『 フィギュアスケート 頑張る 』
ソウルで行われている 四大陸フィギュアスケート選手権
昨日は 羽生結弦選手が ショートプログラムで
世界最高点で首位に立った
今日は 紀平梨花選手が フリーでは苦戦しながらも
見事 優勝を果たした
何かと 暗いニュースの多い中で
男女共に頑張っている フィギュアスケートに
拍手 拍手 そして 感謝
☆☆☆
『 フィギュアスケート 頑張る 』
ソウルで行われている 四大陸フィギュアスケート選手権
昨日は 羽生結弦選手が ショートプログラムで
世界最高点で首位に立った
今日は 紀平梨花選手が フリーでは苦戦しながらも
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何かと 暗いニュースの多い中で
男女共に頑張っている フィギュアスケートに
拍手 拍手 そして 感謝
☆☆☆
今昔物語 巻第四 ご案内
本巻は、全体の位置付けとしては「天竺付仏後」とされています。
天竺の巻は、第一巻から第五巻までありますが、本巻は釈迦没後の物語が中心になっています。
史実としての価値については、筆者は評価する力を有していませんが、どこかで聞いたような物語もあり、興味深い巻といえます。
阿難尊者の弁明 ・ 今昔物語 ( 4 - 1 )
今は昔、
天竺において仏(釈迦)が涅槃(ネハン)に入られて後、迦葉尊者(カショウソンジャ)を最上位者として、千人の羅漢(ラカン・阿羅漢の略。原始仏教における修業階位の最高位に達したもの。ここでは、高弟たちを指している。)が皆集まり、大小乗の経(利他を説く大乗経と自利を説く小乗経。)を結集(ケツジュウ・合議により仏典を編集すること。この時のものが、第一回結集といわれるもの。)し給うた。
その中で、阿難(アナン・釈迦十大弟子の一人。釈迦の従兄弟にあたる。)の所行に罪過が多かった。そこで、迦葉は阿難を詰問なさった。
「まず、そなたは、憍曇弥(キョウドンミ・釈迦の叔母にあたる。再三出家を望むが釈迦が許さず、阿難の口添えで実現したらしい。原始仏教において女性蔑視が見られることがあるが、その一つのように思われる。)を仏に申し上げて出家させ戒を授けた。それによって、正法五百年(ショウボウ・釈迦入滅後、五百年あるいは千年の間は、正しい教えが伝えられるとされる期間。)を短くしてしまった。その罪過をどう思っているのか」と。
阿難はこれに対して、「仏の在世・滅後に関わらず、必ず四種の構成員がいるではないか。すなわち、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷(ビク・ビクニ・ウバイ・ウバソク・・なお、前の二つは男女の出家信者。あとの二つは男女の在家信者のこと。)である」と答えた。
また、迦葉が訊ねた。「そなたは、仏が涅槃に入られる時、水を汲んで仏に奉ることをしなかった。その罪過はどうか」と。
阿難は、「その時に、川の上流を五百の車が横切りました。そのため水が濁り、水を汲んで仏に奉ることが出来なかったのです」と答えた。
また、迦葉が訊ねた。「仏はそなたにお尋ねになられた。『私(釈迦)は、一劫(イチゴウ・劫は時間の単位で、果てしないほど長い時間。)に生きるべきか。多劫に生きるべきか』と。その答えを、そなたは三度にわたってお答えしなかった。その罪過はどうか」と。
阿難が答えた。「天魔・外道(ゲドウ・仏教から見た異教徒。)がそれを知ると、仏の在世期間が分かり禍を成すでしょう。それゆえお答えしなかったのです」と。
また、迦葉は訊ねた。「仏が涅槃に入られた時、摩耶夫人(マヤブニン・釈迦の生母)が遥か忉利天(トウリテン・天上の一つ。帝釈天の居城がある。)より手を差し伸べて、仏の御足を取って涙をお流しになった。ところが、そなたは仏の側近として仕えた御弟子でありながら、それを制止することなく、女人の手を仏の御身に触れさせている。この罪過はどうか」と。
阿難は答えた。「末世の衆生に母の深い愛情を知らしめるためであります。この恩を知って徳を積むためです」と。
このように、阿難が答えの一つ一つに罪過はなかったので、迦葉はこれ以上問い質すことは無かった。
