくれるものと信じたいと思います。
そして、この問題を通じて、「共存共栄」ということを私たちは学び直す必要があるような気がするのです。中国ほどの大国でも、新しいウィルスの登場で少なからぬ混乱と、相当の実損が発生してしまいます。そしてその混乱が、わが国に対しても相当の悪影響を覚悟せざるを得ない状況となります。それは、わが国に限ったことではないでしょう。
現在の国際社会においては、一国の損失は他国の利益になるといった単純な算式は成立しないようになっているのです。
「共存共栄」は「一蓮托生」の危険をはらんでいるとはいえ、「唯我独尊」とうそぶいて生存し続けることは不可能に近いのではないでしょうか。
( 2020.02.18 )
「理想と現実」などと文字にしてみますと、いかにも大げさな気がしないでもないのですが、私たちのごくごく卑近な日常生活においても、それなりの理想があり、現実とのギャップを感じさせられることは、よくあります。
「理想」とは、何も天下国家を語る人の専売でもなければ、哲学者の手中にあるものでもなく、私たちの生活のあらゆる分野で語られてよいものだと思うのですが、ただ、私などが抱く「理想」とは、その多くは「目標」と酷似していることが多いような気もするのです。
「理想」と「現実」が敵対する関係でもなければ、反発し合う関係でもないはずだと思うのですが、私たちがこの二つの言葉と同時に出合ったり使ったりする時には、「理想」=「現実」という場面に出合うことはまずないように思うのです。
この二つの言葉が、まるで水と油のように馴染む姿をほとんど見ることがないのは、達成できそうもない「目標」を「理想」という崇高な、文句のつけようもないような言葉にお出ましいただいて、目標が達せられないことの言い訳を自分自身にするためなのでしょう。もちろん、営業成績がどうかとか、売り上げがどうかなどといった生々しい目標は別としてですが。
「知識と実践」という関係も、微妙な距離感を保っているように思われます。
もちろん、「理想と現実」とは互いの位置関係や相互影響力など、同一ではないのはその通りですが、「知識」と「実践」が軋轢を起こすことがあり、本来の目的達成に良くない影響を与えることが時々見られることも確かでしょう。
実は、このテーマを選びましたのは、新型コロナウイルスに感染したクルーズ船に対する対応について、その是非について早くも論争的な雰囲気が見られているからです。海外のメディアからは相当厳しい論調もあるようですが、それは、わが国においても中国の初期対応に対して、かなり辛辣な意見が出されていたことを思えば、海外からの批判は甘んじて受けざるを得ないと思われます。
ただ、国内での専門家とされる方々の間でもかなり意見が違うようですので、このあたりの検証、違う意見を結集させる手段、等々については、今後の課題になることでしょう。
一般的に、つまり、私たちが日常気楽に使う程度の意味においてですが、「理想と現実」という言葉を使う場合には、この二つの言葉には大きな差があって、現実が理想に追いつくことなど有り得ないという前提のもとに使われていることが多いと思われます。
一方の「知識と実践」の場合は、この二つの言葉を並べて使うことじたいが少ないと思われますが、実は、この現象は多くの場面で見られると思うのです。
今回のクルーズ船内における感染症対策においても、「知識」保有者と「実践」力に秀でている人との間の連携がどうであったのかも検証されるべきだと思うのです。さらに言えば、原発事故の初期対応、大規模自然災害などの対応においても、同じ現象が見られます。
そして、考えなくてはならないことは、わが国においては、ややもすれば「知識」が上位にされがちであり、もっと困ったことには『知識らしいもの』の持ち主が、重大危機のトップに立つことが少なくないように思われることは、今回のクルーズ船対策の検証において、スポットライトを当てて欲しいと願っています。
予測される様々な危機発生に備えて、「強力なプレーイングマネージャー」の育成と設置を待望します。
( 2020.02.21 )
中国・武漢市を発症源とされる新型コロナウイルスによる肺炎は、中国はもちろん、多くの国に少なからぬ影響を与える状況に至っており、わが国も、まさに正念場を迎えています。
すでに、クルーズ船の乗員乗客に対する対応について様々な意見が出てきていますが、その是非を述べたり反省を促したりするのはまだ時期尚早で、今はまだ治療法はもちろん感染予防対策さえ模索を続けている状態と考えられ、対策もなく否定意見を述べるのは慎みたいと思います。
本稿は、今回の厳しい状況にヒントを頂いて、健康について考えてみたいと思ったものです。
今回の新型コロナウイルスによる肺炎の症状は、本日( 2020.02.23 )までに報道されている情報をみる限り、高齢者に対して大変厳しいデーターが示されています。
