雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  琵琶を抱いて

2012-05-07 08:00:51 | 運命紀行
       運命紀行

          琵琶を抱いて


逢坂山は、山城国と近江国との国境にある。
山麓の逢坂の関は、京の都から東に向かう人も、東海道や東山道を経て都を目指す人も、必ず通らなければならない要衝の地である。
行き交う旅人は、厳しい詮議を受けながらも、遥かなる旅路のひとときを、ほっと一息つき、そして、西へ東へと旅立って行くが、果たして再びまみえることなどあるのだろうか。

『 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 』

そして、街道を離れて、少しばかり山中に入れば、人が住むにはあまりに険しく、あまりに侘しい土地となる。それでも、幾筋かのけもの道かと思われるものが延びているが、夏であれば青草に覆われ判別するのさえ難しい。
それでも、明らかにけもの道とは違う小道も山中深くまで続いている。この山中に生計の糧を求める人も少なからずいるのであろうか。

そんな小道さえも絶え果てようとする辺りに、小さな小屋がある。夏であれば木々や雑草に埋もれてしまうような小屋であるが、ごくたまには訪れる村人もいるらしい。もう随分と昔のことになるが、殿上人と思われる人物の訪問もあったらしい。
小屋の主も、やや不自由な身体を押して、村里や関所の近くまで姿を見せることもあるらしい。村人たちは、杖と頭陀袋に琵琶を背負った僧侶と思しき小屋の主を見かけても、何の不審も抱かず、中には僅かばかりの布施もするらしい。
村の長者や、関所の役人などが琵琶を所望することもあるようだが、よほど機嫌のよい時以外はめったに奏でることはない。

ただ、夜更けて、小屋の中から琵琶の音が聞こえてくることは少なくない。
関所に努める役人などは、山中から聞こえてくる妙なる琵琶の音を聞いた者も数多くいるので、月の明るい夜などには、小屋を出て村里近くで琵琶を奏で、低い声で吟じることもあるらしい。
小屋の主が、この地に住み着いて、どれほどの月日が経っているのだろうか。
日頃の生活を知る人はほとんどおらず、都で噂されることもある人らしいが、宮中あたりではすでに伝説上の人物になっているらしい。

小屋の主は、すでに老い、不自由な身で時には激しく琵琶を弾じ、記録されることもない和歌を詠じ、世の中のあはれを眺めながら、どのような晩年を生きたのだろうか。
 


     * * *

平安前期の頃、蝉丸といわれる歌人にして琵琶演奏の名手がいた。
名にし負う逢坂の関に近い山中に粗末な小屋を設けて、琵琶を弾じ、和歌を詠み、隠者のごとき生涯を送ったとも伝えられているが、その実像を正しく伝えてくれるものは見当たらない。
しかし、それでいて、いや、それなるがゆえに、現代に生きる私たちの心で共鳴する何かがメッセージとして伝えられているように思われてならない。

蝉丸の出自や生涯について、確たる資料は残されていない。
断片的な資料や伝説は数多くあるが、そのいずれもが事実なのか、あるいは事実に近いものであるのか、判別が難しく、伝説上の人物とされる場合さえある。
しかし、前出の『これやこの・・・』の和歌は、小倉百人一首にある著名なものであるし、この他にも新古今和歌集などに三首収録されていることを考えれば、実在の人物であることは間違いあるまい。

現在伝えられている出自を見ると、まず、宇多天皇の皇子である敦実親王に仕えていた雑色であったというものがある。また、醍醐天皇の第四皇子である、というものもある。あるいは、少し時代をさかのぼった仁明天皇の時代の人物だともいわれる。
これらのどれかが正しいのか、いずれも正しくないのか確定できないが、大まかに言って、西暦でいえば、850年から950年の頃の人物らしい。

そして、和歌に優れ、琵琶演奏の名人だったともいわれ、後の皇室の御物となった琵琶の名器「無明」は、蝉丸が愛用していたものだとも伝えられている。その作歌が勅撰和歌集に収録されていることを考えると、彼が、単なる世捨人や乞食坊主であったとは考えられない。
しかし、残念ながら、その生涯を伝えてくれる資料はあまりに少ない。ただ、いくつかの逸話は伝えられている。

今昔物語には、このような話が残されている。
『 管弦の名手であった源博雅(西暦918~980の人物)は、逢坂の関近くに住む蝉丸が琵琶の名人であるということを知り、蝉丸の演奏を聞きたいと思い、逢坂山に三年間通い続け、ついに八月十五日の夜に念願が叶い、秘曲「流泉」と「啄木」を伝授されたという。 』

能の演目に「蝉丸」というものがある。作者は世阿弥である。そのあらすじは、
『 延喜帝の第四皇子蝉丸の宮は、盲目の身に生まれついた。帝は、宮の後世を思い清貫に逢坂山に捨てるよう命じる。
清貫は哀れに思い悲しむも、蝉丸の君は過去の罪業を償わせようという父帝の慈悲なのだと、恨み嘆く態度を見せない。清貫は帝から命じられた通りに、蝉丸の君を剃髪、出家させて、蓑、傘、杖などを置いて去っていった。
気丈に振舞っていた蝉丸の君も、一人取り残されてみると、さすがに寂しく、琵琶を抱いてその場に泣き臥してしまう。
やがて、博雅三位がやってきて、蝉丸の君を慰め励まし、小屋を作りその中に助け入れて、また訪れることを約して都へ帰っていく。

さて、宮中で弟の大事を知った蝉丸の君の姉宮逆髪は、その名の如く髪を逆立たせ、狂乱状態となり、御所をさまよい出る。先々で迫害されながらも訪ね訪ねて、いつしか逢坂山に辿り着く。そして、粗末な藁屋の奥から、妙なる琵琶の音色が聞こえてくるのに気付き、引き寄せられるように立ち入ると、中から声をかけたのは弟宮の蝉丸だった。
姉と弟は互いに手を取り合って、身の不運を嘆き悲しみ、互いに慰め合う。やがて、互いに名残を惜しみながらも、姉宮は、いずこともなく去って行き、弟宮は見えぬ目で見送る・・・。 』

この作品を書いた世阿弥は、蝉丸が生きたと思われる時代より五百年程も後の、室町前期の人物である。
従って、この作品に描かれているものが蝉丸の生涯を描いたものでないことは確かであるし、むしろ、この物語から蝉丸の生涯がゆがんだ形で伝えられている懸念も少なくない。
しかし、世阿弥は、単なる想像だけでこの作品を書き上げたのではなく、今昔物語などの伝承をヒントにしたことは間違いあるまい。そうだとすれば、室町時代の頃には、蝉丸はすでに伝説の中に生きていたのかもしれない。

琵琶を抱き爪弾きながら、都への上り下りに逢坂の関を行き交う人々の生きざまを想いながら晩年を過ごした蝉丸。その胸中はいかなるものかは想像するしかないが、その一端を感じ取れるような和歌が新古今和歌集に残されているので、ご紹介しておく。

『 世の中はとてもかくても同じこと 宮もわら屋もはてしなければ 』

                                         ( 完 )
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