運命紀行
大輪の花
歴史上の人物の中には、せめて後しばらく生きていたなら、と思わせる人物が何人かいる。
遥か後の世に生きる私たちが、「もし」とか、「せめて」などと考えることは、無責任な妄想であって、歴史を正しく認識する上で何の意味もないことは承知している。しかし、それでもなお、そう思わせる人物はいるものである。
蒲生氏郷という人物は、少なくとも私にとってはそのような人物の一人である。
蒲生氏郷は、弘治二年(1556)、近江国蒲生郡日野において、日野城城主蒲生賢秀の嫡男として生まれた。幼名は鶴千代である。
蒲生氏は、藤原秀郷の系統を引く鎌倉時代からの名門とされる。この藤原秀郷という人物は、平安時代の貴族・武将であるが、百足退治の武勇で名高い俵藤太のことである。
この頃は、日野を拠点とする豪族で、六角氏の重臣として仕えていた。
永禄十一年(1568)、六角氏が織田信長により亡ぼされると、蒲生賢秀は嫡男鶴千代を人質として差し出して、信長に臣従することになる。
鶴千代が十三歳の時であるが、これが後の氏郷が信長と出会う切っ掛けとなったのである。
信長は、十三歳の鶴千代を見て、「ただ者ではない」とその天賦の才を見抜いたと伝えられている。
人質となった鶴千代であるが、この年には初陣を果たし、北畠氏との戦いや伊勢大河内城の戦いにおいて目覚ましい働きを見せ、信長の期待に応えた。
信長は、娘の冬姫を鶴千代に娶せることにして、自ら烏帽子親になって岐阜城において元服させ、忠三郎賦秀と名乗り、この後は織田一門として手厚く遇せられるのである。
なお、氏郷を名乗るのは、天正十三年(1585)の頃で、羽柴秀吉に仕えるようになり、「秀」の字が下に付くのを遠慮したことから改名したとされている。本稿では、この後は氏郷に統一する。
元服し冬姫を妻とした後には、人質の身から解放され日野城に戻ったようである。十五、六歳の頃のことである。
この後は、父と共に戦陣に出ることも多かったようであるが、天下を目指す信長軍の一員として慌ただしい日を送ることになる。
姉川の戦い、越前朝倉氏との戦い、浅井氏の小谷城攻撃、伊勢長島攻め、長篠の戦いなど大きな合戦に加わり、武功を挙げている。
天正十年(1582)、順調に天下掌握に向かっていたと思われた織田信長が、本能寺の変により無念の最期を遂げたのは、氏郷が二十七歳の時であった。
この時、父賢秀は安土城の留守居役を勤めていた。氏郷はおそらく日野城にあったと思われるが、父と共に、安土城にいた信長の妻子を保護し、日野城に籠り明智光秀に対抗する意思を示した。
光秀は、明智光春らに命じて、近江国の長浜、佐和山、安土城を次々に攻略していった。その一方で、光秀からは賢秀に対して、法外な恩賞を提示して勧誘がなされたが、父子ともに信長の厚誼に殉ずるとして拒絶した。
連勝の勢いで、明智軍は一気に日野城に襲いかかる手筈が進められたが、その直前に光秀が敗死してしまったのである。
その後は、歴史上名高い「中国大返し」強行に成功して明智軍を打ち破った羽柴秀吉に仕えることになる。
秀吉は、氏郷に伊勢松ヶ島十二万石を与えているが、秀吉も信長同様に秀郷の器量を認めていたのである。
清州会議を優位に導くことに成功した秀吉は、信長後継者の立場を固めて行った。氏郷は、秀吉に従って合戦に加わり、天正十二年(1584)には羽柴姓を与えられている。
なお、父の賢秀が没したのはこの頃のことであり、氏郷を名乗るのもこの頃からと思われる。
その後も、九州征伐や小田原征伐にも従軍しているが、この頃には、秀吉軍の主力部隊の一角を占めるようになっていた。
また、高山右近らの影響からキリスト教の洗礼を受け、有力なキリシタン大名の一人に数えられるようになる。また、文化面での成長も著しく、特に茶道においては千利休に師事し、「利休七哲」の筆頭に数えられている。
天正十六年には豊臣姓が与えられ、豊臣政権の重要人物として認知されていたことが分かる。
天正十八年(1585)、関東の北条氏を降しほぼ天下統一を果たした秀吉は、奥州の仕置きにおいて、氏郷を伊勢から陸奥会津四十二万石に大幅な加増の上移封させた。奥羽の地は検地が十分行われておらず、その後の検地では九十二万石となり、徳川家康は別格としても有力大名に躍進したのである。
