『 少欲知足 』
少欲知足・・・このまま読めば「しょうよくちそく」となりますが、これは中国の言葉ですから和文にしますと「しょうよくをもって、たるをしる」といった感じになります。言葉の意味は「小さな欲で満足することを知りなさい」ということです。人間の欲望というものは実に際限のないものだから、程々のところで満足することを覚えなさい、という教えです。
古来、人間の欲望のもつ醜さや、それから生ずる不幸について説いたり、身を修めることを教える言葉や逸話は数多く伝えられております。
多くの先人たちが繰り返し貪欲な心を戒めているのは、私たちが生きてゆくうえでとても大切なことだということと共に、何度教えられても私たち凡人には、なかなか修得できない教えだという証左でもあります。
今回はたいへん硬い言葉になりましたが、これは中国が唐王朝だった時代の高僧、一行(いちぎょう)という方の教えです。
一行は、中国真言宗の高邁な阿闍利で多くの功績を残された方だそうです。私たちには馴染みが薄い人物ですが、この「少欲知足」という言葉を目にされた方は多いのではないでしょうか。
ただ、目にされた方の多くは、それほど大層な教えとしてではなく、単に精神的なあり方を示している程度に受け取っているのではないでしょうか。
実は私も全くその通りだったのですが、この教えの重要さを認識させられるような出来事を見たものですから、少々勉強してみようと思ったのです。しかし残念ながら、一行に関する資料は見つけることができませんでした。従って、今回のテーマは単純にこの言葉の持つ意味をベースに進めさせていただきます。
私たちが生きてゆくうえで、欲望を抑え、限られた条件のもとで満足できるように身を修めていくことは、たいへん重要なことです。どこまで行っても満足できない心は、私たちに幸せを与えてくれることなどないでしょう。
何も、いにしえの聖人が残した言葉の御先棒を担ぐわけではありませんが、この教えの大切さについては、どなたも異論がないと思います。
しかし、私はこの種の教えについて考える時、いつも一つの壁に突き当たります。
それは、大志を抱くことと、欲望を追い求めていくこととの違いについてです。一方は青少年たちの勇気を育てるためのものであり、一方は人間の貪欲さを戒めています。
大志と欲望、この二つは明らかに似て非なるものです。そのことは自信を持って言えるのですが、それではどう違うのかと質問されると、なかなか明快に答えられないのです。
おそらく、そこにこそ「少欲知足」の教えを身につけることの難しさの秘密があるようにも思うのです。
ご承知のように、教訓とかことわざといったものには、意味が対立するものが大体あるものです。そして、案外私たちは、正反対の教えに対してそれほどの違和感を持っていないように思われます。
「どちらも真実なのだよ・・・」などと、したり顔でうなずいたりされると、ちょっとした人物のような錯覚さえ受けてしまいます。
どうもこの種の教えは、精神論というか、机上論というか,現実味に乏しい教訓のように思ってしまったりします。教える方も教えられる方も一つの比喩として捕らまえていて、実行などできないことを認めあっているようにさえ思えるのです。
かつて読みました本に「大志というものには、己を高めるものがなくてはならない」という解説がありました。私は多いに納得し、今もこの説明の影響を受けているのですが、さて、己を高めるということもなかなか掴みにくい現象です。
それが主として精神的なものを指すとすれば、単なるきれいごとのような感じもしますし、物質的なものも含まれるとすれば、ますます欲望との違いが分からなくなってきます。
何とも歯切れの悪いことこの上ないのですが、「少欲知足」を素直に「小さな欲望で満足することを知りなさい」という意味として受け取った時、私はある先輩の話を思い出します。
私が二十代中頃のことです。会社の上司が若手社員を集めて教育する場でのことでした。
その上司は黒板に大きな字で算式を書いたのです。
「生活費 = 収入 - 貯蓄」
上司はこの算式を何度も繰り返し読みあげ、この算式を守って身を処すようにと指導してくれました。
私は、社会人になってすでに何年か経っていました。仕事に対してもいささかの自信のようなものを持ちかけていて、サラリーマンとしての生意気盛りの頃でした。
