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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  お笑いなさるな

2012-08-17 08:00:51 | 運命紀行
       運命紀行

          お笑いなさるな


清原元輔が内蔵助に就いていた頃のことである。

その元輔が賀茂祭の奉幣使として颯爽たる姿で一条大路にさしかかった時、事件は起こった。
そのあたり一帯には、若い殿上人たちの牛車が数多く止められていて、行列の到来を待ち構えている。所々には桟敷も設けられていて、こちらも人々が溢れるばかりである。

元輔の飾り馬がその前に来た時、突然馬が暴れ出し、元輔は頭から逆さまに落ちてしまった。
年老いた姿の使者が落馬したのであるから、見物に集まっていた君達(キンダチ・公達とも。若い貴族)たちが気の毒なことだと見ていると、元輔は、まことに素早く起き上がった。
しかし、冠は飛んでしまい、むき出しになってしまった頭には一本の毛さえない。まるで素焼きの土器を被っているみたいである。

この時代、人前で頭をさらすことは恥辱とされていたから、馬の口取りは大慌てで冠を拾って渡そうとしたが、元輔は受取ろうともしない。そして、
「さてさて、何と騒がしいことだ。しばらく待たれよ。物見の君達方に申し上げたいことがございます」
と言って、並んでいる殿上人たちの牛車のもとに歩み寄った。
折から夕陽が差してきていて、頭はきらきらと光り、たいそう見苦しきことこの上もない。
大路に詰めかけている者たちは、我も我もと集まり罵りながら大騒ぎになる。牛車の君達も桟敷にある者も、みな伸び上がるようにして、大笑いしながら罵っている。

そんな騒動の中、元輔は君達の牛車に近づいて大声で話しかける。
「御曹司たちは、元輔が馬から落ちて冠を落としてしまったことを愚かだと思っているのでしょう。しかし、それはとんでもない間違いですぞ。
なぜなら、思慮分別のある人でさえ、物につまづいて転ぶことはよくあることです。ましてや、馬には思慮分別などあるはずもない。それにこの大路はデコボコ道ですぞ。また、馬は口の金具を引かれているから、自分が歩こうと思う方向に歩かせてもらえず、右に左に綱を引いて転ばせてしまったのである。だから、何が何だか分からないうちに倒れてしまった馬を憎らしいと思うべきもあるまい。

それにな、倒れようとする馬を私にはどうすることも出来ますまい。さらに、あの豪華な唐鞍というものは、鐙(アブミ)に足をしっかりとかけられないように出来ているから、馬がひどくつまづいたため私は落ちてしまったのですぞ。だから、私の責任ではない。
また、冠が落ちてしまったことについては、冠というものは、紐で結んで固定するものではないでしょう。髻(モトドリ)を巾子(コジ・冠のうしろの頂上に高く立てるもの)に差し込んで固定するものでしょう。ところがじゃ、髻はほれこの通り、つゆほどもなし。落ちた冠を恨むわけにもいきますまい。

それにですぞ、冠を落としたということについては、前例のないことではありませんぞ。
某々大臣は、大嘗会の日に落としなさった。また、某々中納言は、その年の野の行幸で落としなさった。さらに、某々中将は、葵祭の帰りの日、紫野で落としなさった。
このような例は、数えきれないほどあるのですよ。

ですから、事情もご存知ないまだお若いは君達方は、これをお笑いになってはいけませんぞ。お笑いになった君達こそが、かえって愚かだということになるでしょうからな」
と言いながら、元輔は一台一台に向かって、指を折りながら、一つ一つ言い聞かせている。それがようやく終わると、牛車の列から遠く離れて、大路の真ん中に突っ立って、
「冠を持って参れ」と大声で従者に命じて、ようやく冠を被った。
その様子を見ていた人たちは、皆が心を一つにしたかのように笑い罵った。

