『 下船始まる 』
新型コロナウイルス感染で 厳しい対応が強いられていた乗客の
クルーズ船からの下船が ようやく始まった
おそらく ほとんどの専門家の予想を超えた
感染者数となり なお増加が懸念されている中で
一つのポイントを迎えたようだ
早くも 対応の仕方について 避難や意見が出ているが
とりあえずは 現状の解決策を 最優先にしてほしい
下船された方々 ご苦労様でした
☆☆☆
世をいとふ 人とし聞けば 仮の宿に
心とむなと 思ふばかりぞ
作者 遊女妙
( No.979 巻第十 羇旅歌 )
よをいとふ ひととしきけば かりのやどに
こころとむなと おもふばかりぞ
* 作者は、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃に生きた女性であるが、生没年、正確な出自などは不詳である。
* 歌意は、「 あなたは 悩み多い世の中を嫌って 出家されたお方と聞いていますので 一夜の仮の宿に 執着なさるな と思うだけです 」といった意味であろうが、この和歌は「返歌」なので、その呼びかけの歌と共に見なければ、趣旨は分からない。
* 新古今和歌集の(No.978)には、次の和歌が載せられている。
「 天王寺へ詣で侍りけるに、にはかに雨の降りければ、
江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければ、よみ
侍りける 」 西行法師
『 世の中を いとふまでこそ 難(カタ)からめ 仮の宿をも 惜しむ君かな 』
遊女妙の和歌は、この和歌に対する「返し」として詠まれたものである。
* つまり、天王寺に参詣しようとしていた西行法師が、急に雨が降り出したので、江口で宿を借りようとしたところ、貸そうとしなかったので詠んだものだ、という前書きがあって、『 悩み多い世の中を嫌って出家するとなれば難しいことであろうが、たった一夜の仮の宿を貸すのを、あなたは惜しむのですか 」と皮肉ったところ、宿の遊女は、「あなたこそ、世を嫌って出家なされたというのに、たった一夜の宿に拘っているのですねぇ」と見事にやり返した、といった様子なのです。
なお、「江口」というのは、現在の大阪市東淀川区にあり、神崎川が淀川から分かれる辺りにあって、都から西国に向かう時の重要な河港で、大変繁栄していた。
* 西行法師は、その頃の随一の歌人であり、新古今和歌集で一番多くの和歌が入撰している。その、和歌の名人と無名の遊女との和歌での掛け合い、出家者と遊女という組み合わせ、といったあたりは大変興味深いことは確かであるが、この和歌および遊女妙はさらに広がりを見せているのである。
当時の遊女は、近代の遊女と表現される人とはかなり違っていて、技芸を売り物にするのが主体で、宿を貸すのを生業とすることも多かったらしい。もちろん、売春といった一面もあったと思われるが、それも近代とは少しニュアンスが違い、白拍子など他の職業においても同様な状態があったようである。
従って、この遊女妙に見るように、高い教養の持ち主も珍しくなく、公家や天皇・皇族らとの接触も珍しくなかった。後鳥羽上皇は、水無瀬宮で催す遊興の座には、遊女たちがよく招かれていたともいわれ、上級公家や有力武士の中にも、遊女を母としている人物が伝えられている。
* たとえそうだとしても、遊女の和歌が新古今和歌集に入撰していることが不思議に思えるのだが、それは、この和歌が「山家集」から引用された事にあるのである。
「山家集」は西行法師の和歌が千数百首収められている膨大な物であるが、西行が自撰した物をベースに後人が編集したものとされていて、西行の没後(1190没)ほどなく完成したらしい。
ところが、「山家集」には、この和歌の作者は「遊女」となっている。新古今和歌集の撰歌が始まったのは、おそらく1200年を過ぎたころからだと考えられるが、この和歌が新古今和歌集に姿を現した時には、作者は「遊女妙」になっているのである。
* 西行法師と遊女との軽妙な掛け合いは、おそらく事実であったと考えられるが、その遊女の名前が「妙」であったとは書き残しておらず、本当はどういう名前であったのか、名前を聞くほど親密な関係に至るまでの交渉があったのか、単に行きずりの関係に終わったのか、ここから先はすべて想像の世界になるが、その想像は大変な広がりを持っていくのである。
まず、この遊女を「妙」と名付けたのは誰なのか。有力視されているのは、後鳥羽上皇と藤原定家の二人である。後鳥羽上皇は新古今和歌集の勅撰者であり、江口の遊女を遊興の場によく招いていたとされるので、その中に「妙」という麗しき遊女がいたのを覚えていて、撰歌に当たって口出しした可能性があるかもしれないというものである。もう一人の藤原定家も新古今和歌集の撰者の一人であるが、こちらは少しばかり具体性があって、定家の日記「明月記」の中に「神崎の遊女妙が・・・」という記録があり、この和歌の撰定に当たって、「妙」という名前を連想したことは十分考えられる。但し、その出来事は、1203年5月のことなので、西行法師が出会った遊女と同一人とは考えづらい。
* いずれにしても、西行法師と江口の遊女の軽妙な掛け合いは、「妙」という名前を得て、生き生きと人々の心に感銘を与え始めたようである。
やがて、謡曲や長唄に受け継がれて、今日まで伝えられてきているのである。「遊女妙」は、「江口の君」と呼ばれるようになり、今日でも、縁の寺院やお堂などが伝えられているという。
本来なら、歴史上名を残すことなどあるはずもない一人の遊女のことが、脚色されながらも今日に伝えられているということに喝采を送りたい気持ちになるのである。
☆ ☆ ☆