特に、70代、80代と高齢になるほど致死率が高くなっています。もっとも、それは今回の新型コロナウイルスによるものに限ったことではなく、たいていの病気はそのような傾向にあるとは思われます。ただ、現在のわが国の年齢構成を考えた場合、その深刻さを軽視できません。
それともう一つ、クルーズ船の状況については、対応の是非などはともかくとして、断片的に出てくる情報を見ますと、発症者における高齢者の比率がいかに高いかということが分かります。全乗客の年齢階層などは伝えられていませんが、発症者ばかりでなく、船内感染においても大きな役割を担ってしまったと推定されるのです。
わが国の平均寿命は、およそ、男性81歳、女性87歳です。これに対して、健康年齢と言われるものは、男性72歳、女性75歳です。
昨今、平均寿命もさることながら、健康で日常生活が出来ているとされる健康年齢が重視されています。平均寿命と健康寿命との差額に当たる層は、データー的ではありますが、何らかの介護が必要とされる人たちということになりますから、介護制度の存続のために極めて重要ですが、それよりも何よりも、私たち一人一人にとってこそ健康寿命の持つ意味は大きいと思われます。
ただ、「健康とは」となりますと、その判定は難しい点も多く、各人の認識にも少なからぬ差があるように思われます。WHO(世界保健機関)憲章の前文には、「健康とは、病気でないとか、弱ってないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます」とあります。世界の多くの国は、これに基づいて「健康年齢」を算出しているようです。統計としては、それで十分なのでしょうが、私たち自身の問題となれば、少々違和感もあります。
WHOの定義を厳密に受け取れば、現在の日本において、「100%健康です」といえる人がどのくらいいるのかと考えてしまいます。反対に、私の周囲の人やテレビやニュースに登場してくる一般庶民の姿を見ていますと、少々身体が痛くても、少々悩みを抱えていても、少々社会から見捨てられていても、逞しく「健康もどき」の日々を送れるのではないかという気もするのです。
私たちは、それぞれが健康年齢を伸ばすために努力することは必要であり、それが私たちそれぞれの人生を豊かにしてくれるのに役立つことになりますが、同時に、「健康もどき」を受容して逞しく生きる根性を養成することも重要な気がしてならないのです。
私たちは、バリバリの健康でなくても、「健康もどき」であれば、十分に逞しく、意味ある日々を送ることが出来るはずなのです。
健康年齢に加え、「健康もどき年齢」が高まって行けば、後期高齢者層の活躍の機会や場面は変化していくと予想するのですが、同時に、現状でも、今回のクルーズ船の乗客からも高齢者層の行動範囲の広さが窺えますが、今後その傾向はさらに増えるとすれば、交通事故の加害・被害の当事者になるばかりでなく、今回のような感染症の拡大源になるリスクもあることを、社会全体で考えていく必要があるように思うのです。
( 2020.02.24 )
新型コロナウイルスの感染拡大は、深刻さを増しています。
発症国とされる中国はもちろんのこと、韓国・イタリア・イランなどでも相当深刻な状態になっているようですし、実態からいえば、わが国はそれらの国よりも遥かに厳しい状況にあるような気がします。
世界の株式市場は、この影響で不安定な動きになっていましたが、今週に入ってからは、日米欧ともに暴落状態になり、一足先を読むとされる株式市場は相当悲観的な見通しをしているともいえます。
国によっては、政治日程などにも影響が出ており、各種の行事や集会も中止や延期に追い込まれているものも少なくないようです。
わが国においても、感染拡大の抑制のためには、この一、二週間が重要な山場だという政府の呼びかけに呼応するように、多くのスポーツやコンサートなどで中止や延期に踏み出した例が増えています。
その一方で、大声で旗を振っているように見えながらも、官邸や国会からは新型コロナウイルス対応の力強いメッセージが伝わって来ないような気がしてならないのです。
医療体制についても、例えば、わが国の感染者数はクルーズ船の分を含めても含めなくても、日々深刻さを増していますが、韓国の場合は、それ以上に深刻な数字が発表されていますが、あるコメンテーターの言葉を借りるとすれば、「韓国は懸命に感染者を確認するためのPCR検査を行っているが、日本は、感染者を表面化させないために、懸命に検査をさせないようにしている」と言うのです。残念ながら、この意見を「質の悪い冗談」とはいえないような気もするのです。
この一か月ほどの間に、わが国の医療体制はそれほど強靭ではないことが露呈した感があります。私などは、皆保険制度を始め、医療レベル、医療体制ともに世界でもトップクラスにあると、何の根拠もないままに漠然と思っていました。それだけに残念で仕方がありません。
