袖の浦の 波吹き返す 秋風に
雲の上まで 涼しからなん
作者 中務
( No.1497 巻第十六 雑歌上 )
そでのうらの なみふきかえす あきかぜに
くものうえまで すずしからなん
* 作者は、平安時代中期を代表する女流歌人の一人である。( 912? - 991? ) 行年は八十歳を過ぎていたようである。
* 歌意は、「 袖の浦の 波を吹き返す 秋風で 雲の上まで 涼しくあって欲しいものです 」といった、ごく分かりやすい和歌ではある。
ただ、この和歌の前書き(詞書)には、「 后の宮より、内に扇奉り給ひけるに 」とあるので、和歌の意味は少し変わって来る。つまり、「袖の裏を吹き返す秋風のように、この扇の風で、宮中までが涼しくあって欲しいものです」といったものとなり、扇に添えられた和歌ととるべきであろう。
なお、「袖の浦」は、いわゆる歌枕で、実在の場所が幾つかあるが、特定する意味はなさそうである。 「后の宮」は、村上天皇の皇后・安子で、「内」は村上天皇のことである。
* 作者 中務(ナカツカサ)の父は、宇多天皇の第四皇子の敦慶親王(アツヨシシンノウ・( 888 - 930)二品、式部卿、中務卿)、母は歌人として名高い伊勢( 872 - 938 ) である。
中務というのは女房名であり、父の職名からきたものであろう。なお、中務卿というのは、天皇の補佐や宮廷全般に関する職務を担っていたので、八省の内の最重要の省とされていた。平安期以降は親王が就いたようである。
中務というのは女房名なので、当然出仕していたことになる。摂政や関白を務めた藤原忠平・実頼父子に仕えたようであるが、掲題の和歌の詞書からすれば、皇后安子のもとにも出仕していたように思われる。
いずれにしても、中務の身分からして、出仕といっても、その教養や和歌の才能を買われたものであったと考えられる。
* 母の伊勢は、女流歌人としてはおそらく歴史上最高ランクに評価されると考えられるが、女性としても魅力あふれる人であったようだ。
当初、宇多天皇の中宮温子に仕えたが、やがて宇多天皇の寵愛を受け、皇子を儲けたが早世した。その後、宇多天皇の皇子敦慶親王と結ばれ、中務が誕生したのである。時期はもっと早い頃と思われるが、公卿たちとの恋の遍歴も伝えられている。
宇多天皇崩御後は、摂津国嶋上郡に庵を結んで隠棲したが、「伊勢の御息所」と呼ばれるなど、並の女房歌人とは違う身分であった。
* 中務も、母から和歌の才能ばかりでなく、美貌と魅力を受け継いでいたと思われる。
女流歌人としては、母の伊勢には及ばないまでも、勅撰和歌集に69首採録されており(伊勢は176首)、間違いなくこの時代の代表歌人であり、和泉式部や清少納言、紫式部といった女流文学者誕生への道筋を開いた一人といえる。
中務の男性との交際も、母に負けないものであったらしい。出仕していたとされる藤原実頼、大納言藤原師氏、陽成天皇の皇子元良親王、醍醐天皇の皇子常明親王などとの交際が伝えられており、源信明(ミナモトノサネアキラ・( 910 - 970 )従四位下)との間には女の子を儲けている。この子は、摂政太政大臣となる藤原伊尹の室になっている。
* 中務は行年八十余歳と、長寿であった。
宇多天皇の孫娘という出自であり、才色兼備と恵まれた中務であるが、長命であるがゆえに、晩年には娘や孫娘に先立たれるという悲哀と遭遇している。人生とはなかなかに一筋縄ではいかないとつくづく感じさせられる。
しかし、その事も含めて、学べば学ぶほどに輝きを見せる女性ではある。
☆ ☆ ☆