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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  琴の音哀しく

2012-08-11 08:00:10 | 運命紀行
       運命紀行

          琴の音哀しく


天皇は、歩を止めて耳を澄ました。
微かに聞こえてくる琴の音は、嫋々として切なく、風に吹き消されるかに思われながらもなお続き、その琴の音よりもさらに弱々しげな声も加わった。

『 秋の日の あやしきほどの 夕暮れに  荻吹く風の 音ぞきこゆる 』

承香殿に暮らす女御の切ない気持が運んでくるかのように、琴の音と低い歌声は溶けあうようにして、天皇の心に訴えかけていた。
従う蔵人たちは、思わずさらに後方に控えてうずくまり、天皇はただ立ち尽くしていた。


     * * *

徽子女王(キシジョオウ)は、延長七年(929)に誕生した。
第六十代醍醐天皇の御代であるが、翌年には崩御、朱雀天皇が即位している。
父は、醍醐天皇の第四皇子、式部卿宮重明親王である。朱雀天皇は醍醐天皇の第十一皇子であり、重明親王の異母弟にあたる。
母は、左大臣藤原忠平の次女寛子(カンシ)である。忠平は、やがて朱雀天皇の摂政、ついで関白に就いている。

承平六年(936)九月、徽子女王は八歳で朱雀天皇の斎宮に卜定される。翌七年に野の宮に入り、天慶元年(938)九月、十歳で伊勢へ群行(グンコウ・公式に伊勢に向かうこと)した。そして、同八年(945)一月、母死去による服喪のため退下するまで、およそ十年間斎宮を務めた。
多くの女房などにかしずかれた生活とはいえ、都を遠く離れた伊勢の地で、ひたすら神に仕える生活は、どのようなものであったのか。

退下した年の秋、徽子女王は京に戻った。十七歳の年が終わろうとしている頃である。
当時の皇族の女性としては、すでに結婚適齢期を過ぎようとしていたが、母の死という悲しみを癒すのにはなお相当の時間を要したことであろう。
しかし、傷心の女王とはいえ、高貴な血筋に加え権勢を誇る藤原忠平を祖父に持つ麗人を世間は世捨て人にさせることはなかった。特に、叔父にあたる村上天皇の想いは強く、宮中に迎えられることになる。

朱雀天皇の同母弟である第六十二代村上天皇は、醍醐天皇の第十四皇子であり、徽子女王の父の異母弟である。つまり、女王の叔父にあたり、年齢は天皇の方が三歳上であった。
天暦二年(948)十二月、徽子女王は二十歳にして入内し、翌年四月には女御の宣旨を受ける。
これにより、徽子女王は、局を承香殿としたことから「承香殿の女御」、あるいは父の肩書から「式部卿の女御」、そして、その前歴から「斎宮の女御」とも称せられたが、後世においては、「斎宮の女御」として知られている。

徽子女王は、『いとあてになまめかしく』と栄華物語にも書き残されていることからも、とても気高く優美な女性であったと考えられる。さらに和歌に優れていることは斎宮時代に知られていたし、加えて、もと斎宮であったという神秘さに若き村上天皇は強く魅せられたようである。
天皇からの強い要請による入内であり、翌年には規子内親王誕生という慶びも手にすることが出来たが、徽子女王にとって、宮中での生活は必ずしも幸せなものではなかったようである。

村上天皇の後宮には多くの女御たちが上っていた。
いずれも才色兼備の女性たちで、有力な実家を背景に天皇の寵愛を得んと激しく争っていた。中でも、右大臣藤原師輔の娘である弘徽殿の女御安子は、その皇子が皇太子に立てられたことから後宮第一の女御となったが、他の女御へ圧力を加えることもあったらしい。
八歳にして斎宮の宣下を受け、その後十年に渡り神に仕える生活を送った徽子女王にとって、情念の渦巻く後宮の生活は息詰まるものであった。
さらに加えて、父・重明親王の後室、つまり徽子女王の継母にあたる藤原登子が天皇との逢瀬を重ねている噂が公然と聞こえて来るようになったのである。
徽子女王は、自らの局・承香殿に籠ることが多くなっていった。

天暦八年(954)九月、父・重明親王が死没する。徽子女王が入内して六年が経っており、女王は二十六歳になっていた。
亡父の東三条邸で喪に服すが、傷心の徽子女王は喪が明けた後も久しくこの邸を離れようとせず、天皇からの再三の招請にも、なかなか応じなかった。女王には後宮の生活はもともと気重である上に、女王を後見していた祖父の藤原忠平は五年前に没しており、さらに父を亡くした身であれば、さらに居心地の悪い場所になっていたと思われる。
それでも、応和二年(962)には懐妊し、九月に皇子を産むが、哀れにもその皇子はその日のうちに身罷ってしまった。

徽子女王は、一人娘の規子内親王を連れて再び東三条邸に引き籠ってしまった。
女王自身も病がちであったが、後宮の状況は女王には堪えがたいものであったのかもしれない。すなわち、後宮で権勢を誇っていた皇后安子が身罷ると、さほどの時を経ずして継母の登子は天皇の求めに応じて入内した。天皇の登子への寵愛は度が過ぎるほどであり、他の女御たちの怨嗟の声が高まっていった。
しかし、その村上天皇も、康保四年(967)五月に崩御、四十二歳であった。

村上天皇は、父・醍醐天皇譲りの風雅の人であった。自らも優れた歌人であり、勅撰和歌集「後撰集」の宣旨を下している。
やがて、徽子女王は規子内親王と共に、村上天皇の意思を継ぐかのように、著名な歌人を招いて歌会を催すなど、文化サロンのような活動を見せている。源順、大中臣能宣、平兼盛など当時の第一人者が集ったと伝えられている。

天延三年(975)二月、規子内親王が二十七歳で円融天皇の斎宮に卜定された。母娘二代続いての斎宮卜定である。斎宮は、内親王の重要な役目であり、また出家とは違うとはいえ、若い皇女にとっては過酷な定めといえる。有力な後見者を持たない皇女の悲劇ともいえよう。
さらに、この卜定のひと月後には継母である登子が亡くなっている。登子は村上天皇崩御後も宮中にあってなお華やかな生活を送っていたが、人の栄華の空しさを感じるに十分な出来事であった。
それらのことも影響したのか、徽子王女は規子内親王に同道することを決断する。

母親同道の斎宮の伊勢群行など前例がなく、天皇はじめ反対の声は強く、非難の声も少なくなかった。同時に、同情の声も少なくなかったとみえ、徽子女王の決意は実行され、伊勢での七年を母娘共に過ごすことになる。
永観二年(984)、円融天皇の譲位により規子内親王は斎宮を退下し、京に戻る。
この頃、徽子女王の健康は優れなかった様子で、翌年世を去った。享年五十七歳である。

高貴な家柄に生まれ、容姿、才能ともに優れ、天皇に求められて入内を果たしながら、徽子女王の生涯は何故か薄幸に見えてしまう。
しかし、少なくとも、一人娘規子内親王と過ごした晩年の十余年間は満ち足りた時間であったと想像できる。さらに、やがて全盛を迎える平安王朝文学の担い手たちに、徽子女王すなわち斎宮の女御が、少なからぬ影響を与えたことも間違いあるまい。

                                        ( 完 )


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