また、千人の羅漢が霊鷲山(リョウジュセン・釈迦が多くの説教を行った聖地の一つ。)に行き法集堂(ホウシュウドウ・経典の編纂所)に入る時、迦葉は、「ここにいる千人の羅漢のうち、九百九十九人はすでに無学(ムガク・これ以上学ぶものが無いという意味。)の聖人である。ただ一人阿難は、有学(ウガク・まだ学ぶべきことがあるという意味。)の人である。また、この阿難は、時々女性に関心を抱く。未だ修行の薄い人である。速やかに堂の外に出なさい」と言って、立って行き阿難を引き出し門を閉じてしまった。
すると阿難は、堂の外から迦葉に申し上げた。「私が有学なることは、四悉檀(シシツダン・仏の教えを四種に分類したもので、その内容は広範で難解らしく、阿難はそれを修得するためには学ぶことがある、と答えたものらしい。)を修得するためです。また、女の事に関しては決して愛欲心はありません。ぜひ、私を堂の中に入れて座に着かせてください」と。
迦葉は、「そなたは、まだ修得の程度が低い。速やかに無学の域まで修得すれば、中に入れて座に着かせよう」と言った。
阿難は、「私はすでに無学の域まで修得しています。速やかに入れてください」と言う。
迦葉は、「無学の域に達しているというのであれば、戸を開かずとも神通力をもって入れば良い」と答えた。
そこで阿難は、鍵穴より入って中の羅漢たちに加わった。すると中にいた九百九十九人の阿羅漢たちは、不思議な思いになった。
これによって、阿難を法集の長者(編集主幹)と決めた。
そこで阿難は、高座に昇り、「如是我聞(ニョゼガモン・我は仏の教えをこのように聞いた、といった意味で、多くの経典はこの言葉で始まる。)」と言った。その時、集まっている阿羅漢たちは、「我が大師釈迦如来が再びよみがえられて、我らのために法をお説きになられるのか」と疑い、偈(ゲ・仏教の真理を詩の形で述べたもの。)を説いて声を合わせて誦した。
『 面如浄満月 眼若青蓮華 仏法大海水 流入阿難心 』
( メンニョジョウマンゲツ ゲンニャクショウレンゲ ブッポウダイカイスイ ルニュウアナンシン )
( 前の二句は、阿難の容貌を仏の尊顔の如し、と称え、後の二句は、偉大にして無尽蔵の仏の教えを大海の水にたとえ、それらが阿難の心に会得されたと賞賛したもの。)
このように誦して、褒め称えること限りなかった。その後、大小乗の経を結集した。
されば、仏の御弟子の中において、阿難尊者は優れた人物であると皆が知ることとなった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
食物を地神に供える ・ 今昔物語 ( 4 - 2 )
今は昔、
天竺において仏(釈迦)が涅槃に入られて後、波斯匿王(ハシノクオウ・釈迦と同時代の舎衛国王。仏教を外護した。)は羅睺羅(ラゴラ・釈迦の実子で十大弟子の一人。)を招いて、豪華な食事を供応した。大王及び后は自ら手に取ってこれを食べさせると、羅睺羅はそれを受けて、一箸食べたのち涙を流して泣くこと幼児のようであった。
すると、大王及び后・百官は、皆これを見て怪しみ、羅睺羅に尋ねた。「私は、心をこめて供養させていただいています。何ゆえお泣きになるのですか。今すぐそのわけをお聞かせください」と。
羅睺羅は、「仏が涅槃に入られて、まだいくらも経ちませんが、この御馳走の味がすっかり変わってしまい、不味いのです。それゆえ、これからの末世の衆生は、何を食べればよいのかと考えますと悲しくなり、それで泣いたのです」と答えて、なお泣き止まない。
その後、大王がご覧になっていると、羅睺羅は腕を伸ばして地の底の土の中より飯一粒を取り出して言った。「これは仏が在世の時の飯(イイ)です。断惑の聖人(ダンワクノショウニン・一切の煩悩を断ち切って悟りを得た聖人。仏や阿羅漢を指す。)の飯なのです。この飯と今の供養の飯とを、すぐに食べ比べてみてください」と。
大王はその飯を取ってお嘗めになった。味は不思議なほど美味であった。今の供養した飯と比べてみると、今の飯は毒の味のようであり、この飯は甘露(カンロ・蜜のように甘い液。仏教では兜率天の不死の霊液とされた最高の滋味飲料。)のようである。
そこで羅睺羅は、「この世から聖人が皆いなくなって、誰に供養するためにこの食物を地上に留めて置こうか」と言った。そして、「これは、堅牢地神(ケンロウジジン・もとは古代インドの大地の女神。大地の母神として農作豊穣・延命息災の福利を授けるとされた。)の大地から生ずる食物として、五百由旬(ゴヒャクユジュン・遥かに深いとの表現。)の地の底に埋めるべし」と言った。
