雅工房 作品集

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運命紀行  名将の姫

2013-11-16 08:00:58 | 運命紀行
          運命紀行
               名将の姫

小松姫は、天正元年(1573)徳川家中屈指の名将、本多平八郎忠勝の長女として誕生した。母は、側室の乙女である。
天正元年といえば、父の忠勝は二十六歳の頃で、すでに徳川家康の信頼は厚く、旗本部隊の指揮官として活躍していた。
しかし、同時に、三方ヶ原の戦いで徳川軍が武田軍に大敗を喫した直後のことで、三河を中心に東海地区の地盤を固めていたとはいえ、徳川家は大大名というほどの勢力ではなかった。

この頃の家康は、浜松城を居城としていたので、父忠勝も浜松に屋敷を構えていたと考えられ、小松姫も浜松城下で生まれ育ったと考えられる。
幼年期の記録を見つけることは出来なかったが、小松姫の誕生と同じ天正元年に武田信玄が没しているので、それ以降は浜松城下が敵軍に攻め込まれるようなことはなかったので、比較的平安な日々であったと考えられる。

しかし、父の忠勝はそうではなかった。主君の家康は、信玄没した後の武田家との戦いに明け暮れる日が続き、当然忠勝は常に側近くに仕え、ほとんどの戦いの陣頭に立っていた。
そして、小松姫が十歳になった天正十年(1582)には、本能寺の変が勃発し、家康と常に同盟関係にあった織田信長が横死する。この時父忠勝は家康と共に上方に居り、決死の伊賀越えを敢行して命からがら三河に逃げ帰っている。家康にとっても、父忠勝にとっても生涯で最も危険な逃避行であったと言われている。
信長が倒れた後の織田家は、嫡男信忠も同時に戦死したこともあり、急速に勢力を落としていった。
ほぼ信長が手中に収めていた領地は、有力大名の草刈り場となり、徳川家も甲斐・信濃を中心に勢力を広げて行った。
けれども、信長の跡を襲い天下人となったのは、清州会議を有利に進めた羽柴(豊臣)秀吉であった。

小松姫が真田信幸(のちに信之)と結婚した時期については諸説ある。十四歳の頃・十七歳・十八歳などである。
二人の結婚は、当時の常識として政略結婚であるが、その結婚に関する逸話として、徳川の勇将井伊直政が、信幸の戦場での見事な働きぶりを徳川家中に話したことから、忠勝がぜひにと家康に頼みこんで小松姫を嫁がせたというのである。
この逸話が事実だとすれば、井伊直政が信幸の戦場での雄姿を見た可能性が高いのは、天正十三年(1585)の第一次上田合戦と呼ばれるもので、沼田領をめぐる争いから大軍で進駐してきた徳川軍を、上杉家に臣従していた真田軍が少ない勢力で大いに悩ませたという戦いである。
その後、真田家は秀吉に臣従するようになり、その斡旋もあって、天正十七年(1589)に家康の与力大名になっている。

おそらく、徳川・真田両家が和睦し、真田が徳川の与力大名となる条件の一つとして、小松姫を真田昌幸の嫡男信幸に嫁がせることになったと考えられる。
従って、二人の結婚は、天正十三年から十七年の間くらいではないかと考えられる。小松姫が、十七歳の頃だったのではないだろうか。
婚姻にあたっては、小松姫は家康の養女(秀忠の養女という説もある)となり、徳川の姫として信幸に嫁いだ。信幸は、小松姫より七歳年長で、美男美女の似合いの夫婦であったらしい。
信幸の見事な武者振りはよく知られており、また、忠勝の孫である忠刻は千姫に見染められたという話もあるから、本多の家系も美男美女を輩出しているらしいので、小松姫が容姿端麗と伝えられているのも事実かと思われる。

