『 妻も子も捨てる ・ 今昔の人々 』
深草の天皇(仁明天皇)の御代、蔵人頭右近少将良峰宗貞(ヨシミネノムネサダ)という人がいた。大納言安世という人の御子である。
容姿が優れ、正直な心の持ち主であった。学識にもすぐれていたので天皇は格別に信頼し目をかけていらっしゃった。
そのため、同じように天皇の側近くに仕えている人たちから心よく思われていなかった。その時の春宮(トウグウ・東宮に同じ。道康親王で、後の文徳天皇。)は天皇の御子であられたが、宗貞を憎む人々は、事に触れて、春宮に宗貞は無礼な者だと吹き込んでいた。
天皇と春宮は親子ではあるが、春宮はしだいに宗貞を疎んじるようになっていった。
宗貞も春宮の気持ちを察してはいたが、天皇の寵愛に応えるべく、春宮とのわだかまりを気にすることなく、日夜朝暮に宮仕えを怠りなく勤めていた。
ところが、天皇は病に罹り、数か月病床にあったが、遂に崩御なさった。
宗貞は、胸の張り裂けるような思いで天皇の快気を祈っていたが、その甲斐なく失せられたので、闇に迷うような心境に陥った。そして、「この世は、幾ばくもない。いっそ法師になって、仏道を修行しよう」と思う気持ちが深まっていった。
しかし、この宗貞は、宮方の娘を妻にしていて、たいそう睦まじく通っていたが、男の子一人と女の子一人を産ませていた。「その妻には身寄りがなく、自分以外に頼りにする者がいない」ことを思えば、大変かわいそうに思い心が揺らいだが、なお出家しようとする気持ちを抑えられず、天皇の御葬送の夜の儀式が終った後、誰にも何も告げることなく行方をくらましたのである。
妻子や使用人などは泣き惑い、聞き及ぶ所の山々寺々を捜し求めたが、消息を掴むことが出来なかった。
さて、宗貞は、御葬送の明け方に、ただ一人で比叡山の横川(ヨカワ)に登り、慈覚大師が横川の北の谷にある大きな杉の木の洞に入られて、法華経を書いておいでになるところに参って、法師になられたのである。
その時、宗貞は、
『 たらちねは かかれとてしも むばたまの わが黒髪を なでずやありけむ 』
と、つぶやいたという。
その後、慈覚大師の御弟子となって仏法を学び、その後もさらに深く仏道修行を続けた。
新しい天皇が即位され、年月は流れた。
そして、ある年の十月頃、宗貞入道は笠置寺に参詣して、ただ一人拝殿の片隅に蓑を敷いて勤行をしていたが、その時、参詣にやって来た一行が見えた。
主と思われる女が一人と、女房らしい女一人、侍と思われる男一人、召使いの男女が合わせて二、三人ほどである。
宗貞入道が座っている所から二間ばかり離れて一行は座を占めた。宗貞の居る所は暗いので、そこに人がいるとも知らないで、忍び声で仏に願い事を言っているのがおおよそ聞こえてくる。
耳を澄まして聞いていると、主の女人は、「行方不明になった人の消息をお知らせ下さい」と、涙ながらに切々とお願いしている。さらに聞いていると、どうやら宗貞の妻であった人の声であることが分った。
宗貞入道は、「自分を捜し出そうと、このように祈願しているのだ」と思うと、哀れに悲しい限りである。「私はここにいる」と言ってやりたいと思ったが、「知らせて何とするのか。仏は『このような仲を断ち切れ』と返す返すお教えになっている」と思って、ひたすら堪え忍んでいるうちに、夜明け近くになった。
その詣でている一行は退出するようで、拝殿から歩き出すのを見ていると、男は、宗貞の乳母の子で武官であった者で、七、八歳ばかりの男の子を背負っている。女は四、五歳ばかりの女の子を抱いている。どちらも宗貞の子であった。
一行は、拝殿から出ると、一面にかかっている霧の中に姿を消していった。
こうして仏道修行を続けているうちに、宗貞入道の霊験は強さを増していき、病で悩んでいる人のもとに、彼の念珠や独鈷(ドクコ・金剛杵の一種)を遣わすと、病人に乗り移っていた物の怪が現れるという霊験などがあった。
そして、春宮時代に何かと軋轢のあった文徳天皇がご病気の末崩御され、その皇子が清和天皇として世を治められていたが、ご病気になられた。
多くの優れた霊験あらたかな僧たちを召して、様々な祈祷などが行われたが、何の効験も現れなかった。
その時、ある人が、「比叡山の横川に、慈覚大師の弟子である蔵人頭少将宗貞がいますが、熱心に仏道修行して、霊験あらたかでございます。その人を召して祈祷させるのが良いと存じます」と奏上した。
天皇はこれをお聞きになって、「速やかに召すべし」と度々宣旨が下されたので、御前に参って御加持を申し上げたところ、たちまちの験(シルシ)があって、御病は快癒なさった。そこで、天皇は法眼(ホウゲン・僧正、僧都、律師からなる僧綱職とは別に制定された僧の位で、僧都にあたる。)の位を与えられた。
その後も、たゆまず修行を続け、陽成天皇の御代になって、またもや著しい霊験を示したので、僧正の位になられた。
それから後は、花山という所に住んだ。名を遍照と言った。
長年その花山に住み、封戸を賜り、輦車(テグルマ・皇族や高官に宣旨によって乗車して内裏に出入りが許可された車。)の宣旨をこうむった。花山の僧正というのはこの人のことである。
そして、寛平二年( 890 )正月に波乱の生涯を終えた。享年は七十五歳であった。
僧正遍昭と言えば、私たちには、
『 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ 』
という小倉百人一首でお馴染みの人物である。
桓武天皇の孫として誕生し、出家したとはいえ僧正の地位にまで上り、歌人としては六歌仙の一人として後世まで高く評価されている。
しかし、その生涯は、ほんの一端に触れるだけでも、そうそう平安なものではなかったようである。
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( 「今昔物語 巻第十九の第一話」を参考にしました )
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