氏郷を上方から遠く離れた会津の地に移したことについては、もちろん秀吉の意図が込められていることは確かである。
単純に、これまでの武功に応える大加増という面ももちろんあろうが、同じく関東に移した徳川氏の背後を押さえる役目を担っていたことは確かであろう。
さらに、野心に溢れた伊達政宗に対抗させる役目も期待されていたことであろう。実際に、この後、蒲生氏と伊達氏は対立が激しくなって行くのである。
それともう一つ、秀吉にとっては神ともいえる存在であった信長が高く評価していた氏郷の器量を恐れたためともいわれている。信長亡き後、実際に幕下として見てきた秀吉にとって、氏郷を恐れるとまではいかなくとも、近くで大勢力を持たせることを危険視した可能性はある。
家康を、先祖伝来の地から関東に移したのも同様の考えからであろうが、家康は家臣が不満を述べるのを押さえて粛々と関東に移って時を待ったが、氏郷は、これでは天下は望めないと家臣に嘆いたとも伝えられている。
会津に移った氏郷は、町の名前を黒川から若松に変え、城下の拡充を図っている。七層の天守を有する(現存のものは五層)城は、氏郷の幼名に因んで鶴ヶ城と名付けられた。
城下町には、旧領の日野や松坂から商人たちを迎え入れ、商業を重視する施策がとられた。おそらく、信長の安土の町割りを参考にしたと思われる。
その一方で、会津はもとは伊達政宗の領地であったことから、政宗との衝突は少なくなかった。頻発する一揆の背後には、政宗の策謀があったと告発している。
文禄元年(1592)の文禄の役では、肥前名護屋城まで出陣しているが、この陣中で病を得て、翌年十一月に会津に帰国している。
しかし、病状は回復せず、翌文禄三年(1594)春に上洛し療養を続けた。この年の秋には、秀吉をはじめ諸大名を招いて大掛かりな宴会を催しているが、この頃には誰の目にもあきらかなほどに病状は悪化していた。
秀吉は、前田利家、徳川家康に名のある医師の派遣を要請するとともに、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。
しかし、病状は完治することなく一進一退を続け、文禄四年(1595)二月、ついに帰らぬ人となった。
辞世の句が残されている。
『 限りあれば吹かねど花は散るものを 心短き春の山風 』
享年四十歳、大輪の花が咲き切らぬうちの旅立ちであった。
* * *
蒲生氏郷と戦国の世を統一へと動いた武将たちの年齢を比べて見ると、織田信長が二十二歳上、豊臣秀吉が十九歳上、徳川家康が十四歳上である。さらに言えば、明智光秀は二十八歳上になり、上杉謙信、武田信玄なども、信長より上の年代である。
つまり、単純に年齢だけでいえば、戦国の世の統一は、氏郷より少し年長の武将たちによって成されたといえるかもしれない。
伊達政宗も天下に野望を抱いていたとも言われるが、政宗は氏郷より十一歳下である。両者ともに、天下を狙うには、生まれてくるのが少々遅かったのかもしれない。
氏郷の戦歴などを見てみると、天下を狙っていたという痕跡のようなものはあまり見当たらない。信長は義父にあたり、秀吉に対してもあまりにも密着して仕えているからと思われる。むしろ、若き日の伊達政宗の方が野心に満ちているように思われる。
しかし、それにしては、氏郷が天下に野心を抱いていたような逸話がいくつか残されている。
先にも述べたが、氏郷が会津九十二万石を拝領した時、「たとえ大領であっても奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることは出来ない」と嘆いたという話が残されている。もし事実だとすれば、このような話が世間に漏れるようでは、一流の武将とはいえなくなってしまう。
秀吉が、「氏郷を近くに置いておくのは危険だ」と言ったということとセットになっている話で、どこまで真実として捉えるべきか疑問である。
また、秀吉が側近を集めて、自分が亡きあとの天下人が誰になるか自由に話させたことがあったという。
「血統や年齢での順序なら秀吉の甥であり養子である秀次である」という意見に対して氏郷は、「彼の愚人に従う者があろうか」と酷評した。
「関東で大領を支配する徳川家康」という意見に対して、「彼の人は吝嗇に過ぎる。天下を得るべき人にあらず」と評した。
