運命紀行
沖の石なれど
『 我が袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし 』
二条院讃岐と呼ばれる歌人がいた。
この和歌は、小倉百人一首にも加えられている著名な作品であるが、この作品により「沖の石の讃岐」とも称せられたと伝えられている。
若くして和歌の才能は高く評価され、二条天皇に仕える宮中生活でさらにその才能は磨かれ、二条天皇の内裏歌会にも出詠している。また、父と親しかった俊恵法師が主催する歌林苑での歌会にも参加、新古今調の歌風の担い手の一人と目されるほどになる。
永万元年(1165)に二条天皇が崩御、その後、讃岐が二十四歳の頃であろうか、陸奥守などを務めた藤原重頼と結婚、重光(後に遠江守)・有頼らをもうけるなど幸せな家庭生活に入った。
しかし、時代は激動の時を迎えようとしており、中流貴族として平穏な家庭を築いていた讃岐に大きな変動を与えようとしていた。
二条天皇のあとを継いだ六条天皇が即位したのは二歳の時であり、僅か二年半程で譲位した高倉天皇も八歳での即位であった。そして、十二年後に皇位についたのは、僅か三歳の悲劇の帝、安徳天皇であった。
相次ぐ幼帝の時代の政治実権者は、藤原摂関家から清盛率いる平氏一門へと移って行っていた。源平と並び称された武門の一方の旗頭、源氏の衰退は著しく、すでに根絶されたかの様相さえあった。
そのような逆境の中で、平氏政権の末席で息をひそめていた人物がいた。讃岐の実父、源頼政である。
頼政は、都に近い摂津を本拠地としていたこともあって、平治の乱では清盛に味方し、中央政権で唯一源氏の灯を守っていた。
しかし、源氏としては異例の三位に上り「源三位頼政」と称されたとはいえ、平氏一門とは比べるまで゛もなく遅い昇進であり、武勇で知られた彼も七十歳を超えた今は、和歌の上手としての方が名高かった。
讃岐の冒頭の和歌は、紛れもない恋歌であるが、父頼政の鬱々とした気持ちを代弁しているようにもみえる。
治承四年(1180)四月、盤石と見えた平氏政権に挑む勢力が胎動を始めた。かねてからくすぶっていた平氏の横暴への不満が発火点を迎えようとしていた。
後白河天皇の第二皇子、以仁王の令旨を全国の源氏を中心とした反平氏勢力や有力社寺に発布して決起を促し、いっせいに平氏打倒に立ち上がるという計画であった。そして、その中心人物の一人が、讃岐の父源三位頼政であった。
だが、計画はもろくも翌月には露見してしまい、平氏政権は検非違使に以仁王の逮捕を命じた。
辛くも脱出した以仁王は園城寺に逃れた。この時点では、頼政が関与していることは知られていなかったが、以仁王を見捨てることは出来ず、決起し、共に奈良興福寺に向かうが追手に迫られ、途中宇治平等院で自刃、脱出させた以仁王も討たれてしまう。
この平氏に対する反乱のあと始末が苛烈であったことは想像に難くない。
当然、娘である讃岐やその婿藤原重頼への追及も厳しかったものと思われる。その後讃岐が、再び宮中に出仕したのは、この事件と無関係ではないことだろう。
讃岐は、後鳥羽天皇の中宮任子のもとに出仕することになったが、任子は九条家の姫であり、同家と強いつながりがあったと指摘する説もある。
父の戦死は、源氏の旗揚げの先駆けとなるものであったが、当時としては犬死といえるほど無謀な決起であり、讃岐は平氏政権下では謀反人の娘という辛い立場になってしまった。
父を亡くした時、讃岐はすでに四十歳であった。宮中という庇護下に入ることが出来たとはいえ、父を亡くした悲しみに加え、彼女自身への逆風も厳しかったであろうが、決して屈することはなかった。
讃岐は敢然と逆風を受け止めて、和歌を発表していった。むしろ、その逆風こそが、新古今調を代表するほどの耽美さを醸成したのかもしれない。
* * *
『 世にふるは苦しき物を槇の屋に やすくも過ぐる初時雨かな 』
『 明けぬれどまだきぬぎぬになりやらで 人の袖をもぬらしつるかな 』
『 ひと夜とてよがれし床のさむしろに やがても塵のつもりぬるかな 』
『 あはれあはれはかなかりける契かな 唯うたたねの春の夜の夢 』
讃岐が生まれたのは、永治元年(1141)の頃と推定されている。名門源氏の娘として誕生たが、藤原摂関家の権勢はなお続いており、武家の地位はまだ低かった。