大王は、「しからば、どのような時にその食物は役立つのでしょうか」と言った。
羅睺羅は答えた。「末世において、仁王経を講ずる所には必ず食物があるはずである」と。
されば、末世の衆生にとって、仁王講はもっとも重要な善行を積む法会なのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
八万四千の塔を建てる ・ 今昔物語 ( 4 - 3 )
今は昔、
天竺において仏(釈迦)が涅槃に入られて一百年後に、鉄輪聖王(テツリンジョウオウ)が出生なされた。阿育王(アイクオウ・マウリヤ王朝第三代の王。古代インド最初の統一国家を建設、仏教の守護者として著名。)と申される。
この王は、八万四千人の后を持っていた。しかし、王子はいなかった。それを嘆いて子供の誕生を願い乞うていたが、特に寵愛していた第二の后が懐妊した。
それで、大王は大変喜び、占い師を召して、「この懐妊した皇子は、男か女か」と訊かれると、占い師は、「金色の光を放つ男子がお生まれになります」と占なって申し上げた。されば、大王はいっそう喜び、后を大切にし給うこと限りなかった。
こうして、お生れになるのをお待ちになっているうちに、第一の后がこの事を聞いて思ったことは、「まことにそのような子が生まれて来れば、私はきっと第二の后に蹴落とされるに違いない。されば、どうにかして、その生まれてくる御子を亡き者にすべきだ」というもので、計略を廻らせた。
そして、「ここに孕んでいる猪がいる。これが生んだ子を第二の后が生むであろう金色の御子とを取り換えて、御子を埋め殺してしまおう。そして、『このような猪の子をお生みになりました』と言って取り上げしよう」と企てて、第二の后の身近に仕える乳母を説き伏せて、生まれてくるのを待っているうちに、月満ちて、第二の后の陣痛が始まり、人の手助けを受けて出産したが、あの乳母が第二の后に教えたことは、「出産の時には物を見ないことです。衣を引き被っていれば安産できる」ということで、第二の后は教えられたように衣を被っていたので物も見えなかった。
やがて御子は、安産でお生れになった。第二の后がご覧になると、占い師が言っていた通り金色に輝く男の子がお生まれになったのである。ところが、かねて計画していたように、乳母はその御子を他の物で押し隠すようにして取って、猪の子と取り換えた。大王には、「猪の子をお生みになられました」と申し上げたので、大王はそれを聞いて、「これは、奇妙で恥知らずなことだ」と言って、第二の后を他国に追放されてしまった。
第一の后は、計略通りことがなされたことを大いに喜んだ。
その後、数か月経ってから大王は他所に御行して逍遥(ショウヨウ・気晴らしにそぞろ歩くこと。)なさることがあった。
園でお遊びになられたが、林の中に女がいた。何か子細がありそうな様子である。召し寄せて見てみると、追放した第二の后であった。
大王は、たちまち哀れみの心がわいてきて、猪の子を出産した時のいきさつをお訊ねになられると、第二の后は、私は何一つ過ちなど犯しておりません、何とか事の真実を大王のお耳に入れたいと思っていましたが、このように直接にお訊ねいただけたと喜んで、実際に起きたことを申し上げると、大王は、「我は、過って后を罪にしてしまった。また、金色の御子が生まれていたのに、他の后共の計略で殺されてしまったのだ」と誤解を解いて、第二の后を召し還して宮殿に帰り、もとのように后とした。
第二の后を除く八万四千の后を、罪を犯した者も犯していない者も、そのすべてを怒りの心を起こして殺してしまった。
その後、よくよく思案するに、「何とこの罪は重いことか。地獄に堕ちる報いをどうすれば免れることが出来るだろうか」と思い嘆いて、近護という羅漢の比丘(ラカンノビク・最高位の修業過程である阿羅漢果を修得している僧。阿育王の師僧。)に大王はこの事を相談された。
羅漢は申し上げた。「まことにこの罪は重く、免れがたいと思われます。但し、后一人に一つの塔を充てて、八万四千の塔を建立なさいませ。そうすることだけが、地獄の苦から免れることが出来るでしょう。塔を建てる功徳は、ただ戯れに石を積み木を彫っただけでさえ、人智の及ばない不可思議なご利益があります。いわんや、法の定める通りにその数の塔を建立なされば、罪を免れることは疑いありません」と。
