雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

正念場

2020-02-07 18:47:26 | 日々これ好日

        『 正念場 』

     大型クルーズ船
     乗員乗客の 新型コロナウイルス感染者は
     大幅に増えて 61人に達した
     それ以外の 船内での待機を余儀なくされている人々への
     対処方法については 専門家の間でも 意見が分かれているようだ
     中国での感染者数は 増加が続いているが
     一方で 治療薬や検査薬のニュースも チラホラ聞かれ始めた
     ここ数日が 正念場のような予感がする

                        ☆☆☆

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萌え出づる春

2020-02-07 08:12:08 | 新古今和歌集を楽しむ

     岩そそく 垂水の上の さ蕨の
             萌え出づる春に なりにけるかな

                   作者  志貴皇子

( No.32  巻第一 春歌上 )
           いわそそく たるみのうえの さわらびの
                     もえいづるはるに なりにけるかな

* 作者は、第三十八代天智天皇の皇子である。( ?? - 716 ) 成年が不詳であり、享年も分からない。

* 歌意は、「 岩に流れ注ぐ 滝のほとりの さ蕨が 新芽を出す春に なったのだなあ 」といった新春を慶ぶ歌であろう。
この和歌は、万葉集から引用されたものであるが、万葉集では、第一句は「石走る」となっている。

* 作者 志貴皇子の父天智天皇は、中大兄皇子という名前でも知られる、歴史上よく知られた人物である。乙巳の変(大化の改新)や、死後に勃発した壬申の乱など、この天皇をめぐる出来事は、古代史の中核の一つであろう。
天智天皇には、多くの妃や夫人がおり、皇子や皇女も数多く、後世に伝えられている人だけでも相当の数である。
志貴皇子は天智天皇の第七皇子とされているが、正確な皇子の順位は分からず、生年も不明である。母は道君伊羅都売と伝えられているので、おそらく、道君氏という豪族の娘であったらしい。

* 天智天皇が崩御したのは、671年12月のことであるが、その後を継いだ天智天皇の第一皇子である大友皇子(弘文天皇。ただし、正式に即位していた可能性は低いようだ。)と、天智天皇の弟とされる大海人皇子(天武天皇)との間で壬申の乱と呼ばれる大戦が起こり、大海人皇子方が大勝し、天武天皇・持統天皇系による王朝が100年余にわたって続くことになる。
大友皇子は壬申の乱で敗死し、天智天皇の王朝は壊滅したが、天智天皇の皇子や皇女は天武王朝の中にも色濃く溶け込んでいる。天武天皇の皇后として、その後継者としてこの王朝の中核的な働きをしたと考えられる持統天皇は天智天皇の皇女であり、次々代の元明天皇も同様である。

* 天武王朝の基盤が固まったと思われるころ、679年(天武天皇8年)吉野に行幸した天武天皇は、皇后(持統天皇)と共に天武・天智の皇子六人を集めて、皇位継承による争いを起こさないよう結束を誓わせた。「吉野の盟約」あるいは「吉野の誓い」といわれるものである。
この六人の皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴の六人であるが、このうち川島と志貴の二人は天智の皇子であとの四人は天武の皇子である。そして、持統天皇所生の皇子は草壁だけである。

* 皇位継承という点では、持統天皇のわが子草壁への執着は極めて強かったようで、草壁の早世という不幸がありながらも、その方向で王朝の継承はされていった。天武系に比べて天智系が劣勢であったことは確かであるが、皇位継承ということ以外においては、皇族としてそれなりの処遇を受けていたようである。
ただ、志貴皇子に関しては、分からないことが多い。実は、志貴皇子の動静が記録されたのは、「吉野の盟約」が最初のことなのである。それ以前、特に王朝が二分されたような戦いといえる壬申の乱に志貴皇子の記録は残されていないのである。
その理由としては、おそらく、天智天皇の晩年の子で、まだ幼かったということが一番可能性が高いように思われる。

* しかし、「吉野の盟約」から六年後の685年、天武天皇は新たに冠位四十八階を制定したが、他の皇子たちがいずれも叙位されているが、志貴皇子の名前は記録されていないのである。
志貴皇子が天智天皇の没年の年の誕生だとしても、685年には十五歳であり、当時としては冠位を受けるに十分な年齢のはずなのである。とすれば、もっと他の理由があったのかもしれない。
いずれにしても、天武天皇・持統天皇のもとでは、目だった官職にはついていないようである。

* ただ、封戸200戸を与えられているし職務にも就いているようなので、追放されたとか失脚したということでもなかったらしい。
持統天皇の譲位により即位したのは、亡き草壁皇子の皇子の軽皇子(文武天皇)であるが、この天皇も二十五歳という若さで薨去している。
文武天皇の御代の701年に志貴皇子は四品(親王・内親王に与えられる位階で、一品から四品まである。)に除せられ、ようやく皇族らしい冠位を得たようである。
文武天皇の薨去を受けて即位したのは、文武天皇の母であり、草壁皇子の妻であり、天智天皇の皇女である元明天皇であった。つまり、志貴皇子の異母姉にあたる皇女でもあった。
元明天皇が即位した翌年には、三品に昇進し、715年には二品に昇っている。おそらく、元明天皇が同じ父を持つ志貴皇子を頼みとしたものと推定できるが、志貴皇子のそれまでの生き方が信頼に足るものであったと考えられる。

* 志貴皇子は、二品を受けた翌年の716年8月に崩御した。
天皇の信頼を受けて、少なくとも元明朝は、志貴皇子にとって穏やかな年月であったと思われる。しかし、皇位ということになれば、元明天皇の次の四十四代から四十八代までは天武天皇系の皇子・皇女が就いていて、天智系の志貴皇子は忘れ去られたような存在になっていった。

* しかし、時代は大きく変転する。
770年8月、第四十八代称徳天皇が崩御すると、天武系の皇族は絶滅状態となる。そこで、次期天皇として白羽の矢が立ったのは、志貴皇子の子である白壁王であった。
実に、志貴皇子が崩御して五十四年後のことで、白壁王も六十二歳になっていた。
白壁王が第四十九代光仁天皇として即位すると、志貴皇子には「春日宮御宇天皇」の追号が贈られている。そして、これにより皇統は天武系から天智系に移り、以後、桓武天皇以下現在にまでつながっているのである。

     ☆   ☆   ☆


 

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