雅工房 作品集

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運命紀行  花も実もある武将

2013-11-10 08:00:09 | 運命紀行
          運命紀行
               花も実もある武将

『 家康に過ぎたるものが二つあり、唐のかしらに本多平八 』
これは、一言坂の戦いの時、本多平八郎忠勝の天晴れな武者振りを称えて詠まれたものだという。

本多忠勝は、天文十七年(1548)二月、三河国額田郡で本多忠高の長男として生まれた。幼名は鍋之助、通称は平八郎である。
本多氏は、家康を輩出した安祥松平家の家臣で、いわゆる安祥譜代と呼ばれる最古参の家臣団の一つである。
忠勝が誕生した時、徳川家康は七歳になっていて、すでに人質生活を余儀なくされるなど厳しい生涯に立ち向かっていた。

そして、忠勝もまた、誕生の翌年には父が戦死し、叔父の忠真のもとで育てられるている。
家康には、幼い頃から仕えたようで、家康がまだ今川氏のもとにある頃に、大高城に兵糧を運び込むという任務を与えられたのに従軍したのが忠勝の初陣である。忠勝十三歳の頃で、この時同時に元服している。
この大高城へ兵糧を運び込む任務は、今川義元が三河・尾張の境界線辺りの勢力圏を固めるための出陣の前哨戦ともいえる軍事行動であった。
かつては、この義元の出陣を上洛を狙ったものとされることもあったが、尾張から京都までの間に多くの有力大名が存在していたことからも、自陣営の引き締めと、せいぜい尾張の一部を手に入れる程度の作戦であったと思われる。

しかし、今川軍の侵略を看過出来なかった織田信長は、義元の大軍に奇襲攻撃をかけ、義元を討ち取ったのである。
永禄三年(1560)のことで、桶狭間の戦いといわれる有名な合戦である。
この戦いでの勝利は、信長の名を全国に知らしめたものであり、天下布武への第一歩となった戦いといえるが、同時に、徳川家康という英雄を、今川氏のもとから解放し、戦国大名として飛躍するための重要な意味を持つ戦いでもあったのである。

忠勝の初手柄は十五歳の時であるが、このような逸話が残されている。
その合戦は、今川氏真の武将小原備前と戦ったものであるが、忠勝を後見していた叔父の忠真が、自分が討ちとった敵将の首を忠勝に与えて武功を挙げさせようとしたが、忠勝は「何ぞ人の力を借りて、武功を挙げんや」と言って、単身で敵陣に駆け入って敵の首を挙げたという。
叔父をはじめ武者たちは、「この若者は只者ではない」と称えたといわれている。
忠勝は少年の頃から、勇猛な武者であったらしい。

永禄六年(1563)に発生した三河一向一揆は、まだ若い家康には大きな試練であった。家臣の多くが一向宗(浄土真宗)であり、大挙して一揆側に加担したからである。本多一族もその多くが一揆側についたが、忠勝は浄土宗に改宗して家康側に残り、家康の危機突破に尽力している。
永禄九年(1566)、忠勝は十九歳にして同年齢の榊原康政などと共に旗本先手役に抜擢され、与力五十騎を部下として与えられた。
この後忠勝は、常に家康の居城近くに住み、旗本部隊の将として家康の側近くで活躍して行くのである。

元亀元年(1570)の姉川の合戦は、織田信長が浅井・朝倉軍と戦った史上名高い合戦であるが、徳川軍は織田軍を支援する形で三河から馳せ参じたが、この時も、家康本陣に迫る朝倉の大軍に対して、忠勝は単騎で立ち向かい、この忠勝を救おうとする家康軍の突入が朝倉軍を大きく崩し、この合戦を織田・徳川連合軍の勝利に導く端緒となった。

冒頭にある一言坂の戦いは、武田信玄に徳川家康が大惨敗をしたことで知られる三方ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる戦いであるが、この時も忠勝は苦戦となり撤退する徳川軍の殿(シンガリ)を務め、その勇猛ぶりが称えられたものである。
天正三年(1575)の長篠の戦いは、押しまくられていた武田軍に対して家康が雪辱を懸けた戦いであるが、この時は信長の全面的な支援を受け、織田・徳川軍は三万八千、信玄の跡を継いでいた武田勝頼軍が一万五千という大軍が激突した戦いであるが、激戦の末武田軍は惨敗を喫し、滅亡へと向かうのである。
この時も、忠勝の勇猛ぶりは、敵味方双方から称されたと伝えられており、家康からは「まことに我が家の良将なり」と称えられ、『 蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角の凄まじさ、鬼か人か、しかとわからぬ兜なり 』と詠われたと伝えられている。

