雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  英雄の娘

2013-11-04 08:00:27 | 運命紀行
          運命紀行
               英雄の娘

戦国時代は、戦乱相次ぐ激しい時代であったが、それだけに名将という人物は数多く出現し、最終的に勝者であれ敗者であれ、現代の私たちに多くの感動を与えてくれる。
それは、単に武将に限ったことではなく、一介の武者であれ、武士以外の抑圧されることの多かった階層の人物の中にも、残されている資料は極めて少ないが、魅力あふれる人物も少なくない。同じことは女性にとってもいえることである。

しかし、戦国時代にあって、歴史の流れに少なからぬ影響を与えた人物は少なくないが、英雄と呼ばれるほどの人物となれば、そうそう多くはないように思われる。
英雄の定義は簡単にできるものではないが、こと戦国時代に限っていえば、織田信長と徳川家康は相当厳しい条件で英雄を選ぶとしても、必ず選ばれると思われる。
今回の主人公は、織田信長という英雄の娘として生まれ、徳川家康という英雄の嫡男のもとに嫁いだ女性である。

徳姫は、永禄二年(1559)に織田信長の長女として誕生した。幼名は五徳である。
五徳というのは、火鉢なのでやかんなどを掛けるために用いる三本ないし四本足の金属または陶器製の道具であるが、その命名の由来に、信長が、二人の兄と共に織田家を支えるような女性になって欲しいとの願いから命名したという話もあるが、これは後世の作り話と思われる。
どういうわけか分からないが、五徳に限らず、信長は自分のどの子供にも一風変わった名前をつけているのである。

母は、側室吉乃である。吉乃は、生駒家宗の長女であるが、生年なども含め分からない部分が多い。
これは、吉乃に限らないが、信長や信長周辺の人物について、古くからさまざまな記録や研究がなされ、あるいは芸術作品にも描かれてきている。そのお陰て、足跡が幅広く知ることが出来るようになっているが、同時に、文学などに取り上げられたものが、事実かのように歩きだしてしまっていることも少なくないのである。
吉乃という名前も同様で、本名は「類」という可能性が高いが、本稿でも「吉乃」を用いる。

吉乃の生家である生駒家は、藤原北家良房流の流れとされているが、吉乃の父家宗は、尾張国の生駒氏としての三代目当主にあたる。
生駒氏は土豪としてかなりの勢力を伸ばしていたが、その源泉は、灰や油を取り扱う武家商人として、また馬借(運送業)として経済力を高め、情報や軍事面でも力を蓄えていったことにある。そして、尾張国丹羽郡小折に小折城と呼ばれるほどの屋敷を構えるようになっていた。

吉乃は、最初土田弥平次に嫁いだが、弥平次が戦死したため実家に戻っていたが、そこで、再々生駒屋敷を訪れていた信長に見染められたらしい。
もちろん、信長が生駒屋敷を訪れていたのは、吉乃が目的ではなく、生駒氏の経済力と情報力に着目していたためであろう。
二人の出会いがいつの頃なのか定かではないが、最初の子供である信忠の誕生が弘治三年(1577)なので、その前年あたりで、弥平次が戦死してからさほど年月を経ていないと推定される。
なお、弥平次の土田氏であるが、生駒氏が土豪として相当の勢力を有していたと考えられるので、それに近い家柄であったと考えられる。
その場合、美濃可児郡の土豪土田(ドタ)氏と、尾張清州の土田(ツチダ)氏あたりが有力であるが確定されていない。なお、美濃の土田氏となれば、信長生母の土田御前と同族と考えられる。

信忠誕生の翌年、信雄が誕生、そしてその次の年である永禄二年に徳姫が誕生したのである。
吉乃は、永禄九年(1566)に亡くなっている。徳姫誕生後体調を崩していたともいわれるが、徳姫がまだ八歳の頃のことである。
吉乃の享年は三十九歳とも伝えられているが、信長より四歳下ともいわれているので、その場合は二十九歳ということになる。これも、どちらとも断定できない。