そこで大王は、国内に勅命を下して、閻浮提(エンブダイ・古代インド的、仏教的宇宙観で、須弥山の南方洋上にある大島で、我々の住む世界とされる。)の内に八万四千の塔を一気にお建てになった。それに仏舎利(ブッシャリ・仏の遺骨。)を安置していないことを嘆かれていると、一人の大臣が申し上げた。「仏が涅槃にお入りになられた後、舎利を分けられましたが、大王の父の王(年代が合わず、祖父という説もあるらしい。)が得られるはずの舎利を難陀竜王(ナンダリュウオウ・仏法守護の八大竜王の一人。)がやって来て奪い取り、竜宮に安置しています。速やかに彼を訪ねて返却させ、この塔に安置なさるべきです」と。
そこで大王は、「我は、諸々の鬼神(仏教守護の善鬼)ならびに夜叉神(ヤシャジン・もとは古代インドの神話伝説上の悪鬼。仏教に取り込まれて、仏法守護となった。)などを召して、鉄(クロガネ)の網を以て海の底の多くの竜を捕らえれば、きっと舎利を得ることが出来るだろう」と思われて、鬼神・夜叉神などを召してこの計画を決定して、すぐに鬼神に鉄の網を造らせて曳かせようとされたので、竜王は大いに恐れおののいて、大王が寝ておられる間に竜王がやって来て竜宮に招いた。
大王は竜王と共に船に乗り、多くの鬼神等を連れて竜宮に行かれた。竜王は大王を迎えて、「舎利を分けた時、八国の王が集まり、四衆(四部の衆、と同じ。仏教教団を構成する四種の要員で、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の総称。)が相談して、罪を除くために得た舎利です。もし大王が、私と同じように恭敬しなければ、きっと罪を得られることでしょう。私は、水晶の塔を建てて心をこめて恭敬いたします」と言った。
大王は舎利を得て本国に帰り、八万四千の塔のすべてに安置して礼拝なされた時、舎利は光を放ちなされた、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
眼を失った太子 ・ 今昔物語 ( 4 - 4 )
今は昔、
天竺に阿育王(アイクオウ・前話に登場)と申す大王がおいでになった。一人の太子がいた。名を拘那羅(クナラ)という。姿形は端正にして生まれつき心が正しく素直であった。すべての面において、人に勝っていた。それゆえ、父の大王はたいそう寵愛なさった。
この太子は、前の后の子である。今の后は継母にあたることになる。
そして、この后は太子の様子を見て愛欲の心を起こし、他の事を考えることがなかった。この后の名は、帝尸羅叉(タイシラシャ・阿育王の第一夫人とも。)という。
后は、この事を思い悩み、愛欲の心を抑えきれず、ついに人目のない時を見計らって、太子がおいでになる所に密かに近寄り、太子に突然取りすがり抱きしめようとした。太子にはそうした思いはなく、驚いて逃げ去った。
后は大いに怨みを抱いて、気持ちが落ち着くのを待って大王に申し上げた。「あの太子は私に懸想しています。大王さま、速やかに太子の邪心を察知いただき、太子を戒めてください」と。
大王はこれを聞いて、「これはきっと后の讒言(ザンゲン)に違いない」と思った。
大王は密かに太子を呼んで仰せになられた。「そなたが同じ宮殿にいると、何かと不都合なことが起こるだろう。一つの国をそなたに与えよう。その国に行って住み、わが宣旨に従うがよい。たとえ宣旨があっても、我が歯印(シイン・古代インドでは、歯型をつけて印章に代わる証とした。)の無いものは信用してはならない」と言って、徳叉尸羅国(トクシャシラコク・現在のパキスタン北部にあたり、大王のマガタ国から見て遥かに遠い僻地にあたる。)という遠い所に送り出した。
太子はその国に住んでいたが、継母の后は遠くの太子の事を思うにつけ極めて心が穏やかでなくなり、企んだことは、大王に気持ちよく酒を飲ませ、大いに酔って寝ている間に、こっそりと大王の歯形を取った。その後、太子が住んでいる徳叉尸羅国へ偽りの宣旨を下し、「速やかに太子の二つの眼(マナコ)をえぐり出して捨て、太子を国境の外に追放せよ」と、使者を差し向けた。
