雅工房 作品集

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運命紀行  マムシの父親

2014-06-02 08:00:24 | 運命紀行
          運命紀行
               マムシの父親

わが国の戦国時代は、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱に始まるというのは、ほぼ定説と言えよう。
その終わりを、例えば徳川家康による徳川幕府創設までとした場合、その期間は百三十六年間ということになる。
もちろん、戦国時代の始まりについても終焉の年度についても諸説あるが、そのいずれを採るとしてもその期間に大きな差はなく、武士を中心とした混乱の時期は、百数十年に及ぶことになる。
応仁の乱は、足利将軍家の後継者争いや山名氏や細川氏など有力守護大名の家督争いから戦乱が拡大していったものであるが、やがて、各地の豪族たちの台頭が見られ、さらには、これまで権力者側から遠い存在であったと思われる人物が、その才覚と胆力をもって歴史の表舞台に登場してきた時代でもあったのである。

武士、というより、武力をもって勢力拡大を図るということは、古代から展開されてきたことであるが、藤原氏が台頭し公家が政治の中心となってからは、武士が存在感を顕かにし始めたのは平清盛の頃からと考えられる。
しかし、その頃は、あくまでも公家社会の中での地位向上が主眼であったように見える。鎌倉政権は、公家政権とは明らかに一線を画していたが、足利氏の室町幕府となると、ごく初期を除いては武士政権とはいえず、間もなく幕府権力は衰え戦国時代へと移っていく。
戦国時代ともなれば、初期は従来からの有力守護大名が存在感を示していたが、やがて守護代を務めていた有力豪族が守護大名を凌駕し、さらには、地域に根差していた豪族の中からも、かつて身を寄せていた有力豪族を討ち果たし、あるいは、武士でさえなかった農民や商人などからも既存の勢力を滅ぼして有力な武力集団となり、やがては守護大名にとって代わるほどになっていくのである。
下剋上の時代である。

下剋上という言葉は、六世紀の中国で既に登場していたようであるが、わが国では鎌倉時代になってから見られる。主として武力でもって、時には政略や謀略によって身分秩序を壊すことを指すが、室町時代となれば頻発されるようになり、やがて戦国時代に突入していくのである。
室町初期においては、全国のほとんどが、たとえ名目だけだとしても守護大名によって治められていたが、豊臣秀吉が天下を掌握したとされる頃には、大名として存続していたのは上杉・結城・京極・島津など八氏にすぎないという。
そして、下剋上を代表するかに言われるのが、「美濃の蝮」とうわさされた斎藤道三である。

斎藤道三は、戦国武将としては相当著名な人物である。
戦国時代を舞台とした物語では、特に織田信長や豊臣秀吉を中心に描いているような物語では、斎藤道三は必ず登場してくるし、それもかなり重要な役回りを演じている。
その生涯は謎が多いとされながらも、多くの物語に登場し、特に著名な作家などに描かれているうちに、下剋上の典型のような、そして荒々しい魅力にあふれた人物としての姿が定着してきたといえる。
それらに描かれている大まかな姿を記してみよう。

道三の生年は諸説あるが、明応三年(1494)というのが有力らしい。
松波基宗の子とも伝えられているので、京都近辺のそれなりの家の生まれだったのかもしれない。
京都妙覚寺に入り法蓮坊という僧であったというのは真実らしい。但し、道三という法名は晩年に名乗ったもので、法蓮坊とはつながらないし何度も名乗りを変えているが、本稿では道三で通す。
二十歳の頃、還俗して松波庄九郎と名乗る。何か事件を起こしたということではなく、俗世での野心が高く、僧籍を離れたらしい。
やがて、油売りとなり、各地を回ったらしい。「油を売る」という言葉は、江戸時代になって生まれたものらしいが、道三の時代の油は、主として燈明用のものだと考えられるが、粘着力の強い油を小売りしていくので、一軒でそこそこの時間がかかるし、下層階級では燈明用の油を購入する余裕などなかったと考えられる。従って、各地の様々な情報を入手することも可能で、才覚に優れていた道三は、むしろ積極的に情報の入手や提供に励んだと推定される。