「それでは、家康に次ぐ実力者である加賀の前田利家」という意見に対して、「加賀少将は御高齢。もし利家が天下を得ずば、我が得るべし」と答えたという。
いくら無礼講であったとしても、秀吉の面前でこのような発言をするほど、氏郷は軽率な男ではなかったはずである。後世に作られた話と考えられるが、そこには、氏郷に対する期待があったと思われる。
ただ、惜しむらくは、氏郷はいずれの人にも先立って世を去っているのである。
氏郷の死に関して、暗殺の可能性が語られることが古くからある。しかし、長く病に苦しんでいたことや、医師の記録などからみて、その可能性は少ないと考えられる。
氏郷は、城下町の建設にあたっても非凡なところを見せているし、茶道は超一流の域にあった。キリシタンの洗礼を受けているのも、宗教的な意味を否定するわけではないが、その文化や清新さに魅かれた部分も大きいと思われる。
このあたりは、何か、信長をほうふつさせる雰囲気を感じるのである。
氏郷という人物に、天下への野望や、傲慢なほどの大胆さなどが逸話として残されている背景には、織田一門として厚く遇せられていたことがあるのかもしれない。氏郷にとっては、明智も羽柴も織田の臣下に過ぎず、家康といえども実力にかなりの差がある弟分といった位置付けだったのである。
氏郷が亡くなった後、嫡男の秀行が跡を継いでいる。その後は減封や移封などで厳しい経験をするが、秀行が家康の娘を正室に迎えていたことから何度か厚遇を得て次代に家督を継いでいるが、やがて嫡子が無いことから断絶している。
氏郷が、せめてあと十年健在であれば、歴史の流れに少なからぬ影響を与えていたような気がする。
たとえ二十年長生きしたからといって、氏郷が秀吉にとって代わったり、家康の偉業を阻むことなど出来なかったと思う。戦国時代の末期にあって、際立った輝きを見せる人物であったことは確かだと思うが、天下人というイメージは湧いてこない。
ただ、少なくとも、関ヶ原の合戦はかなり違う形のものとなり、あの合戦そのものが勃発に至らなかったかもしれないと思うのである。
詮ない想像であるが、蒲生氏郷という人物は、そのような空想を駆り立ててくれる。
( 完 )
大輪の花
歴史上の人物の中には、せめて後しばらく生きていたなら、と思わせる人物が何人かいる。
遥か後の世に生きる私たちが、「もし」とか、「せめて」などと考えることは、無責任な妄想であって、歴史を正しく認識する上で何の意味もないことは承知している。しかし、それでもなお、そう思わせる人物はいるものである。
蒲生氏郷という人物は、少なくとも私にとってはそのような人物の一人である。
蒲生氏郷は、弘治二年(1556)、近江国蒲生郡日野において、日野城城主蒲生賢秀の嫡男として生まれた。幼名は鶴千代である。
蒲生氏は、藤原秀郷の系統を引く鎌倉時代からの名門とされる。この藤原秀郷という人物は、平安時代の貴族・武将であるが、百足退治の武勇で名高い俵藤太のことである。
この頃は、日野を拠点とする豪族で、六角氏の重臣として仕えていた。
永禄十一年(1568)、六角氏が織田信長により亡ぼされると、蒲生賢秀は嫡男鶴千代を人質として差し出して、信長に臣従することになる。
鶴千代が十三歳の時であるが、これが後の氏郷が信長と出会う切っ掛けとなったのである。
信長は、十三歳の鶴千代を見て、「ただ者ではない」とその天賦の才を見抜いたと伝えられている。
人質となった鶴千代であるが、この年には初陣を果たし、北畠氏との戦いや伊勢大河内城の戦いにおいて目覚ましい働きを見せ、信長の期待に応えた。
信長は、娘の冬姫を鶴千代に娶せることにして、自ら烏帽子親になって岐阜城において元服させ、忠三郎賦秀と名乗り、この後は織田一門として手厚く遇せられるのである。
なお、氏郷を名乗るのは、天正十三年(1585)の頃で、羽柴秀吉に仕えるようになり、「秀」の字が下に付くのを遠慮したことから改名したとされている。本稿では、この後は氏郷に統一する。
元服し冬姫を妻とした後には、人質の身から解放され日野城に戻ったようである。十五、六歳の頃のことである。
この後は、父と共に戦陣に出ることも多かったようであるが、天下を目指す信長軍の一員として慌ただしい日を送ることになる。
姉川の戦い、越前朝倉氏との戦い、浅井氏の小谷城攻撃、伊勢長島攻め、長篠の戦いなど大きな合戦に加わり、武功を挙げている。