この蜻蛉というのは、忠勝愛用の大身の槍のことで、刃先に止まった蜻蛉(トンボ)が真っ二つに切れたことから名付けられたという「蜻蛉切」という槍は、天下三名槍の一つとされている。
また、忠勝が愛用した兜は、牡鹿の大きな角を高く掲げた「鹿角脇立兜」と呼ばれるもので、戦場でひときわ目立つものであった。
なお、天下三名槍とされているものは、結城家に伝えられていた「御手杵(オテギネ)」と、黒田節に歌われている「日本号」、それに忠勝の「蜻蛉切」である。

天正十年(1582)、天下統一を果たしたかと見えた織田信長は、明智光秀の謀反により本能寺で討たれた。
この時家康は、信長の招待を受け、安土から京都大坂を経て堺にあった。予定の旅程を終え後は京都に戻り、信長に御礼言上する運びになっていたが、その途上で事変を知った。
家康は絶望に陥り、それでも気を取り直すと、「直ちに京都にに向かい、叶わぬまでも弔い合戦を挑む」と僅かな随行者に決意を述べたと伝えられている。
この時も随行していた忠勝は、その無謀さを戒め、何としても領国まで逃げ伸びて捲土重来を期すべきと説いたといわれている。
冷静さを取り戻した家康は、その意見を受け入れ、家康の生涯で最も苦難の逃避行であったとされる「伊賀越え」を決行し、危機を脱することが出来たのである。

本多平八郎忠勝という武将が、槍一筋の猛将であるだけでなく、冷静沈着な情勢判断の出来る良将であったことがよく分かる出来事であり、「花も実もある武将」と評するに十分な人物であったことが分かる。


     * * *

本多平八郎忠勝を称える言葉が数多く残されている。
戦国の世の最後の勝利者である家康の重臣であったことにも影響されているかもしれないが、相当魅力的な人物であったことは確からしい。
すでにいくつかの言葉を紹介したが、信長は、「花実兼備の勇士」と称え、秀吉は、「日本第一、古今独歩の勇士」とべた褒めしている。
秀吉は、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と述べたとも伝えられている。これは、立花宗茂の勇猛さを称えるための言葉であるが、本多忠勝が多くの人に知られた大将であったことがよく分かる話でもある。

天正十八年(1590)、家康が関東に移ると、上総国夷隅郡大喜多に十万石を与えられた。
これは、井伊直政の十二万石に次ぐものである。若くから共に出世を競ってきた同年の榊原康政も同じ十万石が与えられているが、この二人はとても仲が良かったらしい。二人とも家康の側近くに仕え、徳川の重鎮に育ってきていたのである。忠勝が四十三歳の頃のことである。

慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、榊原康政が二代将軍秀忠に随行したが、忠勝は家康本陣に従軍し、吉川広家などを東軍に味方させるべく活動している。
戦後の慶長六年には、伊勢国桑名藩十万石(十二万石とも十五万石とも諸説ある)に移ったが、旧領のうち五万石は次男の忠朝に別家として与えられている。
桑名では、城郭整備だけでなく、町割りなど民政面でも非凡なところを発揮し、名君と仰がれたという。

しかし、徳川の体制が安定さを増すにつれ、忠勝は中央政治から離れることになり、本多正純などの若手の文治面に秀でた人物が家康・秀忠の側近として抜擢されるようなり、忠勝ばかりではなく、槍一筋に戦場を駆け巡ってきた武将たちの活躍の場は少なくなっていった。
慶長十四年六月、家督を嫡男忠政に譲って隠居、翌慶長十五年(1610)十月、桑名城でその生涯を終えた。享年六十三歳であった。

常に家康の側近くにあり、窮地となると大軍に対しても先頭になって飛び込んでいったという勇将は、生涯に加わった合戦の数は大小合わせて五十七回といわれているが、そのいずれにおいても、かすり傷一つ負わなかったと伝えられている。
徳川の体制が盤石になるに従って、忠勝の晩年はやや不遇であったと伝えられる向きもあるが、本多氏は、大名十三家、旗本四十五家を輩出している。そして、徳川宗家と分家以外で、本多氏は唯一葵紋を許されているのである。
その中でも、忠勝に対する家康の信頼は極めて厚く、嫡男忠政の正室は家康の孫娘熊姫であり、孫にあたる忠刻は、あの千姫を妻に迎えているのである。
千姫が本多忠刻に再嫁するについては、千姫が忠刻を見染めたためという逸話もあるが、家康が本多平八郎忠勝の家こそが、傷心の千姫を託すに足る家と見込んだ上のことであったように思われるのである。

現代の私たちが興味本位で戦国時代を見る限り、本多平八郎忠勝という人物は真にさわやかで小気味の良い人物に見える。しかし、戦国武将である限り、勇将であればあるほど殺生の数も数知れなかったはずである。
そのことは何よりも本人が承知していたらしく、戦場には大きな数珠を首にかけて臨んでいたと伝えられている。
最後に、この名将の遺書の一部と辞世の句と伝えられているものを紹介しておく。

『 侍は、首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守ることを侍という 』
『 死にともない嗚呼(アア)死にともない死にともない 深きご恩の君を思えば 』

                                      ( 完 )



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