使者はその国に行き着いて、宣旨を与えた。太子はこの宣旨をご覧になって、「自分の二つの眼をえぐり出して捨て、自分を追放せよ」とある。まぎれもなく大王の歯印があるので、偽物とは思えない。大いに歎き悲しんだが、「自分は父の宣旨に背くことは出来ない」と言って、すぐに旃茶羅(センダラ・古代インドの最下層民)を召して、泣く泣く二つの眼をえぐり出して捨てた。その間、城内の人は皆これを見て、悲しみに泣かない者はいなかった。
その後、太子は宮城を出て、道に迷ってしまった。妻だけを連れて、彼女を道案内にあてどもなくさ迷い歩いた。他に従う者は一人もいなかった。父の大王は、この事を全く知らなかった。
やがて太子は、いつの間にか父王の宮城に迷い着いた。どこだとも分からず、象の畜舎に立ち寄ったところ、そこにいた人が、女に連れられた一人の盲人を見つけた。長い間流浪してきているので、疲れた様子で顔かたちも衰えていたので、見つけた宮人には、とても太子とは見分けることなど出来ず、象の畜舎に泊まらせた。
夜になると、その盲人は琴を弾いた。大王は高楼に登られていて、かすかにこの琴の音をお聞きになられ、我が子の拘那羅太子が弾く琴に似ているように思われた。そこで使いを遣わして、「あの琴の音は、どこの何者が弾いているものか」と訊ねられると、使いは象の畜舎を探し当てて見てみると、一人の盲人が琴を弾いている。妻を連れていた。
使いは、「何者がここにいるのか」と問へば、盲人は、「私は、阿育大王の子である拘那羅太子です。徳叉尸羅国におりました時、父の大王の宣旨によって、二つの眼をえぐり取って捨て、国外に追い出されましたので、このように迷い歩いております」と答えた。
使いは驚き、急いで戻ってこの由を申し上げた。大王はそれをお聞きになって、たいそう驚き心を乱して、盲人を召して事の次第を訊ねられると、使いの報告通りを語った。
大王は、これは何もかも継母の后の為せる所業と思って、すぐさま后を罰しようとしたが、太子は言葉を尽くして処罰をお止めした。
大王は泣き悲しんだ。そして、菩提樹の繁茂した寺にクシャ大羅漢と申される高僧がおり、その人は三明六通(阿羅漢果を修得した聖人が身につけているとされる超能力。)を修得していて、人々を利益(リヤク・慈悲を垂れて衆生を救済すること。)すること仏の如くと言われていたが、大王はその大羅漢を請じて申された。「願わくば聖人。慈悲を以て我が子拘那羅太子の眼をもとのように得させ給え」と、泣き泣き申し上げると、大羅漢は「私が妙法(優れた教法)を説きましょう。国内の人ことごとく来てこれを聞くべきです。それぞれが器を一つ持ってきて、法を聞いて、その貴さに泣いて流した涙をその器に受けて、それでもって眼を洗えば、もとのようになるでしょう」と申されたので、大王は宣旨を下して、国の人を集めた。
遠くから、あるいは近くから、人の集まること雲の如くであった。
すると大羅漢は、十二因縁(人間苦の根源となる十二の条件で、それを断つことによって苦悩を滅し、解脱を得るとされるもの。)の法を説いた。集まってきている人々は、法を聞いて皆が貴び泣かない者はいなかった。その涙を持参した器に受け集めて、金の盤(皿状の器か?)に集めた。大羅漢は誓いを立てて言った。「およそ私が説くところの法は、諸仏の究極の真理であります。もしそうではなく、説くところに誤りがあるならば、太子の眼は本復できますまい。もし真実であれば、願わくば、この多くの人々の涙を以て太子の盲したる眼を洗えば、明らかになって、もとのように見ることが出来るであろう」と。
このように誓願を立てて、涙で眼を洗うと、眼が現れて明らかになり、もとのようになった。
その時大王は、頭を垂れて大羅漢を礼拝して喜ばれること限りなかった。
その後、大王は大臣・百官を召して、ある者は免職にし、ある者は罪なきゆえに許し、ある者は国外に追放し、ある者は命を断った。
この太子の眼をえぐり出した所は、徳叉尸羅国の外の東南の山の北側である。その所には、卒塔婆(ソトバ・仏塔)を立てた。高さ十丈余である。
その後、国に盲人あれば、この卒塔婆に祈請すれば、みな眼が明らかになり、もとのようになることが出来た、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
地獄に入るべき者 ・ 今昔物語 ( 4 - 5 )
今は昔、
天竺に阿育王と申す王がいた。その王は、地獄(地獄を模した牢獄らしい)を造って国内の罪人を入れた。その地獄の近くを通る人は、無事に帰ることは無く、必ず地獄に入れられた。