天正十年(1582)、順調に天下掌握に向かっていたと思われた織田信長が、本能寺の変により無念の最期を遂げたのは、氏郷が二十七歳の時であった。
この時、父賢秀は安土城の留守居役を勤めていた。氏郷はおそらく日野城にあったと思われるが、父と共に、安土城にいた信長の妻子を保護し、日野城に籠り明智光秀に対抗する意思を示した。
光秀は、明智光春らに命じて、近江国の長浜、佐和山、安土城を次々に攻略していった。その一方で、光秀からは賢秀に対して、法外な恩賞を提示して勧誘がなされたが、父子ともに信長の厚誼に殉ずるとして拒絶した。
連勝の勢いで、明智軍は一気に日野城に襲いかかる手筈が進められたが、その直前に光秀が敗死してしまったのである。
その後は、歴史上名高い「中国大返し」強行に成功して明智軍を打ち破った羽柴秀吉に仕えることになる。
秀吉は、氏郷に伊勢松ヶ島十二万石を与えているが、秀吉も信長同様に秀郷の器量を認めていたのである。
清州会議を優位に導くことに成功した秀吉は、信長後継者の立場を固めて行った。氏郷は、秀吉に従って合戦に加わり、天正十二年(1584)には羽柴姓を与えられている。
なお、父の賢秀が没したのはこの頃のことであり、氏郷を名乗るのもこの頃からと思われる。
その後も、九州征伐や小田原征伐にも従軍しているが、この頃には、秀吉軍の主力部隊の一角を占めるようになっていた。
また、高山右近らの影響からキリスト教の洗礼を受け、有力なキリシタン大名の一人に数えられるようになる。また、文化面での成長も著しく、特に茶道においては千利休に師事し、「利休七哲」の筆頭に数えられている。
天正十六年には豊臣姓が与えられ、豊臣政権の重要人物として認知されていたことが分かる。
天正十八年(1585)、関東の北条氏を降しほぼ天下統一を果たした秀吉は、奥州の仕置きにおいて、氏郷を伊勢から陸奥会津四十二万石に大幅な加増の上移封させた。奥羽の地は検地が十分行われておらず、その後の検地では九十二万石となり、徳川家康は別格としても有力大名に躍進したのである。
氏郷を上方から遠く離れた会津の地に移したことについては、もちろん秀吉の意図が込められていることは確かである。
単純に、これまでの武功に応える大加増という面ももちろんあろうが、同じく関東に移した徳川氏の背後を押さえる役目を担っていたことは確かであろう。
さらに、野心に溢れた伊達政宗に対抗させる役目も期待されていたことであろう。実際に、この後、蒲生氏と伊達氏は対立が激しくなって行くのである。
それともう一つ、秀吉にとっては神ともいえる存在であった信長が高く評価していた氏郷の器量を恐れたためともいわれている。信長亡き後、実際に幕下として見てきた秀吉にとって、氏郷を恐れるとまではいかなくとも、近くで大勢力を持たせることを危険視した可能性はある。
家康を、先祖伝来の地から関東に移したのも同様の考えからであろうが、家康は家臣が不満を述べるのを押さえて粛々と関東に移って時を待ったが、氏郷は、これでは天下は望めないと家臣に嘆いたとも伝えられている。
会津に移った氏郷は、町の名前を黒川から若松に変え、城下の拡充を図っている。七層の天守を有する(現存のものは五層)城は、氏郷の幼名に因んで鶴ヶ城と名付けられた。
城下町には、旧領の日野や松坂から商人たちを迎え入れ、商業を重視する施策がとられた。おそらく、信長の安土の町割りを参考にしたと思われる。
その一方で、会津はもとは伊達政宗の領地であったことから、政宗との衝突は少なくなかった。頻発する一揆の背後には、政宗の策謀があったと告発している。
文禄元年(1592)の文禄の役では、肥前名護屋城まで出陣しているが、この陣中で病を得て、翌年十一月に会津に帰国している。
しかし、病状は回復せず、翌文禄三年(1594)春に上洛し療養を続けた。この年の秋には、秀吉をはじめ諸大名を招いて大掛かりな宴会を催しているが、この頃には誰の目にもあきらかなほどに病状は悪化していた。
秀吉は、前田利家、徳川家康に名のある医師の派遣を要請するとともに、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。
しかし、病状は完治することなく一進一退を続け、文禄四年(1595)二月、ついに帰らぬ人となった。