永禄十年(1567)五月、九歳の徳姫は、家康の嫡男信康に嫁いだ。信康とは同年の生まれである。
織田と徳川(当時は松平)との同盟が結ばれてから五年を経ており、この頃には家康は三河を平定し、徳川へと改姓するのもこの頃のことである。この結婚は、家康の台頭を見て、徳川との同盟をより強固なものにするためのものであったと考えられる。もちろん、家康にとっても願ってもない結婚であったと思われる。

両家の期待を担っての幼い夫婦も、やがて九年後の天正四年(1576)に登久姫が誕生し、翌年には熊姫(ユウヒメ)が誕生して、仲睦まじい夫婦に育っていっていたかに見えた。
しかし、二人をめぐって悲劇が生まれる。
天正七年(1579)、信長のもとに届けられた徳姫からの手紙が、両家の間に緊張を生み、特に徳川家にとっては大きな傷を残すことになるのである。

徳姫の手紙には、夫の信康との不和といった泣き事もあったようだが、姑の築山殿が武田氏と内通しているなどの信長としても看過できないような内容が綿々と綴られていたのである。
信長、家康が当面の最大の敵として武田氏と厳しく対立している時だけに、信長は家康に説明を求めた。
家康の使者として安土城を訪れた酒井忠次も、大筋において徳姫の手紙の内容を認めたという。
この結果、家康の正妻築山殿は家臣によって斬殺され、嫡男信康を自刃させるに至ってしまったのである。

この事件には、幾つかの謎があり、幾つもの説が伝えられている。
まず、徳姫が父信長に送った手紙の真意は、二人の姫を儲けたとはいえ嫡男を得ていない徳姫に対して何かと非難がなされ、築山殿が武田氏家臣の娘を信康の側室にしたことに対する不満をぶちまけることであって、築山殿が武田氏と繋がっているとか、信康の不行跡を、噂を事実のごとく、あるいは過大に報告したものだという説は根強い。
あるいは、信康の器の大きさを危惧した信長が、この問題を利用したという意見もあるようだ。

しかし、今川氏出身の築山殿は、たとえ武田氏からの働きかけがあったとしても、徳川に打撃を与えるような働きが出来るとは考えにくいし、側室に関しても、この時代大名家の嫡男に側室がいないことの方が不自然な時代である。現に、父である信長には子供を儲けているだけでも七人ほどの側室がいたのである。
徳姫と信康の仲があまりよくなかったことは事実らしい。岡崎城の二人のもとを、浜松城から家康が訪れたり、信長が立ち寄ったりして、取りなそうとしていたようなのである。

こう考えてくると、徳姫が親の威光を背景に我儘を言っただけのようにも感じられるが、それもすっきりとこない。それに、徳姫が徳川の秘密に当たるような情報を信長に伝えていたとすれば、それは驚くほどのことではないのである。
当時の大名間の結婚は、花嫁は実質的な人質であり、同時に重要情報を実家に伝える役目を担っていたのである。例えば、お市の方が夫を含めた浅井家が朝倉氏と連携して信長を討とうとしていることを伝えたという有名なエピソードも残されている。

これらの幾つもの理解し難いことなどを積み重ねて行くと、もしかすると家康と信康の間がうまくいっておらず、家康がこの事件を利用した可能性も浮かんでくるのである。
その対立は、単に親子間の不仲ということではなく、信康を取り巻く岡崎衆と、家康を取り巻く浜松衆といった対立があった可能性も考えられるのである。
家康の正妻が武田家と内通という情報は、信長にすれば見過ごすことが出来ない重大事だとしても、同盟者としてこれから先も協力し合う家康の嫡男を自刃させることを、信長が強く望んだということはなかなか理解しにくいのである。

いずれにしても、徳姫の父への密書は、家康の正妻と嫡男を死に追いやるという結末を見たのである。
信康自刃からおよそ五か月後の天正八年(1580)二月、徳姫は家康に見送られて岡崎城を出立した。
二人の姫は徳川家に残して、実家へと向かったのである。
旧暦二月は、すでに春の訪れを感じさせる季節であるが、十三年過ごした岡崎城を旅立つ徳姫の心境はどのようなものであったのだろうか。
徳姫、二十二歳の時のことである。