武家が政治への関わりを強めることとなった平治の乱は讃岐十九歳の頃であるが、それは平氏が全盛へと向かう戦いであって、源氏は壊滅状態となった。
ただ、その中で、父の源頼政だけは、平治の乱においても平清盛方についていたため安泰であった。平氏一門と比べようもないが官位も上がり、清盛の信頼も厚かった。
讃岐が、宮中生活を通して和歌の才能を花開くことが出来たのには、父の処世による貢献が大きい。
上に四首の和歌を紹介したが、個人的に讃岐らしいと感じられるものを挙げたものである。
勅撰和歌集に合計七十三首採録されている讃岐は、この時代の代表的な女流歌人であったことは間違いなく、これらの歌が代表歌というわけではない。
讃岐の処世をざっと見れば、源氏の家に生まれ、宮中生活を経て、受領階級とはいえ中流貴族と結婚して一家を成し、艶やかな歌を中心に数多くの作品を残したことを見て、平安な人生であったと考えてしまうことがある。
しかし、以仁王らと平氏打倒の旗を上げ、戦死したあとの数年間は決して安穏な日々であったはずがない。しかし、その中で、取り方によって、恋の悲しみや苦しみをもてあそぶかのようにさえみえる、技巧的で耽美的な作品を詠い上げていった陰には、激しく移り変わる世の無常を超越していることを感じ取らなくては、讃岐という女性の本質に迫ることは出来まい。
父の死後、讃岐は女房として長く宮中生活を送り、多くの歌会や歌林苑などを通して作品を発表している。
やがて、時代は源氏の世となり、夫も鎌倉に仕え、頼朝の側近の一人となる。頼政の遺領の一部も相続したようであり、讃岐自身も若狭国宮川保の地頭職などを継いでおり、晩年は恵まれていたらしい。
建久七年(1196)、宮仕えを退出、五十六歳の頃のことで、この頃出家している。
その後も歌人としての活動を続け、建保四年(1216)、七十六歳にして「内裏歌会」に出詠していることが確認されている。
その没年は確認できないが、少なくとも七十六歳では現役の歌人として、艶やかな作風に衰えはなかった。
( 完 )
沖の石なれど
『 我が袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし 』
二条院讃岐と呼ばれる歌人がいた。
この和歌は、小倉百人一首にも加えられている著名な作品であるが、この作品により「沖の石の讃岐」とも称せられたと伝えられている。
若くして和歌の才能は高く評価され、二条天皇に仕える宮中生活でさらにその才能は磨かれ、二条天皇の内裏歌会にも出詠している。また、父と親しかった俊恵法師が主催する歌林苑での歌会にも参加、新古今調の歌風の担い手の一人と目されるほどになる。
永万元年(1165)に二条天皇が崩御、その後、讃岐が二十四歳の頃であろうか、陸奥守などを務めた藤原重頼と結婚、重光(後に遠江守)・有頼らをもうけるなど幸せな家庭生活に入った。
しかし、時代は激動の時を迎えようとしており、中流貴族として平穏な家庭を築いていた讃岐に大きな変動を与えようとしていた。
二条天皇のあとを継いだ六条天皇が即位したのは二歳の時であり、僅か二年半程で譲位した高倉天皇も八歳での即位であった。そして、十二年後に皇位についたのは、僅か三歳の悲劇の帝、安徳天皇であった。
相次ぐ幼帝の時代の政治実権者は、藤原摂関家から清盛率いる平氏一門へと移って行っていた。源平と並び称された武門の一方の旗頭、源氏の衰退は著しく、すでに根絶されたかの様相さえあった。
そのような逆境の中で、平氏政権の末席で息をひそめていた人物がいた。讃岐の実父、源頼政である。
頼政は、都に近い摂津を本拠地としていたこともあって、平治の乱では清盛に味方し、中央政権で唯一源氏の灯を守っていた。
しかし、源氏としては異例の三位に上り「源三位頼政」と称されたとはいえ、平氏一門とは比べるまで゛もなく遅い昇進であり、武勇で知られた彼も七十歳を超えた今は、和歌の上手としての方が名高かった。
讃岐の冒頭の和歌は、紛れもない恋歌であるが、父頼政の鬱々とした気持ちを代弁しているようにもみえる。
治承四年(1180)四月、盤石と見えた平氏政権に挑む勢力が胎動を始めた。かねてからくすぶっていた平氏の横暴への不満が発火点を迎えようとしていた。
