雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  名声も草枕で聞く

2012-05-19 08:00:04 | 運命紀行
       運命紀行

          名声も草枕で聞く


想えば、身を隠すような生涯であった。
神職として各地を訪ねる旅から旅の生活は、皮肉なことに彼の文学的な才能に磨きをかけることとなった。
霊験あらたかな神社に仕える身とあれば、時には敬われ歓待されることもあるが、それはごく限られた場面でしかなかった。むしろ、旅の途上の毎日は、露を避ける場所さえ見つけられず、空腹を満たすに足りる食事さえ満足に得られないことの方が多かった。街道や大きな町にある時はまだしも、村から村への移動は、時には深山深く分け入り、時には身の危険にさらされ、草枕を重ねる日々の方が多かった。

『 奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき 』
『 をちこちのたづきも知らぬ山中に おぼつかなくも呼子鳥かな 』

幾つかの和歌は、宮中においても披露され、勅撰和歌集に収められたものも少なくない。
しかし、それらは、いずれも作品を披露し取り扱いを託している彼の君を通してのものであり、作者の名前さえ示されていない。
自らの本名を名乗ることが憚られていることは承知であるし、いや、自ら望んだことではあるが、読人知らずとして伝えられていることに、一抹の哀愁を感じる時があるのも確かである。

さて、それはそれとして、今宵もまた草枕、荒れ寺の軒端を借りられた幸運に感謝して、眠ることにしよう。 


     * * *

小倉百人一首の五番歌に猿丸大夫の和歌が収められている。
藤原定家により撰歌されたと伝えられる小倉百人一首は、概ね時代順に並べられているので、和歌の順と作品の優劣は関連していない。しかし、例えば上位の七人を列記してみると、古代歌人のお歴々が並んでいる。
1.天智天皇   2.持統天皇   3.柿本人麻呂   4.山部赤人
5.猿丸大夫   6.大友家持   7.安倍仲麿

さて、その中にあって、猿丸大夫の出自経歴は謎に包まれている。
伝えられている資料が皆無なのかといえば、決してそうではない。むしろ、あり過ぎるほどある。それらしいものから、唐突なものや伝説的なものまで幾つもある。さらには、この魅力あふれる歌人に惹かれた後世の研究者たちの推察も加わって、結局は謎をさらに深くしてしまっている。

伝えられている幾つかのものを見てみよう。
まず、その活躍期であるが、元明天皇の時代(西暦710年頃)とも、元慶年間(西暦880年頃)とも伝えられているが、これだけでも170年もの差がある。
また、出自についても、猿丸大夫という名は「六国史」などの公的資料に登場しないので、本名ではないとか、全く架空の人物であるという説も古くからある。

しかし、一方で、「古今和歌集」の真名序(漢文の序)には、六歌仙の一人である大友黒主を紹介する部分で猿丸大夫の名前が使われているので、少なくとも古今和歌集が成立した頃(西暦905年頃)には、著名な歌人として認知されていたと考えられる。
また、「大夫」(ダユウ、タイフ)というのは、五位以上の官位を得ている者や、伊勢神宮の神職のうちしかるべき地位の者の称であり、勅撰和歌集の撰者などにも広く認知されていたとすれば、宮中、あるいはそのごく近くに活動の場を持っていたと考えるのに無理はない。

出自ということでは、多種多彩である。
聖徳太子の子とされる山背大兄王の子とされる弓削王とされる説がある。この弓削王は、天武天皇の皇子である弓削皇子とは別人であるが、山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた時に死んだとされる人物である。それが生き残っていたということなのだろうが、そもそも、聖徳太子にしても山背大兄王にしても、資料的には謎の多い人物であることを考えると、弓削王の後の姿ということになれば、さらに謎めいている。

二荒山神社の神職小野氏の祖である猿丸だという説も古くからある。同じように、猿が日枝(比叡)神社の神使であることや、東国に残されている資料が少なくないことから、神事や金属採掘などに関連した一族の一人であるとか、その一族全体を指す架空上の人物だといった説もあるようだ。
もっと具体的なものとしては、弓削の道教の晩年であるとか、柿本人麻呂の晩年であるといった説もある。この二人の場合、共に罪に問われ都を追われたり処刑されたとされているので、生き残っていたとしても本名を名乗るのは難しいと思われることから、伝説としては面白い。

結局、猿丸大夫を歴史上の人物として公式な資料の中から見つけ出すことは難しいようである。
しかし、歌人としての評価は高く、猿丸大夫の作品と伝えられるものが、幾つもの勅撰和歌集や歌合わせなどにも登場しているが、そのいずれもが読人知らずとして記されている。つまり、勅撰和歌集としては、猿丸大夫としての作品は一首もないのである。
それでいて、藤原公任が選んだとされる三十六歌仙の一人とされ、藤原定家は小倉百人一首の撰定にあたって、たった百人の枠の中に猿丸大夫として加えているのはなぜなのか。

平安後期に書かれた「袋草紙」の中には、「古今集には、猿丸大夫の和歌を多く入れていて、作者は読人知らずとしている」と書かれている。当時、このことは極秘情報ではなく、然るべき人たちの間では常識として伝えられていたようにも考えられる。
さらに、現代に生きる私たちが猿丸大夫という存在を知ることが出来ている原因は、小倉百人一首の存在と共に「猿丸家集」の存在がある。
「家集」というのは、勅撰集に対して個人が編纂した特定歌人の作品集を指すが、たくさんの物がつくられ現在に伝えられているものも多い。そして、その「家集」という形態が登場してくるのは、十世紀前半頃のことであるが、その最も古い例は、人丸集・赤人集・家持集・猿丸集の四つであり、その「猿丸家集」には、五十余首の和歌が収められている。
ただ、この多くの和歌の存在が、古今和歌集の読人知らずとされるものの多くが猿丸大夫の作品として認知される切っ掛けとなり、同時に、その人物の謎を深めてしまうことになり、架空の人物とまで言われるようになった原因とも考えられる。

先に紹介した二首の和歌は、何とも切なさを感じさせる作品であるが、次の二首は少し趣が違う。

『 をととしも去年(コゾ)も今年もはふ葛の したゆたひつつありわたる頃 』
(猿丸集。 意訳・・地を這う葛のように、秘めた思いがゆるんだまま長い年月を過ごしているのです)
『 をととしも去年も今年もをととひも 昨日も今日もわが恋ふる君 』
(古今和歌六帖。 作者不明記)

この二つの和歌を猿丸大夫のものと推定した時、私は「猿丸大夫はきっと実在したのだ」と感じた。
先の二首と違って、歌の巧拙はともかく、赤裸々に恋うる人に想いのたけをぶつけ、叶わぬ長い日々を恨んでいるのを見ると、そこには、間違いなく一人の男の匂いが感じられる。恵まれぬ定めを背負いながら生きた一人の男の息吹を微かながらも感じ取ることが出来る。
猿丸大夫は、確かに存在したのである。その名前が本名であれ否であれ、大したことではない。ゆえあって本名を出せない事情があったとしても、それは、彼の存在を否定するものでもなんでもない。
千数百年前に懸命に生きた一人の男は、現代の私たちに和歌を通して何かを語りかけてくれているはずなのだ。

                                   ( 完 ) 
 
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