雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

医療関係者に感謝

2020-05-01 18:49:08 | 日々これ好日

        『 医療関係者に感謝 』

     今日 多くのテレビ局で
     医療現場の状況や 医療崩壊の可能性等について 報道されていた
     世界中で 医療関係者への 感謝を表すキャンペーンなどが行われているが
     わが国とて 感謝の気持ちは同じだ
     しかし 残念ながら 未だにマスクや防護服さえ不足している状態が続いている
     人員の確保などは簡単なことではないとして
     医療器具など その気になれば出来ないはずがない と思う
     10万円頂けるのはありがたいが 
     医療関係の予算が不足しているのではないのだろうか
     腹立たしさのようなものを感じるが
     せめて 私たちでも出来る 『絶対に 誰にも感染させない行動を』
     励行しましょうよ

                      ☆☆☆

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夢になしてよ

2020-05-01 08:05:00 | 新古今和歌集を楽しむ

     頼め置かん たださばかりを 契りにて
                憂き世の中の 夢になしてよ

                作者  藤原定家朝臣母

( No.1233  巻第十三 恋歌三 )
     たのめおかん たださばかりを ちぎりにて
                 うきよのなかの ゆめになしてよ


* 作者は、平安時代末期の女房、歌人。( 1124 ? - 1193 )享年七十歳位か。

* 歌意は、「 後世を約束してあてにさせておきましょう ただそれだけのことを縁として これまでのことは 辛い現世の儚い夢と思って あきらめてしまってください 」といったもので、求愛を拒絶する歌と思われる。

* この歌の前書きには、「返し」となっているので、贈答歌に対する返歌であることが分かる。
新古今和歌集には、この和歌の前に、「女に遣わしける」として、「皇太后宮大夫俊成」の和歌が載せられている。
 『 よしさらば 後の世とだに 頼め置け つらさにたへぬ 身ともこそなれ 』
 ( 仕方がない どうしても逢えないというのであれば 後の世で逢おうとでも約束して あてにさせてください あなたの冷淡さに堪えかねて 死んでしまう身になるかもしれないのです 」といった、熱烈な歌である。

* 作者は、当代随一ともいえる藤原定家の生母であるが、名前は伝えられていない。ただ、若い頃は「美福門院加賀」と呼ばれていたらしく、晩年には「五条局」と呼ばれていたようである。
父は、若狭守などを勤めた藤原親忠なので、いわゆる受領クラスの中級貴族の家柄といえる。しかし、親忠は、藤原北家に属し、祖先を辿れば藤原道長に繋がり、子孫を辿るとすれば今上天皇にまで繋がる家柄なのである。  
母も、美福門院(鳥羽天皇の皇后、藤原得子。)の乳母を勤めているので、作者も、生涯にわたって、内裏に近い辺りで暮らしていたと考えられる。

* 作者は、はじめ美福門院の女房として仕えているが、おそらく母の関係からのものであろう。
そして、皇后宮少進の藤原為経(従五位下)の妻となり、1142年に隆信を生んだ。まだ二十歳になるかならないかの頃のことであろう。しかし、この結婚は、1143年に為経が出家したため破綻する。
やがて、隆信を連れて藤原俊成と再婚し、1155年に成家、1162年に定家らを生んでいる。
掲題の和歌は、この再婚に至る間のことなのであろう。

* 再婚した藤原俊成は、作者より十歳ほど年長と思われる。中納言藤原俊忠の子として生まれたが、十歳の頃に父を亡くし、義兄の養子になっている。そのこともあって、宮廷での昇進はおそく、1166年、五十三歳にして従三位に昇り、公卿の仲間入りしている。押しも押されもせぬ上級貴族となったが、彼の家柄、実績からすれば、順調な昇進とはいえまい。
しかしその一方で、一流の文化人として、特に和歌に関しては、子の定家らと共に御子左家は歌壇の中心的な存在を築いているのである。

* 作者自身も、「藤原定家朝臣の母」あるいは「美福門院加賀」の名前で幾つかの和歌を今に伝えているが、歌人としてそれほどの評価を得ていたわけではないようである。彼女の存在感は、俊成という超一流の文化人の妻として、また、先夫の子ならびに俊成との間に生した子、さらには養子などの養育・後見に大きな力があったと思われるのである。
晩年にも、五条局として美福門院の娘に仕えているので、内裏に近い辺りでの生活を続けていたと考えられ、御子左家流の歌壇の繁栄にも少なからぬ貢献があったと考えられるのである。

* 現在もなお多くの人に親しまれている「小倉百人一首」を生み出したのは藤原定家とされているが、この逸材の誕生の陰には、掲題にあるように、作者・美福門院加賀と藤原俊成の生きるの死ぬのというほどの男女関係を乗り越えた結果だと想像すれば、この作者の歴史上の人物としての評価はもっともっと注目されるべきのように思うのである。

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