この訓話を受けた時の正直な気持ちは、「お教えありがとうございます。でも、我々はもう子供じゃないですよ・・・」といったものでした。
その頃は、現在のようにクレジットカードは普及していませんでした。サラリーマンが簡単に利用できるような消費者金融のようなものもありません。若いサラリーマンが利用できる借金の類といえば、肉親や友人から借りることを除けば、月賦か、つけか、質屋くらいのものでした。町の金融業者もありましたが、並みのサラリーマンが利用できる所ではありませんでした。
私は上司の教えを「子供じゃないよ」と受け流してしまったのですが、その後のサラリーマン生活のなかで、上司が教えてくれた算式を意識していれば陥らずに済んだと思われるトラブルで挫折していく人を、何人も何人も見ることになりました。
現在は、若い人たちが利用できる金融制度がたくさんあります。クレジットカード、キャッシングサービス、住宅をはじめとする各種のローン、驚くほど簡単な消費者金融、月賦やつけも健在です。利用する側の知識も豊富になり、上手に利用することが豊かな生活に役立つそうです。
しかし、絶対に忘れてならないことは、どんなに耳触りの良い名前がつけられていても、要は借金は借金なのです。
上司の、あの単純素朴な算式が、今になって輝いて見えます。
私たちには、望みや願いがあります。今日の生活より明日の生活が少しでも良くありたいと願うのは、人間の自然な姿ではないのでしょうか。そして、そのように努力することさえも、一行先生は戒めているのでしょうか。自然な姿と見える願いが、いつか大きな欲望となり、争いになっていくのだと教えているのでしょうか。
その一方で、人間の欲望や憎しみの象徴のようにいわれる戦争が、
科学を発展させたことは事実でしょう。また、人間の持つ飽くなき欲望が、人間を他の動物を凌ぐ存在に押し上げたことも事実だと思うのです。そうだとすれば、人間が人間である限り、いつになっても戦争はなくならないでしょうし、欲望を抑えよと一行先生に教えられても実効は上がらないのではないでしょうか。
私たちは、望みや願いを捨てることなどできません。一行先生の教えがどこまでを許容しているのか分かりませんが、明日に向かって懸命の努力を払うことは必要だと思うのです。
しかしながら、同時に、私たちは今少し謙虚であるべきかもしれません。私たちがささやかだと思っている望みや願いは、地球規模でみた場合とんでもない要求をしているのかもしれません。
地球環境の危機が声高く叫ばれるようになって、すでに久しいです。わが国も、京都議定書などで存在感を示しているように見えます。リサイクルに関する制度が次々と立案され実施されています。
ごみの分別が進められ、廃棄物の再利用が進捗しているようです。しかしその反面、リサイクルに多大なエネルギーが消費され、一部の公的な部門や企業などの利得に悪用されているとの、無視できない意見もあります。
リサイクル先進国などと大きな顔をしながら、膨大な量の廃棄物を海外に流出させている事実もあります。
そして今だに、景気回復のためには消費拡大が必要だという意見が大手を振る不思議な社会になっています。
私たちは有限の世界に生きています。
世界の人口はすでに六十七億人を超え、西暦二千五十年には九十一億人を超えると推計されています。
現在の人口でも、もし仮に世界中の人が日本人と同じレベルの消費生活をすれば、地球環境はどうなるのでしょうか。
この仮定を無意味と考えられる方もいるでしょうが、それは、他の貧しい人々を踏み台にして私たちが自由勝手に生きていい、ということにならないでしょうか。
すでに私たちの生活は、地球の能力の限界を超えてしまっているのではないでしょうか。例え天体としての地球は耐えられるとしても、人間の住処としての限界には、それほどの余裕はないのではないでしょうか。
私たちは大量消費型社会の真ん真ん中に生きています。一行先生が教えようとした「少欲知足」など通じない社会なのかもしれません。
自分一人がコップ一杯の水を節約したからとて、どうなるわけでもないかもしれません。しかし、もしかすると、この無秩序なまでの大量消費社会の到来を予測して、一行先生はこの言葉を私たちに残してくれたのかもしれません。
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