雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

寒さが続く

2020-12-15 18:38:26 | 日々これ好日

       『 寒さが続く 』

    寒い一日となった
    地域によっては 大雪になっているようで
    当県も 日本海側では 40cm以上の積雪になっている所もある
    昨年は 雪不足で泣かされた所が多かったようだが
    今年は 雪は十分な予想なのに 外出がままならない
    GOTOも仕切り直し
    さて 年末年始を どう過ごしますか ? ? ?

                                         ☆☆☆  

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なつみの川

2020-12-15 08:00:15 | 新古今和歌集を楽しむ

     吉野なる なつみの川の 川淀に 
            鴨ぞ鳴くなる 山陰にして

               作者  湯原王

( No.654  巻第六 冬歌 )
           よしのなる なつみのかわの かわよどに
                    かもぞなくなる やまかげにして

* 作者 湯原王(ユハラノオオキミ)は、奈良朝時代の皇族であり、万葉集に19首採録されている歌人でもある。生没年ともに未詳であるが、万葉集の配列から、729年から737年頃に詠まれた歌が中心になっている。従ってこの前後の数十年の間を生きた人物であろう。

* 歌意は、「 吉野にある なつみの川の 川淀(川が深くなっていて、流れが静かに淀んでいる所)に 鴨が鳴いているのが聞こえてくる そこは山蔭になっている 」といった意味であろう。わざわざ歌意など考えなくても、歌詞をそのまま受け取ればれば良いと思われる。

* 湯原王の父は、志貴皇子(生年不詳ー716年没)である。そして、志貴皇子は天智天皇の皇子であり、天智天皇の後継者となった大友皇子と大海人皇子(天武天皇)とが王権を争った壬申の乱(672)の混乱の時代に翻弄された皇子である。ただし、壬申の乱の時には、志貴皇子はまだ幼かったと推定され、その動向ははっきりしない。
やがて、壬申の乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、妻の持統天皇と共に天武王朝を築いていく。そうした中で、次期皇位を二人の間の子である草壁皇子に継承させるために、六人の皇子に皇位をめぐって争うことなく助け合うことを誓わせた。「吉野の盟約」といわれるものである。
この六人の皇子は、天武天皇の皇子四人と天智天皇の皇子二人であるが、志貴皇子もその一人で、この時が志貴皇子が記録されている最初である。679年の事であるが、この時十五歳前後と推定される。

* 天智天皇の皇子である志貴皇子は、天武系王朝においては制約の多い生活を強いられた可能性が高い。「吉野の盟約」の六皇子のうち、もう一人の天智天皇を父とする川島皇子を含め他の五人は官職などに就いているが、志貴皇子だけはその記録が見当たらない。生年がはっきりしないなど、特別の理由があったのかもしれない。
それでも、701年には大宝令の制定により四品の位階が与えられた。四品(シホン)というのは、親王・内親王に与えられる位階の最下位である。もちろん、何も与えられた無品という人もいたようだ。
おそらく、天武・持統朝廷では息をひそめるように行動していたのではないかと推定されるが、元明・元正朝廷では少しは活躍の場が与えられたようで、708年に三品、715年に二品に昇っている。それにしても、謎の多い親王ではあるが、万葉集には6首採録されており、政権争いに巻き込まれないように尽くした生涯だったのかもしれない。

* 肝心の作者のことが後回しになってしまったが、湯原王もまた父以上に伝えられている消息は少ない。
万葉集には、父をしのぐ19首が採録されているので、歌人としての評価は得ていたようであるが、叙位・任官の記録が残されていないのである。父と同様、政権争いに巻き込まれないように努めた生涯だったのかもしれない。
ただ、万葉集には、情熱的な恋歌も残されているので、そう悪い生涯でもなかったのかもしれない。その恋歌を1首紹介させていただく。
『 目には見て 手には取らえぬ 月の内の 楓(カツラ)のごとき 妹(イモ)をいかにせむ 』

* 志貴皇子・湯原王だけではなく、天武系王朝において日の目を見なかった天智系の皇族たちであったが、奇跡的な復活を計ることになる。
770年、称徳天皇が崩御すると、後継天皇選定は難航した。生涯独身であった称徳天皇には子供はなく、たび重なる政争により天武系男子皇族は少なくなっていた。後継については、激しい争いがあったようであるが、結局、白壁王が即位することになる。光仁天皇の誕生である。
白壁王の父は志貴皇子であり、湯原王の異母兄弟にあたる。志貴皇子が没してから五十四年、白壁王六十二歳での即位であった。これにより、天智系天皇が復活し、その皇族たちも歴史上に浮上してくるのである。

* この晴れがましい時には、湯原王はすでに亡くなっていたと考えられるが、これ以後、親王に加えられ、湯原親王と記されることもある。
天武・持統系の王朝時代は、歴史ファンにとっては興味深い時代であり、わくわくさせてくれる人物も少なくない。その中で、湯原王の存在は、あまりにも地味ではあるが、新たな資料などの登場が待たれる人物でもある。

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