雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

さあ ゴールデンウィークです

2023-04-28 19:01:16 | 日々これ好日

     『 さあ ゴールデンウィークです 』

    明日から ゴールデンウィーク
    暦通りに 休まれる方
    九連休の方
    かえって 仕事が忙しくなる方
    年中 連休の方・・
    生活パターンは違っても ゴールデンウィークはみんなの物
    すでに 帰京や旅行に 出発しているお方もいるでしょうし
    ゴールデンウィークなど 関係ないという方もいるでしょうが
    ここは 浮き世の波に乗っかって
    この期間を 一味違う楽しみ方を 見つけるというのは如何ですか
    私ですか? 私は これから考えることにしましょう・・

                     ☆☆☆

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われ鶯におとらましやは

2023-04-28 07:58:13 | 古今和歌集の歌人たち

     『 われ鶯におとらましやは 』

 
  散る花の 鳴くにしとまる ものならば
            われ鶯に おとらましやは

             作者  典侍洽子朝臣

( 巻第二 春歌下  NO.107 )
        ちるはなの なくにしとまる ものならば
                 われうぐいすに おとらましやは


* 歌意は、「 散る花を惜しんで 鳴けば散るのが止まるのであれば わたしも鶯に 負けないように泣くのですが 」と、のどかな春のひとときと受け取りました。この歌は、「春歌」に入っていますので、詞通りの意味で良いかと思いますが、受け取り方によっては、切ない恋歌とみることも出来そうです。

* 作者の典侍洽子朝臣(ナイシノスケ アマネイコノアソン )は、平安時代前期の女官です。生没年は未詳ですが、800 年代中頃から 900 年代始めに掛けて生きた女性です。
洽子の父は、従三位・参議である春澄善縄です。歴とした公卿の娘とも言えますが、春澄氏は、公卿どころか貴族にも属さない家柄でした。
春澄氏は、伊勢国員弁(イナベ)郡を本拠とする豪族猪名部氏の一族でした。善縄( 797 - 870 )は、幼少の頃から俊才であったようで、大学寮に進み、文章生、文章博士に上り、文官として出世を続けたようです。官人としては最下位からスタートし、貴族とされ従五位下に上り、さらに公卿とされる従三位まで上り詰めた人物です。828 年に、春澄宿禰の姓を賜って改姓していますので、洽子が誕生したのは、春澄姓になってからだと考えられます。

* 洽子が、女官として宮廷に勤め始めたのは、清和天皇の御代( 858 - 876 )のようですが、父の善縄は 860 年に参議になっていますので、公卿の娘として宮廷入りしていた可能性もあります。
洽子の官歷としては、868 年に無位から従五位下に叙位されたという記録が残されています。女性とはいえ、従五位下は貴族とされる官位ですから、父の影響が大きかったと推定されます。ただ、その父は 870 年に亡くなりました。個人的な悲しみに加え、有力な後見者を失った洽子ですが、さらに官位を上っていますので、女官として相当有能であったのでしょう。

* 876 年に清和天皇が退位し、877 年に陽成天皇が即位します。
陽成天皇の母后の名が「高子」でしたので、その名に触れる女官たちは改名を求められました。洽子も、本名は「春澄高子」でしたが、この時から「洽子」になったのです。
作者名に付けられている「典侍(ナイシノスケ)」に就いたのは、宇多天皇の御代の 889 年の頃ですが、官位も従四位下に上っていました。この「典侍」というのは、後宮を司る内侍司の次官にあたる職責ですが、長官にあたる尚侍(ナイシノカミ)は后妃化していき、典侍が実質的な長官として内侍司を率いていました。

* 洽子は、清和・陽成・光孝・宇多・醍醐の五代の天皇に仕えましたが、特に宇多天皇からは厚い信頼を受けていたようです。
897 年の醍醐天皇の受禅に際しては、剣璽使役の大任を勤め、902 年には、女官位とはいえ、父と同じ従三位の高位を賜っています。
洽子の没年も未詳ですが、これから間もない頃ではないでしょうか。
伝えられている官歷の期間だけでも三十五年に及びますので、行年は少なくとも五十歳を過ぎていたものと推定されます。

* 873 年、猪名部氏(春澄氏)の本拠地である伊勢国員弁郡の猪名部神社に、洽子か一族を代表して参拝したと記録されています。
善縄には、男子二名があったようですが、大成していないらしく、この時には、洽子が一族を代表する立場であったようです。
洽子の和歌は、多くは伝えられていないようですが、幾つかの歌会に参加したとの記録はあるようです。ただ、それは、歌人としてというよりは、教養人としての交際であって、洽子という女性は、女官としての才能こそが評価されるべきだと思うのです。
洽子は、女官として存分の働きと高位を得た生涯であったと考えられますが、彼女の死によって、春澄氏の名前は、歴史から埋没していったのです。

     ☆   ☆   ☆

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