『 頼もしい限り 』
テレビで 星野リゾート代表のインタビューを
お聞きする機会があった
新型コロナウイルスによる営業被害が
最も厳しい ホテル業界にあって
18か月を単位として 対処を考えているとの話など
ホテル業界・観光業界について 力強い構想を述べられていた
わが国は 大丈夫だ
政府には 厳しい人や業界への 手厚い施策の実行を願うが
逞しく 将来を見つめている人や企業は 沢山いらっしゃる
頼もしい限りだ
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やよ時雨 もの思ふ袖の なかりせば
木の葉ののちに 何を染めまし
作者 前大僧正慈円
( No.580 巻第六 冬歌 )
やよしぐれ ものおもふそでの なかりせば
このはののちに なにをそめまし
* 作者は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した天台宗の僧、歌人。( 1155 - 1225 )行年七十一歳。
* 歌意は、「 なあ時雨よ 物を思い紅涙に染まる袖が 無ければ 木の葉ののちに なにを染めようというのか 」といったものであろう。
* 作者 慈円(ジエン)は、新古今和歌集に92首採録されていて、西行に次ぐ第二位の多さである。本稿でも複数回取り上げている。
慈円が生きた時代は、平安時代から鎌倉時代へと移り行く真っただ中にあった。鎌倉時代の始まりについては諸説があるようだが、1185年とした場合、慈円は、平安時代に30年、鎌倉時代に40年生きたと人物というとになる。もちろん、時代区分が変わったからといって何もかもが一変するわけではあるまいが、平安時代と鎌倉時代の間には、後世から見た学術的な区分であるが、それは、古代から中世への移行であり、公家中心の政権から武士中心の政権への移行という大変革の時代であったことになる。
* そうした激しい時代に生きた慈円を一人の高僧としてとらえ、和歌の上手としてとらえるとすれば、慈円という人物を見間違うような気がするのである。
新古今和歌集に最も多く採録されているのは西行(94首)で、二位が慈円である。慈円が生きた時代が先に述べたように激しい時代であるのと同様に、新古今和歌集が編まれた時代も同様の背景を背負っており、編纂を命じた後鳥羽院も波乱の生涯を送っている。
そうした時代の和歌集の代表的歌人として、西行、慈円という僧籍にある人物が一位、二位を占めているのは、どういう理由からかと考え始めると、興味も疑問も深まるばかりである。
* この二人が上位に選ばれた理由が、単に抜群に歌を詠む能力が高かったからだとすれば、何の疑問の余地もないことになるが、本当にそうであったのだろうか。
もちろん筆者には、和歌の技量を判定する力などあるはずがないが、そう断定するほどの資料は残されていないように思われる。
和歌(長歌などを含めたわが国の歌全般)や言葉に、特別な力を感じ、それを生み出す人物に対する畏敬は、大和時代より低下しているとはいえ、この時代においても、和歌は上流社会における教養の重要な地位を占めており、新古今和歌集の採録和歌数が上位の人物を見ても、皇族、貴族、宮廷女房に限られていて、そこに僧籍の人物が加わっている構図になっていて、僧籍の者、特に高僧は中央政権に極めて近い辺りに位置していたように思われるのである。
* 慈円は、幼い時に青蓮院に入寺し以後僧籍にあって大僧正まで上り詰めた人物である。決して形式だけの僧侶ではない。しかし、その出自を重ねてみると、少し違うものが見えてくる。
慈円は、摂政・関白を勤めた藤原忠通の十一男として生まれた。当時の上級貴族が複数の妻妾を持つのは普通であり、多くの子を設けるのも珍しくない。慈円も、母の違う兄弟姉妹となれば、全員を知っていたのかどうかと思われるほど多かったようだ。貴族の子が僧籍に入ることは珍しい事ではなく、慈円の場合も、十一男ともなれば、「出家でもさせるか」といった光景が浮かんでくるが、それは、少し違うようにも感じられる。
* 忠通は、藤原北家の本流に生まれ、公家政治の全盛期は過ぎつつあったとはいえ、壮絶な権力闘争を繰り広げた人物である。父兼実・弟頼経連合との主導権争いは歴史の一ページを演出しているのである。
これは結果論かも知れないが、兼実家(九条家)の地位向上に子たちの存在が大きな力になっている。
四男の基道は近衛家の祖であり、九条家を継いだ六男兼実から一条家・二条家が誕生しているのである。また、次男の覚忠は第五十世天台座主に就いており、九男の信円は第四十四代興福寺別当になっている。
そう考えれば、慈円の出家は、決して「とりあえず出家でも」といった類ではなかったと考えられるのである。
* 幼くして、おそらく十歳未満で出家したと推定される慈円に、父や周囲の思惑など考慮することなどなかっただろうが、慈円は、期待以上の存在になっていった。
当時の巨大宗教組織の影響力は、武家の力がまだ未熟であったことを考えれば、精神面ばかりでなく武力面においても中央政治に与えている影響力は、一般に伝えられている以上に大きかったような気がする。
その前提に立てば、第六十二世、第六十五世、第六十九世、第七十一世と、四度にわたって天台座主に就いた慈円の存在は、単に比叡山を護るための行動とは思えないのである。
慈円は、僧籍にありながら、九条兼実の孫である道家を後見し、その子の頼経が第四代鎌倉将軍に就くにあたって、いくばくかの影響も果たしたようである。
* 新古今和歌集の和歌と歌人を紹介するのを目的とした本稿としては、いささか焦点が外れている内容となってしまったが、慈円は、もしかすると、わが国が、古代から中世へ、公家政治から武家政治へと移っていった時代の有力な体験者の一人だったように思われるのである。
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