雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  家康の懐刀

2013-10-17 08:00:51 | 運命紀行
          運命紀行
               家康の懐刀


応仁の乱以来の戦乱の世を収め、二百六十余年に渡る幕藩体制を確立することが出来たのは、何よりも徳川家康という卓抜した人物の資質による部分が大きいことは確かである。
しかし、そこに至るまでには、幾つもの試練があり、奇跡といえるほどの幸運に恵まれていることも一度や二度ではない。
また、いくら家康に卓越した天賦の才能があり、血の滲むような研鑽が積み重ねられていたとしても、一人の天才で事が成就するはずがないことは当然のことである。
そこには、徳川四天王と呼ばれるような有能な武将や、粘り強く逞しい将兵たちに恵まれていたことも要因として挙げることができよう。

さらに言えば、激突し合う戦場での働きではなく、情報や謀略や外交、あるいは経済基盤の拡充、家中の結束なども重要な要因と考えられる。そして、それらの面で大きな働きをした人物たち、とくに、懐刀と呼ばれるような人物が家康を支えていたことも見逃すことが出来ない。
家康の懐刀ということになれば、まず本多正信・正純などがよく知られている。さらに、黒衣の宰相とまで呼ばれた、金地院崇伝・南光坊天海などの存在も挙げられよう。
そして、今一人、阿茶局(アチャノツボネ)という女性の存在も忘れてはならないだろう。

荒々しい武者働きが表に立つ戦国時代であるが、その要所要所で女性が果たした役割や影響は決して小さなものではない。
幾つか例を挙げてみよう。
織田信長の後継者の地位を争っていた羽柴秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の戦いにおいて、前田利家は勝家方として戦陣を張っていたが、勝家軍が敗走すると利家はさっさと息子の居城である越前府中城に引き籠ってしまった。追撃してきた秀吉は、単身府中城に乗り込んで、利家ではなく妻女のまつに面会すると、「この度の合戦は又左衛門(利家)に勝たせてもらった」と利家を責めることなく今後味方するようにまつに斡旋を頼んだのである。もちろん言葉に出したわけではなく、「湯漬けを一杯所望」することでその意を示し、まつはしっかりと受け止めたというのである。

もっとも、利家夫人のまつという人は、おそらく戦国期における第一級の人物だったようで、秀吉は利家を味方にするためにはまつを味方にすることが重要であると認識していたのであろう。
まったく同じように、利家が亡くなった後、跡を継いだ利長が家康から謀反の疑いをかけられて窮地に陥ったことがある。この時も、家康はまつを江戸に人質として迎えることで収束を図っている。
家康もまた、前田家を押さえるためにまつがいかに重要であるかということを承知していたのである。

東西両陣営が関ヶ原の戦いに向かって動きが慌ただしくなっていた時、大坂方は、大坂屋敷に残っている諸大名の妻子を人質として押さえようとして動いた。
細川忠興の夫人ガラシャは、人質となることを拒み自刃した。正しくは、キリシタンであるガラシャはその教えにより自殺するわけにはいかず、家老に討たれたのであるが、これにより大坂方は強硬手段がとれなくなっている。一人の女性の抗議が、関ヶ原の戦いに少なからぬ影響を与えたと思われる。

秀吉没後、正室であるねねは大坂城を出て、豊臣政権とは距離を置いていた。淀殿との確執もあったのかもしれないが、豊臣政権はねねの影響力を正しく評価していなかったようだ。
家康は、そのあたりの機微を承知していて、何かと援助をし誼を深めている。高台院の建立にあたっても家康の援助は少なくない。
関ヶ原の戦いにおいて、秀吉恩顧の大名の大半が家康に味方したのには、石田三成憎しの声も大きかったかもしれないが、高台院ねねの存在も関係しているはずである。

たとえ話が長くなったが、家康が東奔西走する中で、常に側近くにあって、奥向きのことをまとめ、時には重要な外交使として働いた阿茶局もそのような女性の一人で、徳川の長期政権の基盤を作り上げる上で、無視できない存在であったように思われるのである。

