『 新しい段階か? 』
ロシアによる ウクライナへの侵略は
いっそう激しさを増している
ウクライナ軍の善戦が 伝えられているが
その分 ロシアのなりふり構わぬ攻撃が増えていて
やりきれない状況が 続いている
そうした中で 新しい段階を迎えているような
気配もある
トルコで行われる 停戦協議では
たとえ半歩でも 目に見える成果が 期待できそうな予感がする
時間稼ぎに利用されている という声もあるが
ロシアの指導者とて 増え続ける犠牲者に
いつまでも 目を背け続けることは出来まい
祈る思いで 成果を期待したい
☆☆☆
『 わが衣手に 』
仁和の帝、親王におましましける時に、
人に若菜たまひける御歌
君がため 春の野にいでて 若菜摘む
わが衣手に 雪は降りつつ
( 巻第一 春歌上 NO.21 )
きみがため はるののにいでて わかなつむ
わがころもでに ゆきはふりつつ
* 歌意は、「 あなたのために 春の野に出て 若菜を摘んでいると 私の袖に 雪が降りかかっています 」といった、穏やかな歌です。教科書などにも載せられることがある著名な和歌です。
* 作者の「仁和の帝」とは、第五十八代光孝天皇のことです。
光孝天皇(830 - 887)は、在位期間が ( 884 - 887 ) の三年あまりに過ぎない天皇ですが、歴史的には、一つの転換点にあった人物といえます。
* 光孝天皇は、第五十四代仁明天皇の第三皇子として生まれました。
仁明天皇の次期天皇には、第一皇子である道康親王が第五十五代文徳天皇として即位し、第五十六代清和天皇、第五十七代陽成天皇と前天皇の皇子が皇統を繋いでいます。
第三皇子として誕生した時康親王(光孝天皇)は、十四歳で元服した後は、常陸の太守を始めとして中務卿や大宰帥など、親王が就任するのが慣例になっている官職のほとんどを歴任していきました。皇統を継ぐ親王以外としては最高の略歴に見えますが、やはり、鬱々とした気持ちもあったことでしょう。
* ところが、陽成天皇の御代に大事が出来(シュッタイ)します。
884 年、まだ十六歳の陽成天皇が退位に追い込まれることになったのです。在位期間は八年ほどありますが、大部分が幼帝といえる期間で天皇としての職務を責められるほどのことはなかったと考えられます。伝えられている理由としては、天皇の乳兄弟が殿上で殴殺されるという事件があり、それに天皇も関係しているらしいということですが、実体は、時の摂政藤原基経と妹で天皇の生母である高子との、不仲と政権争いが根源にあったと考えられます。
退位に追い込まれた陽成天皇に後継者を選ぶ力などなく、有力な同母弟も軋轢から候補から外れ、仁明天皇の皇子である時康親王が即位する事になったのです。
第五十八代光孝天皇、五十五歳での即位でした。
* ただ、光孝天皇は、文徳・清和・陽成と続いてきた皇統を重視していたようで、自分は一代限りの天皇で子孫に皇位を引き継ぐ考えはなかったのです。
即位して間もなく、光孝天皇は、二十六人いたとされる皇子・皇女全員を源氏姓を与えて臣籍降下させたのです。おそらく、次の天皇には、陽成天皇の同母弟の貞保親王あたりを考えていたのでしょう。
* 光孝天皇は、在位三年あまりで病に倒れ、太子を決めないまま重態になったようです。朝廷で強い力を保持していた基経と高子の仲違いは続いており、そのあおりから貞保親王の目は消えて、急遽光孝天皇の皇子の一人である源定省を親王に復帰させて、その翌日には立太子、そして、ほぼ同時に光孝天皇は崩御したのです。
定省親王は二十一歳になっていましたが、父の後を継いで第五十九代宇多天皇として即位しました。
この立太子や即位には、光孝天皇の意思が働いていたとはとても考えられないのですが、結果として、この即位により光孝・宇多・醍醐と続く皇統へと変わったのです。
* 仁和の帝、つまり光孝天皇については、若くして優秀であったとか、和歌や和琴などに優れた文化人であったとか、といった好意的な記録が残されているようです。確かに、親王時代に名誉職のようなものだとしても多くの重職に就いていることからして凡庸でなかったことは推定できます。
ただ、伝えられている人物評価の多くは親王時代のことと考えられ、天皇としての業績はごく限られたものと思われます。
本人の意思はともかく、本来は皇位に就くことなど無いはずでありながら、望まれて天皇となり、自らの皇子に皇位を引き継がせる意思がなかったにもかかわらず、周囲から推されて宇多天皇が誕生し、以後皇位を繋いでいます。
天智天皇・天武天皇の昔から、皇位継承の折々には、激しい政争が起こっています。そうした中で、光孝天皇は、まるで水が流れるかのように皇位を受け継ぎ、自分の意思に関係なく子孫に皇位を引き継いだ希有の天皇のような気がしてならないのです。
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