そうした頃、修行を積んだ聖人がいた。名を[ 欠字ある。他の文献によると「為海]らしい。]という。
その聖人が、その地獄を見るために地獄までやって来た。そこには獄卒(ゴクソツ・牢役人)がいたが、聖人を捕らえて地獄に入れようとしたが、聖人が言った。「私は何も罪を犯していない。どういう理由でこの地獄に入れようというのか」と。
獄卒が答えた。「国王の宣旨が下されていて、『この地獄にやって来る者があれば、貴賤・上下・僧俗を問わず、この地獄に入れるべし』という宣旨を頂戴しているので、入れるのである」と言って、聖人を捕まえて地獄の釜の中に投げ入れた。
すると、その地獄の釜は逆に清浄の蓮の咲く池となった。獄卒はそれを見て驚き、その様子を大王に申し上げた。
王はそれを聞いて、驚き尊んで、自ら地獄の所に行き、その聖人を礼拝した。
その時に獄卒は大王に申し上げた。「前に宣旨を下されましたた時、地獄の辺りにやって来る人は、上下を問わず地獄に入れるべしとあります。王も地獄にお入り下さい」と。
王が答えた。「我、宣旨を下した時、王は除くという宣旨を下さなかった。いかにもお前の言うことはもっともだ。但し、獄卒を除けという宣旨も下しておらぬ。されば、まずお前が地獄に入るべきだ」と言って、獄卒を地獄に投げ入れて、お帰りになった。
その後、無益なことであるとして、地獄を壊された、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
煩悩抑えがたし ・ 今昔物語 ( 4 - 6 )
今は昔、
天竺において仏(釈迦)が涅槃に入られた後百年ばかり経った頃、優婆崛多(ウバクッタ)という証果の羅漢(ショウカノラカン・原始仏教における最高の修業階位である阿羅漢果を証した聖者。)がいらっしゃった。
その弟子に一人の比丘がいた。優婆崛多はその弟子を、どういう本心を見抜いたのか、常に叱責して、「お前はまだ女に近付いてはならない。女に近付くことは、生死に廻ること車の輪の廻るが如し(煩悩による輪廻転生を車輪の回転に例える常套的表現)」と言った。このように、常に事あるごとに言っていた。
弟子は申し上げた。「師僧ではございますが、この私をどのように見ておられるのでしょうか。私はすでに阿羅漢果を証した身です。およそ女犯を犯すことなどからは永く離れていることです」と、まことに立派な口をきいた。他の御弟子たちも、「たいそう尊いお方に、何故厳しいことを仰せなのか不思議なことだ」と皆思っていた。
このように、常に叱責されていたが、この御弟子の比丘が、少しぱかり他行することになって、ある河を渡ろうとした時、若い女性がいたが、再びその河を渡る時には、女は河の深い所に移っていて、今にも流されそうになっていた。
女は、「そこにおいでの御坊、私をお助け下さい」と言った。比丘は聞き入れまいと思ったが、今すぐにも流されそうなので気の毒になり、近くに寄って女の手を取って引き上げた。女の手はふくよかで柔らかく、それを握っていたが陸に引き上げたあとも、なお握っている手を放そうとしない。
女は、「もう放してもよいのに、帰ろう」と思ったが、いつまでも握っているので、女は怪しく思っていると、比丘は、「しかるべき因縁なのでしょうか。お慕わしく思います。私の思いをお聞き入れくださいませんか」と言った。女は、「流されてすでに死ぬべき身をお会いできて助けていただきました。命があるのは、ひとえにあなたさまのおかげです。ですから、あなたの申されることをどうしてお断りすることが出来ましょうか」と答えた。
比丘は、「私の望みは、他でもない、こういうことです」と言って、薄や萩が生い茂っている藪の中に、手を取って引き入れた。
人目につかないような繁った所に引っ張ってきて、女の衣服の前を掻き上げて、自分の衣服の前も掻き上げて、女の股に交わって、もしや誰か偶然見ていないかと気になって、後ろを見返るも誰もいないので安心して、振り返って前を見てみると、師の優婆崛多が仰向けになっていた。その師が比丘を股に挟んで横たわっている。顔を見ると、にこにこと笑っていて、「八十余になる老法師を、どういう理由で愛欲を起こしこのようなことをするのか。これでも、愛欲を断ち切った者のすることか」と仰せられると、比丘は、まったく正気も消し飛んで逃げようとしたが、師僧は足でもって強く挟んだまま放そうとせず、「お前は愛欲の心を起こしてこのようなことをした。速やかに我を犯すがよい。そうしなければ許さないぞ。どうして我を欺くのか」と言って、大きな声で罵った。