     * * *

徳川家を離れた徳姫は、父信長のもとには向かわず、長兄である信忠の居城岐阜城に身を寄せた。
その理由は明確でないが、信忠は同母兄であることや、徳姫が育った地に近いことが理由だったと思われるが、徳姫から信長への手紙が徳川に大きな混乱を与えたことを考慮していたのかもしれない。
この頃には、信忠は信長後継者としての地位を固めていたし、岐阜城周辺を中心としたあたりは完全に織田家の権威が行き渡っていて、最も安全な地でもあった。
婚家を後味の悪い思いで去り、二人の姫を残してきた徳姫にとっては、静かな環境の中に身を置くのにもっとも適した場所であったと思われる。

しかし、その平安も長くは続かなかった。
徳姫が岐阜城に入って二年余りが過ぎた天正十年(1582)六月二日未明、信長が討たれるという事変が発生した。本能寺の変である。しかも、後継者である信忠も共に戦死してしまったものであるから、岐阜城は大混乱に陥った。
この事変は、羽柴秀吉らの素早い行動で短時日で終息されたが、天下の形勢は大きく変わった。それまで予想もされなかった秀吉の台頭と、これも、想像を遥かに超える織田家の没落であった。

その後徳姫は、次兄信雄の保護を受けたが、小牧・長久手の戦いの後、信雄と秀吉の間の講和の条件として、人質として京都に移されることになった。
この後天下は、家康を臣従させたことにより秀吉の体制が固まって行った。
徳姫は依然秀吉の監視下にあったらしく、一時は亡き母の故郷である尾張小折の生駒家に身を寄せているが短期間のことで、すぐに京都に戻っている。

徳姫が秀吉の監視下にあるといっても、特別拘束されるようなことはなく、むしろ保護を受けていたという方が正しく、手厚く遇せられていたと思われる。何といっても信長の長女であり、いくら天下人となっても秀吉が徳姫を粗略に扱うことなど考えられないからである。
その一方で、徳姫はまだ三十歳を過ぎたばかりの頃のことで、織田の血筋は美人が多く、しかも信長の娘ということになれば、秀吉の触手も動くであろうし、政略結婚の有力な持ち玉にもなったはずである。しかし、伝えられている資料からは、お市の方の三姉妹と違って、そのような話は伝わっていない。
その理由として考えらる一つは、徳川嫡男の嫁であったことに対して秀吉に遠慮があり、もしかすると、家康からの援助も続けられていた可能性も考えられるのである。全くの想像ではあるが。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後は、天下は徳川のものとなって行った。
徳姫は、清州城主となった松平忠吉(家康四男)から所領が与えられ、母の故郷か清州城下に移っているが、間もなく京都に隠棲している。徳姫に所領が与えられるについては、当然家康の意向によるものと考えられ、嫡男信康を死に追いやった原因を作ったのが徳姫だとは考えていなかったように思われてならない。
なお、徳姫の母吉乃の兄である生駒家長は、信長・信雄・秀吉と主君を変えていたが、松平忠吉が清州五十二万石の城主として尾張入府の際に案内を任され、そのまま尾張国内に留まって家臣となり、子孫も尾張藩士として幕末に至っている。

その後は、徳姫は穏やかな晩年を過ごしたようである。
徳川に残した二人の姫は、長女の登久姫は初代松本藩主小笠原秀政に嫁ぎ六男二女の母となり、次女の熊姫は名門本多家に嫁ぎ、嫡子の忠刻はあの千姫を妻に迎えている。
また、阿波徳島藩の三代当主となる千松丸(蜂須賀光隆)の乳母選定に助言をしたという記録が残っているが、千松丸の父蜂須賀忠英の母は登久姫であり、母の正室繁姫は熊姫の娘なのである。

徳姫は、二人の姫たちや孫たち、さらには曾孫たちの姿を眺めながら穏やかな日々を送り、寛永十三年(1636)二月に静かに世を去った。享年七十八歳であった。
戦国時代の最後の激しい時代を、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という英雄たちと関わりながら、世が静まるのと並行するように、穏やかな生涯を送ることが出来た女性だったといえよう。

                                      ( 完 )


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