『 何とも味気ない・・ 』
恒例の 今年の漢字は『税』だって・・
何とまた 味気ないことだ
清水寺の貫主でさえ 意外であったようで
『虎』かな と思われていたとか
そして 来年こそは『和』を書きたいと話されていた
ぜひ 世界の英知を集めて
貫主の期待が実現することを 祈りたい
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『 君とまるべく 』
ことならば 君とまるべく にほはなむ
帰すは花の 憂きにやはあらぬ
作者 幽仙法師
( 巻第八 離別歌 NO.395 )
ことならば きみとまるべく にほはなむ
かえすははなの うきにやはあらぬ
* 歌意は、「 同じ咲き匂うのであれば 君が留まるほどに 咲き匂って欲しい 君を帰してしまったのは 桜よ 君に対してつれないということにならないか 」と、桜に呼びかける形になっています。
この和歌の前の、NO.394には、僧正遍昭の和歌『 山風に 桜吹きまき 乱れなむ 花のまぎれに たちとまるべく 』の前書き(詞書)に、「雲林院の親王の舎利会に山(比叡山)にのぼりて帰りけるに、桜の花のもとにてよめる」とあります。雲林院の親王というのは、仁明天皇の第七皇子の常康親王のことです。そして、この和歌の「たちとまるべく」を受けて詠んでいますので、同道していたことが分ります。
従って、掲題歌の「君」は常康親王のことです。
* 作者の幽仙法師(ユウセンホウシ)は、平安時代前期の人物です。( 836 - 900 ) 行年六十五歳です。
幽仙法師に関する情報はごく限られているようです。
父は右近衛将監藤原宗道です。右近衛将監は、従六位上相当の官職ですので、貴族の地位に上ることは出来なかったようです。
祖父も曾祖父も従五位上の守護職が最終官位のようですから、下級貴族といった家柄といえます。
さらに祖先を辿れば、藤原北家の始祖房前まで繋がるのですが、北家が目覚ましい躍進を遂げていく中でも、この頃には、北家に繋がるというだけでは格別の恩恵は受けられなかったようです。
* ただ、祖父に当たる総継(フサツグ)は、最終官位は従五位上紀伊守ですが、娘の沢子が仁明天皇の女御になっていて、総継の死後のことですが、884 年に沢子所生の皇子が五十五歳で即位(光孝天皇。在位 884 - 887 )、この事から、総継は正一位並びに太政大臣を贈られているのです。
* 幽仙法師が、何歳の時に仏門に入ったのか、またその経緯なども知ることが出来なかったのですが、890 年に権律師、895 年に正律師に就いています。律師は僧正・僧都に次ぐ僧官で、それほど高い地位ではありませんが、俗界の地位に当てれば、六位あるいは五位程度に当たると考えられ、高齢での就任であることも考えれば、総継の恩恵を受けたのかもしれません。なお、律師に就いた時は光孝天皇は崩御していますが、次の宇多天皇は光孝天皇の皇子ですから、恩恵を受ける可能性は考えられます。
* 結局、幽仙法師の生き様を探ることは出来ませんでしたが、皇位争いのもつれから突如台頭した光孝天皇の恩恵を受けて、少なくとも晩年は、悪くない法師生活だったのではないでしょうか。
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