すると、道行く人が大勢この声を聞き、驚いて近寄って見ると、老僧の股に別の僧が挟まっている。
老比丘は、「この比丘は私の弟子である。八十歳にもなる師を犯そうとて、この比丘は私をこのような藪の中に引き入れたのです」と言うと、見ている大勢の人は、怪しみ罵ること限りなかった。多くの人に見せ終った後、優婆崛多は起き上がり、この弟子の比丘を捕まえて大寺に連れて行った。
鐘をついて寺の大衆(ダイシュウ・比丘の集団)を集められた。多くの大衆が集まると、優婆崛多はこの弟子の比丘の所行を詳しく語った。大衆はそれぞれこれを聞いて、あざけり笑って罵ること限りなかった。
弟子の比丘はこれを見聞きするに、恥ずかしく悲しく思うこと限りなかった。身が砕かれるようであった。そして、この事を心から深く懺悔した時、たちまちのうちに阿那含果(アナゴンカ・修業階位で、阿羅漢果の次の階位。文献によっては、阿羅漢果を得たとなっているらしい。)を得た。
優婆崛多は弟子を方便を用いて仏道に導かれること、仏と異ならない、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
釈迦の思い出 ・ 今昔物語 ( 4 - 7 )
今は昔、
天竺に優婆崛多(ウバクツタ・前話に登場。衆生を教化するのに優れていたとされる。)という阿羅漢果(アラカンカ・原始仏教における最高の修業階位。)を修得した聖人がいた。仏(釈迦)が涅槃に入られてから後の人なので、仏の生前の御様子を恋しく思われて、「仏に直接お会いしたことのある人は、今でも生きているのだろうか」と尋ねられていると、ある人に、「波斯匿王(ハシノクオウ・釈迦と同時代の舎衛国王)の御妹は、百十余歳で健在です。幼少の時、仏にお会いされた人は、ただこの人だけです」と教えられた。
優婆崛多はこれを教えられて、大変喜び、その尼の御許に参られた。その家へ行き、お会いすべく取次させた。尼に呼び入れられると、戸の脇に杯(ツキ・素焼きの容器。鉢のようなものか?)に油を山盛りに入れて置いていた。優婆崛多はお会いできる嬉しさに急いで入ると、裳の裾がその油の杯に引っかかった。その時、油はほんの少しばかりこぼれた。
尼は優婆崛多に会うと尋ねた。「何の用事でおいでになられたのでしょう」と。
優婆崛多は答えた。「参りましたのは、仏のご生前の様子を大変恋しく思っておりまして、そのことをお聞きいたしたくて参りました」と。
尼は、「悲しいことでございます。仏が涅槃に入られてから、僅かに百年ばかり経っただけですが、その間に、仏法の衰えること、あまりにも甚だしいものです。仏がおいでであった頃、たいそう無作法で物に狂ったような御弟子が一人おりました。名は鹿郡比丘(ロクグンビク・正しくは六群比丘で、釈迦在世中にいた悪名の高かった六人の比丘の事で、これを固有名詞と謝り、人名としたものらしい。)と言いました。仏は常に彼を叱責し、破門にしてしまいました。ところで、あなたは何とも言えないほど貴く、戒律を保ち威厳ある立ち居振る舞いはおありですが、そこの戸の脇に置いてある油を、御裳の裾に引っかかって少しばかりこぼされました。仏在世の時には、物に狂ったような御弟子がおりましたが、決してそのような粗相をすることはありませんでした。この事から察しますと、仏がおわしました時代と、この頃を比べますと、思いの外ひどくなっているのでしょう」と言った。
これを聞いて、優婆崛多は大変恥ずかしく、身が砕かれる思いであった。
その後、尼はさらに話した。「私の親の許に仏がおいでになりましたが、すぐにお帰りになりました。その頃、私はまだ幼かったのですが、差していた金の簪(カンザシ)が無くなってしまいました。捜し回りましたが見つけることが出来ませんでした。仏がお帰りになって七日が過ぎた時、寝ていた床の上にこの簪がありました。不思議に思って調べてみますと、仏から放たれた金色の光はお帰りになってのち七日間留まっていたので、その金の簪はその御光に打ち消されて見えなくなっていたのです。八日目の朝、御光が失せて後に簪を見つけることが出来たのです。つまり、仏の御光は、おわします所に七日間留まって輝くのです。このような事を、かすかに覚えております。それ以外の事は、幼い時のことなので覚えておりません」と。