真田氏は信濃の豪族であるが、この地は武田氏・上杉氏という強大勢力がぶつかり合う地域であり、さらには北条氏の台頭もあり、織田・徳川も介入してくるようになる。
真田氏に限らないが、今日は武田、明日は上杉に与するという生き残りのため苦しい選択を迫られてきたのである。
信幸も、父昌幸が武田氏に臣従するに際し、人質として甲斐に送られている。
天正七年(1579)、十四歳で武田勝頼と共に元服し、信幸を名乗ることになる。
そして、天正十年に武田氏が織田・徳川連合軍に滅ぼされると、信幸は父のもとに逃げ帰り、以後は共に行動することになる。
武田氏滅亡の後の信濃・甲斐の地は、列強による奪い合いとなり、真田氏は上田城・沼田城を死守すべく、徳川氏とも敵となり味方となって戦うことになる。
井伊直政が、信幸の武者振りを称えたというのも、この頃の戦いぶりを実見したのではないだろうか。

結婚当初、小松姫がどこに住んだかよく分からない。父昌幸の居城上田城内ではないかと思われるが、天正十八年(1590)に秀吉が北条氏を滅亡させると、その戦功として沼田領が真田氏の領地として確定された。それにより信幸は沼田城主となり小松姫も城主の奥方として移り住んだと考えられる。
やがて秀吉が没し、家康の台頭が著しくなり、時代は関ヶ原の合戦へと進んでゆく。

慶長五年(1600)、家康は上杉氏討伐のため大坂を離れる。秀吉恩顧といわれる大名たちの多くが家康に従った。真田氏も、当主の昌幸、長男信幸、次男信繁(のちの幸村)ともども従軍していた。
果たして、この機会を狙っていた石田三成は、大坂で家康討伐を決起する。一説によれば、このことは当然家康は承知していたが、毛利一族など三成に呼応する勢力が予想外に多かったことに危機感を抱いたという。
この情報を知った家康は、史上名高い小山会議を開き、従軍していた徳川恩顧の大名たちを味方に付けることに成功すると、大軍を西に返し、やがて関ヶ原合戦へと突入していくのである。

真田親子は、三成決起の情報を、家康と同時か、あるいはそれより先に掴んだ可能性がある。
親子は直ちに対策を練り、長男信幸はこのまま家康に従うこととし、昌幸と次男信繁は大坂方に与することとし直ちに陣営を離れ西に向かった。
この決定の理由としては、信幸の正室は家康の養女小松姫であるのに対し、昌幸の妻が三成の妻と姉妹であり、信繁の妻が三成と親しい大谷吉継の娘であることが影響している可能性は強い。同時に、真田の家を残すために、両陣営に別れた可能性も否定できない。

徳川陣営を離れた昌幸・信繁の軍勢は、居城の上田に向かった。
その途上、敵味方となった孫たちの顔を一目見ておきたいと思った昌幸は、沼田城に立ち寄った。
沼田城の留守を守る小松姫のもとには、父たちと袂を分かつことになったいきさつは伝えられていた。
「孫の顔を見たい」と城門近くまで来た昌幸に対して、小松姫は甲冑姿で現れ、「いかに義父上とはいえ、敵味方となった上は城内にお入れするわけにはいきません」と拒絶したという。
追い払われた昌幸・信繁の軍勢が近くの寺院で小休止していると、小松姫が子供を連れて訪ねてきて、昌幸らに会わせたという。
この行動に、昌幸・信繁親子や近臣たちは、「さすが名将の姫よ」と感嘆したといわれる。

容姿端麗、しかも文武共に秀でていたといわれる小松姫は、関ヶ原に敗れ九度山に追放された義父や義弟に対して、食糧品や日用品を送るなど、陰ながら支援したとされ、心根もまた優しい武将の妻であったと思われる。


     * * *

父・弟と敵味方となる道を選んだ信幸は、徳川軍の主力部隊ともいえる秀忠軍に属して西に進んだ。
徳川軍の戦力配置は、大きく分ければ、東海道を西進する家康率いる本隊と、中山道を進む秀忠率いる別働隊、そして、上杉氏や佐竹氏に備える部隊や江戸城を守る守備隊の三つと考えられる。
東海道を行く主力部隊は、秀吉恩顧といわれる武断派の有力大名を中心とした大軍勢であるが、家康率いる徳川隊は三万余とされるが、旗本中心の弱小部隊ともいえるものであった。常に徳川の先陣を争う井伊直政と本多忠勝は属していたが、直政は直前に発病し本隊から遅れているし、忠勝率いる本多隊は足軽を含めて五百程で、本多家の主力は嫡男忠政に率いられ秀忠軍に属していた。

