雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

八坂神社が国宝に

2020-10-16 19:09:13 | 日々これ好日

       『 八坂神社が国宝に 』

    京都の八坂神社本殿が 国宝に指定されたとのニュース

    国宝が満ち溢れているような京都で
    八坂神社が 国宝でなかったことに むしろ驚いた
    本殿は 1654年の再建と比較的新しいため 指定が遅れたのかもしれない
    八坂神社は 「祇園さん」の名前で親しまれているが
    全国にある 祇園社や素戔嗚尊を祭神にした
    およそ2300社の 総本社とされているようだ
    知名度は すでに十分すぎるほどだが
    たいへん おめでたいことではある

                    ☆☆☆
 

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身に添へる

2020-10-16 07:59:10 | 新古今和歌集を楽しむ

     身に添へる 影とこそ見れ 秋の月
              袖にうつらぬ 折しなければ

               作者  相模 

( No.410  巻第四 秋歌上 )
         みにそへる かげとこそみれ あきのつき
                  そでにうつらぬ おりしなければ

* 作者は、平安時代中期から後期にかけての歌人である。生没年は未詳であるが、( 998? - 1061? ) と推定され、行年は六十余歳であったと推察できる。

* 歌意は、「 わたしは 自分の身に添って離れない あなたの面影だと思って見ています 秋の月が 涙で濡れた袖に映らない時などないのですから 」といったもので、藤原範永朝臣から贈られた、「 見る人の 袖をぞしぼる 秋の夜は 月にいかなる 影か添ふらん 」という和歌に対する「返し」として詠まれたものである。
新古今和歌集では、「秋歌」に仕分けられているが、むしろ「恋歌」といえよう。

* 作者の相模は、平安王朝期に活躍した女流文学者であるが、その実力が現在に十分伝えられていない一人ではないだろうか。
相模の実父は不詳であるが、養父は武勇で名高い源頼光とされる。母は能登守慶滋保章の娘なので、清少納言や紫式部などと同程度の中下級貴族である受領クラスの家柄と考えられる。

* 相模は、十代の頃に橘則長の妻となるが、比較的短い期間で離別している。因みに、則長は橘則光と清少納言の子息である。
その後、相模守大江公資と結婚し、夫の任地である相模国に同行している。「相模」の名前は、これによるものである。
ただ、この結婚も帰京後に破綻している。1025年の頃のことで、原因は夫の女性関係らしいが、相模も藤原公任の子息である定頼と恋愛関係にあったようだ。

* やがて、一条天皇の第一皇女である脩子内親王のもとに出仕した。脩子内親王の母は、若くして世を去った中宮定子( 976 - 1000 )である。
 脩子内親王(シュウシナイシンノウ・( 997 - 1049 )
)は、幼くして母を亡くしたが、父の一条天皇には大切にされ、十二歳の時に一品に叙され准三后(太后太后宮・皇太后宮・皇后宮に準じて、身分・経済的待遇が与えられた。後世では、身分だけになっていった。)の待遇が与えられ封戸も厚遇された。父の死後は宮廷の支配的立場にあった中宮彰子や藤原道長と距離を取った。終生未婚であったが、従姉妹の娘である延子を養女として後朱雀天皇に入内させ、自身も養母として同道した。

* 相模が当時一流の女流歌人として評価されるようになった要因の一つは、脩子内親王に仕えたことが大きく影響したと思われる。
脩子内親王は1049年に薨去するが、その後は後朱雀天皇の皇女祐子内親王に仕え、宮廷歌壇で活躍を続けた。
能因法師や和泉式部など著名な歌人との交流が伝えられており、また歌人たちの指導的立場であったとも伝えられている。
1061年3月の祐子内親王家名所歌合を最後に消息が途絶えており、ほどなく世を去ったものと推定される。

* まことに個人的な感想であるが、中宮定子のファンとしては、その愛娘である脩子内親王に仕えて、数多くの歌合を通してその存在を示してくれた相模に大きな拍手を送りたいような気持ちなのである。
最後に、小倉百人一首に選ばれている和歌を載せさせていただく。

『 うらみわび ほさぬ袖だに ある物を 恋にくちなむ 名こそおしけれ 』

     ☆   ☆   ☆

 

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