また、冠を渡すために元輔のもとに寄って来た馬の口取りは、
「馬より落ちられましたうえ、さらに御冠をお付けにならない状態で、なぜ長い時間意味のないことを申されていたのですか」と、あきれ顔でたずねますと、元輔は、
「意味のないことなどでは、ないぞ。
あのように道理を言いきかせておけば、後々は、この君達たちは笑わないだろう。そうでなければ、口達者な君達たちは、いついつまでも物笑いにする者たちぞ」
と言って、大路を通り過ぎて行った。

この元輔は、世慣れた人で、物事を滑稽に言って人を笑わせるのを役目と思っているような翁であるから、これほどまでに、臆面もなく言ったのだと、語り伝えられているとか。


     * * *

以上は、今昔物語集に収録されているものである。宇治拾遺物語にもほぼ同様の内容で載せられている。
冒頭に、元輔が内蔵助の頃とあるので、天延二年(974)に周防守と兼務で鋳銭長官に就いているので、その後のことらしい。そうだとすれば、年齢はすでに六十歳代後半、当時としては、文中にもあるように「翁」と表現される高齢である。
文中、申し聞かせる相手の君達たちは、おそらく二十歳前後、しかも官位は五位以上の殿上人で、四位、あるいは三位の貴公子もいたかもしれない。いずれにしても、この頃従五位下の元輔より上位の者たちだったであろう。

文中末尾には、元輔は「物をかしく言ひて、人笑はするを役とする翁にてなむ有りければ・・」とあるが、果たして、「三十六歌仙」の一人であり、「梨壺の五人」と称された賢人の一人である彼が、本当に道化た性格の持ち主であったのだろうか。
藤原氏全盛の公家社会において、報われない官人生活を送って行く中で身につけた処世術であったような気がしてならない。

清原元輔は延喜八年(908)の誕生である。醍醐天皇の御代で、「古今和歌集」が完成されつつある頃であった。
父の清原春光(異説もある)は、最終官職が従五位下の下総守であり、貴族としては下級の家柄といえる。
清原氏は、天武天皇の皇子、舎人親王を祖先と称する一族であり、平安時代になってから台頭してきた中下級の貴族である。
しかし、台頭してきたとはいえ古くからの名門氏族とは並ぶべくもなく、さらにこの時代は藤原氏が全盛期を迎えようとしている頃であり、元輔の官位昇進は遅々たるものであった。

天暦五年(951)、村上天皇の命により、平安御所内の七殿五舎の一つである昭陽舎に和歌所が置かれ、五人の才人が集められた。昭陽舎の庭に梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれていたが、そのことから集められた人たちは、「梨壺の五人」と称せられた。
その五人とは、大中臣能宣、源順、坂上望城、紀時文、そして清原元輔である。
この和歌所では、勅撰和歌集の一つである「後撰和歌集」の編纂や、万葉集の訓読などが行われた学問の拠点であった。

しかし、この時四十四歳の元輔は、河内権少掾に過ぎず、貴族の最下限ともいえる従五位下河内権守に就いたのは、安和二年(969)のことで、六十二歳になってからのことである。
天延二年(974)、周防守に就き、鋳銭長官を兼務。
天元三年(980)、従五位上に昇叙。
寛和二年(986)、肥後守となり、その四年後に任地で没している。享年八十三歳であった。

「梨壺の五人」といえば、当時一流の文学者として認められていたということであり、特に歌人としては著名な存在であった。
「枕草子」の中に、元輔の娘である清少納言が、「父の名前を辱めたくないので、自分は和歌を読みたくない」と中宮定子に訴えて、許可されるという一文がある。事実、清少納言が詠んだ歌は極めて少ないのである。
また、藤原定家が選歌をしたといわれる小倉百人一首には、祖父である清原深養父、本人の元輔、娘の清少納言の三人が採録されている。それに何よりも、清少納言という類稀なる文学者を生みだしているのである。

しかし、八十歳を過ぎてなお地方長官の任にあった元輔は、下級貴族として懸命に働き続けていたのかもしれない。
前半部分で紹介した今昔物語の記事は、そんな元輔の必死な姿の一端のように感じられてならないのである。

                                        ( 完 )





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