阿茶局は、弘治元年(1555)、甲斐国で生まれた。名前は須和といい、阿茶局というのは家康に召し出された後の女房名である。父は、武田家に仕える飯田直政である。
十九歳の頃、駿河国の今川氏の家臣神尾忠重に嫁いだ。この頃、武田氏と今川氏とは同盟を結んでおり何らかの交流があったのだろう。
間もなく一子を儲けるが、夫の忠重は四年後に亡くなっている。戦で亡くなったらしい。
その後須和は実家に戻ったようであるが、甲斐・駿河あたりは戦乱が絶えない頃で、実家に落ちつける状態ではなかったらしい。

家康と須和が出会ったのは、天正七年(1579)のことであるが、その経緯ははっきりしない。
須和が儲けた子供は男子で猪之助という名前だとも伝えられているが、その消息はよく分からない。また、須和が嫁いだ神尾忠重は侍大将で、家康と面識があったという話もあるようだがはっきりしない。
確かに、家康は長らく今川氏の人質として駿府にあり、元服も結婚も今川氏のもとで行われているが、今川義元討死の時に今川氏のもとを離れているので、すでに二十年近い年月が過ぎている。忠重を知っていたというのは微妙であるが、神尾家のことは承知していた可能性が高い。

ともあれ、須和はに召し出され、側室となり阿茶局を名乗る。阿茶局が二十五歳、家康が三十八歳の時である。
この頃の家康は、浜松城を居城にして、武田・北条との戦いに明け暮れていた。固い同盟を結んでいる織田信長は、天下統一を目指し西に向かっており、東を押さえることが家康の役目でもあった。
家康は、武芸を身につけ馬術にも優れており、細やかな気配りや奥向きの支配も出来る阿茶局を手厚く遇し、常に側に置くようになっていった。
戦陣にも同行させ、阿茶局は若武者姿で馬上にあることも少なくなかった。
阿茶局が召し出された三年後には、武田氏が滅亡し、さらには信長が本能寺の変で討たれるなど大事が続くが、家康の阿茶局に対する信頼は変わらなかった。

家康と秀吉との唯一度の戦いである小牧・長久手の戦いにも阿茶局は陣中にあったが、この時懐妊するも流産し、この後は家康の子を儲けることはなかった。
しかし、家康の阿茶局に対する信頼と心遣いは変わることなく、奥行きの采配を阿茶局に委ねられるようになり、家中の女性の中で最高位ともいえる立場になって行った。

やがて、家康は秀忠に将軍職を譲るが、隠居後も大御所として政治の実権を握っていた。
阿茶局に対する家康の信頼はますます高まり、奥向きの事はもちろん、外交面でも重要な役割を担い、まさに懐刀と呼ばれるに相応しい存在となる。
慶長十九年(1614)に起こった方広寺の鐘銘事件は、徳川方の作為が窺える事件であるが、この時も豊臣方との交渉の窓口となり、これにより勃発する大坂冬の陣においては、家康の全権を担い交渉にあたっている。
すでに六十歳になっていた阿茶局は、矢弾の飛び交う中を特別製の輿に乗って、大坂城との間を行き来して、淀殿の妹である常高院(お初・お市の方の三姉妹の中の姫)を相手に、徳川方有利の講和を成功させている。

翌年の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡、家康も、長年の懸案を果たしたかのように、翌元和二年(1616)に世を去った。享年七十五歳、阿茶局は六十二歳になっていた。
豊臣を亡ぼし、かねてより二代将軍秀忠の体制を固めてきた家康であるが、まだまだ豊臣に恩義を感じている勢力を恐れていた家康は、側室すべてが仏門に入る中、阿茶局には落飾を許さぬ旨の遺言を残し、秀忠を援けるよう言い残したのである。
阿茶局は、江戸城竹橋に邸を賜り、中野村に三百石の賄い料が与えられたという。

そして、阿茶局には、家康がやり残していた仕事を見届ける役目が待っていたのである。


     * * *

徳川家康という人は、子福者といえるほど多くの子供に恵まれている。
中には悲劇的な最期を迎えさせてしまった子供もいるが、徳川家による盤石の政権を築くことが出来た一因には、多くの子供や養子を手中にし、それによる婚姻政策により政権の安泰を果たしている点が挙げられる。
あまりにも脆弱であった豊臣政権を見た場合、血縁・姻族などの結束に大きな差があるように思われる。