辞世の句が残されている。
『 限りあれば吹かねど花は散るものを 心短き春の山風 』
享年四十歳、大輪の花が咲き切らぬうちの旅立ちであった。
* * *
蒲生氏郷と戦国の世を統一へと動いた武将たちの年齢を比べて見ると、織田信長が二十二歳上、豊臣秀吉が十九歳上、徳川家康が十四歳上である。さらに言えば、明智光秀は二十八歳上になり、上杉謙信、武田信玄なども、信長より上の年代である。
つまり、単純に年齢だけでいえば、戦国の世の統一は、氏郷より少し年長の武将たちによって成されたといえるかもしれない。
伊達政宗も天下に野望を抱いていたとも言われるが、政宗は氏郷より十一歳下である。両者ともに、天下を狙うには、生まれてくるのが少々遅かったのかもしれない。
氏郷の戦歴などを見てみると、天下を狙っていたという痕跡のようなものはあまり見当たらない。信長は義父にあたり、秀吉に対してもあまりにも密着して仕えているからと思われる。むしろ、若き日の伊達政宗の方が野心に満ちているように思われる。
しかし、それにしては、氏郷が天下に野心を抱いていたような逸話がいくつか残されている。
先にも述べたが、氏郷が会津九十二万石を拝領した時、「たとえ大領であっても奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることは出来ない」と嘆いたという話が残されている。もし事実だとすれば、このような話が世間に漏れるようでは、一流の武将とはいえなくなってしまう。
秀吉が、「氏郷を近くに置いておくのは危険だ」と言ったということとセットになっている話で、どこまで真実として捉えるべきか疑問である。
また、秀吉が側近を集めて、自分が亡きあとの天下人が誰になるか自由に話させたことがあったという。
「血統や年齢での順序なら秀吉の甥であり養子である秀次である」という意見に対して氏郷は、「彼の愚人に従う者があろうか」と酷評した。
「関東で大領を支配する徳川家康」という意見に対して、「彼の人は吝嗇に過ぎる。天下を得るべき人にあらず」と評した。
「それでは、家康に次ぐ実力者である加賀の前田利家」という意見に対して、「加賀少将は御高齢。もし利家が天下を得ずば、我が得るべし」と答えたという。
いくら無礼講であったとしても、秀吉の面前でこのような発言をするほど、氏郷は軽率な男ではなかったはずである。後世に作られた話と考えられるが、そこには、氏郷に対する期待があったと思われる。
ただ、惜しむらくは、氏郷はいずれの人にも先立って世を去っているのである。
氏郷の死に関して、暗殺の可能性が語られることが古くからある。しかし、長く病に苦しんでいたことや、医師の記録などからみて、その可能性は少ないと考えられる。
氏郷は、城下町の建設にあたっても非凡なところを見せているし、茶道は超一流の域にあった。キリシタンの洗礼を受けているのも、宗教的な意味を否定するわけではないが、その文化や清新さに魅かれた部分も大きいと思われる。
このあたりは、何か、信長をほうふつさせる雰囲気を感じるのである。
氏郷という人物に、天下への野望や、傲慢なほどの大胆さなどが逸話として残されている背景には、織田一門として厚く遇せられていたことがあるのかもしれない。氏郷にとっては、明智も羽柴も織田の臣下に過ぎず、家康といえども実力にかなりの差がある弟分といった位置付けだったのである。
氏郷が亡くなった後、嫡男の秀行が跡を継いでいる。その後は減封や移封などで厳しい経験をするが、秀行が家康の娘を正室に迎えていたことから何度か厚遇を得て次代に家督を継いでいるが、やがて嫡子が無いことから断絶している。
氏郷が、せめてあと十年健在であれば、歴史の流れに少なからぬ影響を与えていたような気がする。
たとえ二十年長生きしたからといって、氏郷が秀吉にとって代わったり、家康の偉業を阻むことなど出来なかったと思う。戦国時代の末期にあって、際立った輝きを見せる人物であったことは確かだと思うが、天下人というイメージは湧いてこない。
ただ、少なくとも、関ヶ原の合戦はかなり違う形のものとなり、あの合戦そのものが勃発に至らなかったかもしれないと思うのである。
詮ない想像であるが、蒲生氏郷という人物は、そのような空想を駆り立ててくれる。
( 完 )