徳川譜代の大名たちを中心とした秀忠軍に父と袂を分かった真田信幸が加えられたのは、中山道に明るかったためと思われる。また、秀忠軍の主目的は、上方で直接敵軍と戦うことよりも、中山道を制圧することにあったともいわれ、この地域の情報や豪族たちを味方につける働きを期待されていたかもしれない。
秀忠軍は、昌幸・信繁が籠る上田城を攻撃するにあたっても、信幸が義弟にあたる本多忠政と共に説得にあたっているが失敗したといわれている。
その後は、三万八千の大軍を擁する秀忠軍が二千で守る上田城攻略戦で手痛い損失を蒙ることになる。
秀忠軍はこのため関ヶ原の本戦に遅延して家康の叱責を受けているが、個人的には、このあたりのことは疑問に思えてならない。

二千で守る城一つに、徳川軍だけで三万八千の戦力を有しており、全軍がそこに釘付けにされたということには、どうも納得がいかない。真田氏の戦略上手を伝える格好の話ではあるが、もともと秀忠軍は、西進を急ぐよりも中山道沿いの各豪族を味方につけることを主目的にしていたように思われるのである。
結果論かもしれないが、結局、徳川の主力部隊は、ほとんど無傷で関ヶ原の合戦を終えているのである。
関ヶ原での戦いが東軍の大勝利となったから、秀忠は家康から面会さえ拒絶されたとされるが、万が一、東軍が敗れるか、痛み分けの形で長期戦となった場合、無傷の秀忠軍は東軍を立て直す働きを果たせたはずである。

それはともかく、戦後の論功行賞で信幸は、沼田領と昌幸の旧領と他に三万石が加増され上田城主となったが、上田城は破却を命じられ、沼田を居城とした。
これは、先の第一次上田合戦といわれる戦いで秀忠は苦戦を経験しており、今回の上田城攻撃では大きな損害を得ており、上田城を嫌い、真田氏を嫌っていた節が見られるのである。
今回の論功行賞でも、ほとんどの外様大名が大盤振る舞いを受けているなかで、信幸への加増は極めて小さいものである。父や弟の助命と相殺された可能性はあるが、信幸が名乗りを信之に変えたのもこの頃のことで、父たちとの決別を表す必要があったものと思われる。
徳川体制が固まって行くにしたがい、意にそわない外様大名に対する軋轢は厳しさを増していくが、真田家が安泰を続けることが出来た陰には、本多氏の存在、そして何よりも家康の養女でもある小松姫の存在が大きな役割を果たしていると思われる。

面白い逸話が残されている。
加賀前田家の大名行列が江戸に向かう途上、何か無礼な出来事があったらしく、小松姫は家来に命じて将軍家への献上物を取り上げてしまった。報告を受けた幕府は真田家を叱責したが、小松姫は、「親の物は子供の物である。何の差し障りがあるか」と相手にしなかったという。
大名行列と言っても、藩主が加わった大行列ではなく、献上物を運ぶような行列であったと思われるが、天下第一の大大名に対しても、「われは将軍家の娘なり」という誇りに満ち溢れた逸話のように思われる。
この事件からほどなく、真田家は四万石程加増されて松代に転封となった。
これは、今後も何か起こることを懸念して小松姫を北国街道から外すためだともいわれている。

元和六年(1620)、病にかかっていた小松姫は、療養のため江戸から草津温泉に向かう途上で没した。享年四十八歳であった。
報せを聞いた信之は、「我が家から光が消えた」と落胆したという。
しかし、小松姫の輝きは後々までも消えることなく、真田家の安泰を幕末まで見護り続けたのである。

                                  ( 完 )
 
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