後白河天皇の第二皇子、以仁王の令旨を全国の源氏を中心とした反平氏勢力や有力社寺に発布して決起を促し、いっせいに平氏打倒に立ち上がるという計画であった。そして、その中心人物の一人が、讃岐の父源三位頼政であった。
だが、計画はもろくも翌月には露見してしまい、平氏政権は検非違使に以仁王の逮捕を命じた。
辛くも脱出した以仁王は園城寺に逃れた。この時点では、頼政が関与していることは知られていなかったが、以仁王を見捨てることは出来ず、決起し、共に奈良興福寺に向かうが追手に迫られ、途中宇治平等院で自刃、脱出させた以仁王も討たれてしまう。
この平氏に対する反乱のあと始末が苛烈であったことは想像に難くない。
当然、娘である讃岐やその婿藤原重頼への追及も厳しかったものと思われる。その後讃岐が、再び宮中に出仕したのは、この事件と無関係ではないことだろう。
讃岐は、後鳥羽天皇の中宮任子のもとに出仕することになったが、任子は九条家の姫であり、同家と強いつながりがあったと指摘する説もある。
父の戦死は、源氏の旗揚げの先駆けとなるものであったが、当時としては犬死といえるほど無謀な決起であり、讃岐は平氏政権下では謀反人の娘という辛い立場になってしまった。
父を亡くした時、讃岐はすでに四十歳であった。宮中という庇護下に入ることが出来たとはいえ、父を亡くした悲しみに加え、彼女自身への逆風も厳しかったであろうが、決して屈することはなかった。
讃岐は敢然と逆風を受け止めて、和歌を発表していった。むしろ、その逆風こそが、新古今調を代表するほどの耽美さを醸成したのかもしれない。
* * *
『 世にふるは苦しき物を槇の屋に やすくも過ぐる初時雨かな 』
『 明けぬれどまだきぬぎぬになりやらで 人の袖をもぬらしつるかな 』
『 ひと夜とてよがれし床のさむしろに やがても塵のつもりぬるかな 』
『 あはれあはれはかなかりける契かな 唯うたたねの春の夜の夢 』
讃岐が生まれたのは、永治元年(1141)の頃と推定されている。名門源氏の娘として誕生たが、藤原摂関家の権勢はなお続いており、武家の地位はまだ低かった。
武家が政治への関わりを強めることとなった平治の乱は讃岐十九歳の頃であるが、それは平氏が全盛へと向かう戦いであって、源氏は壊滅状態となった。
ただ、その中で、父の源頼政だけは、平治の乱においても平清盛方についていたため安泰であった。平氏一門と比べようもないが官位も上がり、清盛の信頼も厚かった。
讃岐が、宮中生活を通して和歌の才能を花開くことが出来たのには、父の処世による貢献が大きい。
上に四首の和歌を紹介したが、個人的に讃岐らしいと感じられるものを挙げたものである。
勅撰和歌集に合計七十三首採録されている讃岐は、この時代の代表的な女流歌人であったことは間違いなく、これらの歌が代表歌というわけではない。
讃岐の処世をざっと見れば、源氏の家に生まれ、宮中生活を経て、受領階級とはいえ中流貴族と結婚して一家を成し、艶やかな歌を中心に数多くの作品を残したことを見て、平安な人生であったと考えてしまうことがある。
しかし、以仁王らと平氏打倒の旗を上げ、戦死したあとの数年間は決して安穏な日々であったはずがない。しかし、その中で、取り方によって、恋の悲しみや苦しみをもてあそぶかのようにさえみえる、技巧的で耽美的な作品を詠い上げていった陰には、激しく移り変わる世の無常を超越していることを感じ取らなくては、讃岐という女性の本質に迫ることは出来まい。
父の死後、讃岐は女房として長く宮中生活を送り、多くの歌会や歌林苑などを通して作品を発表している。
やがて、時代は源氏の世となり、夫も鎌倉に仕え、頼朝の側近の一人となる。頼政の遺領の一部も相続したようであり、讃岐自身も若狭国宮川保の地頭職などを継いでおり、晩年は恵まれていたらしい。
建久七年(1196)、宮仕えを退出、五十六歳の頃のことで、この頃出家している。
その後も歌人としての活動を続け、建保四年(1216)、七十六歳にして「内裏歌会」に出詠していることが確認されている。
その没年は確認できないが、少なくとも七十六歳では現役の歌人として、艶やかな作風に衰えはなかった。
( 完 )