そう思わされた一つは、クルーズ船の、たかだか四千人程度の人に対してさえ、受け入れる施設を有していなかったこと。そして、PCR検査が行える体制の脆弱さです。いまだに民間の技術の方が劣っているような認識しか持っていない人が、医療体制を取り仕切るべきトップ層に少なくないということが見えてしまったことです。さらには、クルーズ船のような「非常な環境」を取り仕切るプレーイングマネジャーがいないのではないかと疑問を感じたことなどです。
さらに加えるとすれば、幼い子供が病気を訴えても思う通りの診察が受けられない状態が散見されていると伝えられるのを見ますと、すでに部分的であれ医療崩壊が起こっていると考えられるからです。
テレビの報道などをベースに考えてみますと、どうやらわが国の指導層は、新型コロナウイルス感染によるパニックの発生を心配しているような気がします。
確かに、テレビに登場する現役の医療の専門家の方々においても、その対応方法については差があるようです。PCR検査に対する考え方ひとつとっても、重点の置き方に微妙な差があります。
もちろん、どちらの意見を述べられている方も、この感染を何とか小さく少しでも穏やかに収束させたいという思いで意見を述べてくれているはずです。それは、いかにも動きが鈍く感じられる国会辺りでも、同様だと思うのです。
どの手法が正解なのか、簡単に答えが出るはずもなく、また、答えは一つとも限らないと思うのです。そうした中で、私たちにも、私たちなりのやるべきことがあるはずで、それを愚直に実行すべきではないでしょうか。
テレビである医療関係の女性が『一番の感染源は、自分の手です』と述べられていました。手洗いこそが最高の予防対策のようですよ。
( 2020.02.27 )
「春三月」「三月弥生」といった言葉は、何かわくわくさせてくれるような響きがあります。
「春三月」などといえば、どこか詩的な情緒が含まれているような気がするのですが、「春」と「三月」という、ごくごくありふれた言葉を並べているだけのことです。「三月弥生」も同様で、「三月」と「陰暦三月の異称である弥生」を並べているだけで、こちらの場合は「三月三月」と言っているようなものともいえます。
何とも頼りない説明ですが、同じ「春」に属していても、「春四月」も「四月卯月」といった表現はあまりされないようですし、「わくわく感」など伝わってきません。
一年の始まりは一月ですし、年度の始まりの多くは四月です。三月には卒業という大イベントが存在していますが、スタートを意味するイベントは少ないと思うのです。しかし、それにもかかわらず、三月には「わくわく感」が溢れています。
ところが、今年の三月は例年とは違った厳しい背景を背負ってのスタートとなりました。
中国での発症が伝えられた当初は、インフルエンザの変種程度に考えていた向きも少なくなかったようですが、ここへきて、深刻さが並々ならぬことが明らかになってきました。
感染者が確認された国や地域は五十数カ国に及び、中国以外でも、わが国はじめ数カ国では相当深刻な状態に追い込まれています。
中でもわが国は、クルーズ船への対応という難問に遭遇したとはいえ、医療体制の脆弱な部分が垣間見られるなど、厳しい状況を迎えています。多くのイベントや関係企業が中止や延期を表明し、遂に、首相自らが全国の高中小学校の休校を要請する状態にまで至りました。
中国の工場の生産が大きく制限されている影響は、すでにわが国はじめ多くの国々に出始めています。
世界の株式市場は、ここ数日は暴落状態にあるといえ、安定するには時間を要するのではないでしょうか。株式を保有している人の痛手は当然ですが、関係ないと思っている人にとっても、年金資金の棄損などの形で影響を受けることは明白です。外国人観光者の減少はすでに関係業種や地域に影響を与えていますが、現状の自粛対策は、わが国の経済に悪い方向に影響を与えることは当然のことです。
わが国は、直近の五十年の間だけでも、幾度かの経済ピンチに遭遇しています。今回の新型コロナウイルスによる経済ショックがどの程度になるかはまだ分かりませんが、感染症によるものとしてはこの五十年で最大のピンチであり、なお、治療法が確立されていないという不気味さがあります。
わが国も、どうやら全力で対処を始めたようです。
テレビなどの報道に比べて、あるいは専門医の方々の発信に比べて、国会周辺あたりの発言や行動には、他人事としか思えないものも散見されたように思うのですが、首相の要請を機にかなり違った動きになりそうです。
高中小学校の休校要請や、北海道知事の緊急事態宣言などは、相当の副作用を覚悟せねばならないことです。賛否の意見が出て当然といえます。
しかし、新型コロナウイルスにここまで攻め込まれた以上は、私たちが選んだリーダーの決断と、対抗してくれている医療体制や医薬品の誕生を信じて、私たちは、忍耐でもなく、辛抱でもなく、もっと積極的なチャレンジの気持ちでもってこのピンチに立ち向かいたいと思うのです。
この三月は、「チャレンジの三月」にしようではありませんか。
( 2020.03.01 )