尼がこのように語るのを聞いて、優婆崛多は涙を流し、何とも言えないほど感動してお帰りになった、
となむ語り伝へたるとや。
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高僧と天魔 ・ 今昔物語 ( 4 - 8 )
今は昔、
天竺に優婆崛多(ウバタツタ)という阿羅漢果(アラカンカ・原始仏教における最高の修業階位)を修得した聖人がいた。人を利益(リヤク・慈悲を垂れて衆生を救済すること。)することは仏のようであった。法を説いて多くの人を教化なさった。世間の人はやって来て説法を聞くと、皆利益を授かって罪から救われた。それゆえ、世間の人はこぞって群がり集まること限りなかった。
ある時、説法の場所に一人の女がやって来た。容姿端正にしてその様子の美しいこと並ぶ者がないほどである。すると、その場所にいた説法を聞きに来ていた人々は、皆この女の美しさに惹かれて、たちまち愛欲の心を起こして、法を聞く妨げとなった。
優婆崛多はこの女を見て、「この者は天魔で、法を聞いて利益を得ようとする人を妨げようとして、美しい女に変化してやって来たのだ」と見破られて、女を呼び寄せられると、女はやって来た。優婆崛多は花鬘(カマン・生花を紐に通して作った首飾り。)をもって女の首に打ち懸けた。
女は、「花鬘だ」と思って、立ち去って行くのを見ると、花と見えた物は、諸々の人や馬や牛などの骨を貫いて首に懸けており、臭くて気味が悪いことこの上ない。
その時、女はもとの天魔の姿になって花鬘を取り棄てようとしたが、どうしても取り棄てることが出来なかった。あちらへこちらへと走り回ったが、どうすることもできない。説法を聞きに来ていた人々は、これを見て不思議なことだと思った。
天魔は困惑してしまい、大自在天(ダイジザイテン)という天魔の首領の所に昇ってこの事を嘆いた。そして、「これを取ってください」と願った。大自在天はそれを見て、「これは仏弟子の仕業であろう。我では絶対に取ることが出来ない。ただ一つの方法は、それを懸けた者に、『取ってください』と頼むしかない」と言ったので、言われるにしたがって、また優婆崛多のもとにやって来て手を摺り合わせて、「我は愚かでした。説法を聞く人を妨げようと思って、女の姿になってやって来たことを悔い悲しんでいます。これより後は、決してこのような心は起こしません。願わくば聖人、これを取り除いてください」とお願いすると、優婆崛多は、「お前はこれより後、法を妨げることはあるまい。速やかに取ってやろう」と言って、取り去ってやった。
天魔は喜んで、「このお礼をどのようにして成せばよろしいのでしょうか」と言うと、優婆崛多は、「お前は、仏の御姿を見奉ったことがあるのか」と尋ねた。天魔は、「ございます」と答えた。優婆崛多は、「私は仏の生前のご様子を知りたいと請い願っている。されば、仏の御有様をまねて私に見せてくれないか」と言った。
天魔は、「まねすることは簡単なことですが、それを見て礼拝なさるならば、我にはとてもつらいことです」と言った。優婆崛多は、「私は決して礼拝せぬことにしよう。だから、まねをして見せてくれ」と強く言われるので、天魔は、「決して礼拝されないように」と言って、林の中に姿を消した。
しばらくすると、林の中から歩み出てくる姿を見ると、身の丈は丈六(一丈六尺。正しい長さは諸説あるようだが、人の身長の二倍にあたるらしい。)、頭の頂上は紺青(コンジョウ)の色である。身の色は金(コガネ)の色である。光は日の出の陽光のようである。優婆崛多はその姿を見奉ると、決して礼拝しないと思っていたが、有難さに思わず涙を落とし、伏して声を挙げて泣いた。
すると、天魔はもとの姿に戻った。首には、諸々の骨を貫いたものを懸けていて、それを瓔珞(ヨウラク・古代インドの装身具で、金銀や貴石などを紐に通した首飾りや胸飾り。)にしていた。
そして、「だから申し上げておりましたのに」と言って嘆いた。
こうして、優婆崛多は天魔を服従させ、衆生に利益をもたらせること仏と変わらなかった、
となむ語り伝へたるとや。
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