家康は、そのことを何よりも熟知している武将であり政治家であったようだ。
家康の正室は、悲劇の死を迎えることになった築山殿と、継室に迎える秀吉の妹朝日姫の二人である。
しかし、側室となると、手元の資料だけでも十八人が記されており、そのほかにも子をなしたらしい女性だけでも数人が挙げられている。
子供となると、男子十一人、女子五人を儲けており、落胤の噂があったらしい子も何人かいる。
さらに、それでだけでは家康が描く遠大な構想には駒不足で、猶子・養子が四人、養女は十八人を数えている。
そして、こうした家康の大構想の最後の仕上げとなるべきことは、徳川の娘を入内させることであった。
家康が阿茶局に託した仕事とはそのことであった。

家康は生前、慶長十六年(1611)に即位した後水尾天皇に秀忠の娘・和子を入内させるべく働きかけていた。
慶長十九年四月には、入内宣旨が出されたが、大坂の陣の勃発で実現に至らず、さらに肝心の家康が実現の日を迎えることが出来ず、秀忠に後を託して世を去ってしまったのである。
阿茶局の落飾を認めなかった最大の理由は、和子の入内実現のためには阿茶局の力が欠かせないと考えたからと思われる。

家康の死去により入内の実現は伸び、さらに後水尾天皇の父である先帝・後陽成院が亡くなるなど、障害が続いた。
元和四年(1618)に至り、ようやく女御御殿の造営が始まったが、後水尾天皇が寵愛する女官に皇子が誕生していることが表面化し、和子の入内は危機に面した。結局、翌年に秀忠が直接上洛し参内するという騒動となり(およつ御寮人騒動)、宮廷に爪痕を残すような形で解決を図っている。
将軍自らが騒動解決に動くにあたっては、何人もの幕臣が奔走しているはずであるが、その中には阿茶局も加わっていたことであろう。

元和六年(1620) 、和子は女御として入内する。家康が宮廷に申し入れた時には、和子はまだ五歳であったが、この時には十四歳になっていた。
阿茶局は、御母代(オンハハシロ)として上洛、後水尾天皇から従一位を賜っている。
和子が懐妊すると、再び上洛して身の回りの世話をし、幕府と宮廷を繋ぐ重要な地位を占めて行った。
元和九年(1623)に誕生した皇女は、後の明正天皇である。
和子は翌年には、中宮に冊立されている。
なお、和子は「まさこ」と読まれるが、もともとは「かずこ」であったが、宮中では濁音が避けられるため「まさこ」と呼ばれることになったらしい。

秀忠が将軍職を家光に譲った後も、朝廷との融和、宗教政策の連携などにも加わり、重要な役割を果たし続けた。
寛永三年(1626)に秀忠と家光が上洛し、二条城に後水尾天皇の行幸を得た時も、その手配や饗応に尽力している。
阿茶局は、家康から厚い信頼を得ていたことに加えて、秀忠が十一歳の時からは親代わりとして養育しており、秀忠の将軍職継承は必ずしも定められた路線ではなかったことを考えると、阿茶局の影響も少なくなかったと考えられる。おそらく秀忠も、家康と同様か、あるいは遥かに大きな信頼を置いていたと思われる。

寛永九年(1632)に秀忠が他界すると、阿茶局は落飾した。七十八歳になっていた。
その後は京都での生活だったらしいが、当然陰に陽に和子の力になっていたのではないだろうか。
そして、五年後の寛永十四年(1637)、京都でその生涯を終えた。享年八十三歳、家康に側室として仕えてからでも五十八年が経っていた。
晩年の活躍が京都であったことから、京都東山の金戒光明寺に葬られ、阿茶局開基の上徳寺を菩提所とし、江戸では、同じく阿茶局が開創した雲光寺にも分骨されたという。

江戸幕府の草創期にあたって、阿茶局という一人の女性の果たした役割は、決して小さなものではなかったと思われるのである。

                                      ( 完 )

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