山崎屋と号するようになった道三は、その行動半径を広げて行き、油商人としても一家を成すに至ったようだ。
しかし、道三の望みはその程度のものではなかった。美濃国まで行動半径を広げた道三は、美濃国守護土岐家にも出入りするようになった。それには、僧侶時代の縁故を頼ったともされるが、都やその近隣、あるいは近江路などの情報は、土岐家にとって貴重なものであったことは間違いない。
やがて、土岐家の家老を務める斎藤家の重臣長井家の家臣となり、西村勘九郎を名乗るようになる。
応仁の乱勃発の背景の一つは、有力守護の家督争いにあるが、名門土岐家もその例にもれず、家長であった土岐政房が没すると長男・頼武と次男・頼芸の間で家督争いが起こり、頼武が勝利し守護職を継いだ。
道三は、敗れた頼芸に仕えていたが、家中の争いはなおくすぶり続けていて、その混乱の中で道三は着々と立場を高めていった。

道三は武勇・知略とも優れていて、頼芸の信任は高まるばかりで、頼芸は側室の深吉野を道三に与えている。享禄元年(1528)前後の頃と思われるが、ほどなくこの女性が生んだのが道三の後継者となる義龍である。真偽はともかく、この父子が極めて険悪な仲であったのには出生にまつわることもあったのかもしれない。
それはともかく、頼芸の絶大な信認を勝ち得た道三は、「美濃の蝮」と呼ばれるにふさわしい躍進を続ける。
かつての主君である長井長広を不行跡のかどで殺害し、その跡を襲い、長井新九郎規秀を名乗る。さらには、天文七年(1538)には、守護代の斎藤利良が病死するとその名跡を継ぎ斎藤新九郎利政となり、居城の稲葉山城を大改修し美濃国の有力勢力にのし上がった。
天文十年(1541)には、頼芸の弟・土岐頼満を毒殺したため頼芸と敵対関係となり、一時は窮地に立たされたが、翌天文十一年には、頼芸の居城大桑城を攻撃し、頼芸を尾張国に追放し、事実上の美濃国国守になったのである。

しかし、その後も騒乱は続き、織田信秀の支援を受けた頼芸は、朝倉氏からの援軍も得て美濃国に侵攻、頼芸は揖斐北方城を奪還した。
天文十六年(1547)には、織田信秀は稲葉山上に攻めかかったが、加納口の戦いと呼ばれるこの合戦で、織田方は大敗を喫した。
翌天文十七年に両家は和睦し、その条件の一つとして、道三の娘・濃姫(帰蝶)が信秀の嫡男・織田信長に嫁いだのである。
道三は信長との会見の折、とかく「うつけ」とのうわさのあった信長の見事な立ち居振る舞いに感じ入り、「わが息子たちは、あの『うつけ』の門前に馬をつなぐことになるだろう」と語ったという逸話が残されている。
信長の非凡さを、早々と見出していたのはさすがといえる。

信長に輿入れした濃姫に子供が生まれなかったことが残念であるが、正妻としてある程度の役目を果たしたらしい。道三からは、この縁組により得たものを見つけ出すことは難しいが、信長の舅となったことは歴史の流れの一ページに名を残すことになったようにも考えられる。
ただ、この後も、美濃国内は何かと騒がしく、やがて道三と嫡男・義龍の仲は険悪さを増していった。
道三が義龍に家督を譲ったのは信長の舅となった五年ほど後の天文二十三年(1554)のことである。自ら剃髪し道三と名乗るのはこの時からである。
稲葉山城も義龍に譲り、鷺山城に隠居したが、弟の孫四郎らを偏愛し義龍の廃嫡も画したらしく両者の対立はますます鮮明になっていった。

そして、弘治二年(1556)、両者は長良川河畔で決戦、道三は戦死した。
義龍軍一万二千に対して、道三の軍勢は二千五百ほどで、美濃の土豪や土岐家の関係者の多くは道三に味方しなかったという。急報を受けて信長も援軍に向かったが間に合わなかったという。
享年は六十三歳だといわれる、あっけない、そして道三らしいともいえる最期であった。


     ☆   ☆  ☆

僧侶の身を棄てて油売りとなり、権謀術数はその手段を選ぶことなく、主家を食い破りながらついには美濃一国を手中にしたという斎藤道三の物語は、稀代の悪役として取り扱われることが多いが、爽快な物語ではある。
ただ、近年に至り、古文書の発見などから、この国盗りに至る物語は一代で成されていたものではなく、どうやら二代で築き上げられたものらしく、そちらがほぼ定説となりつつある。

晩年に道三と名乗ったとされる人物は、次々と実に多くの名前を名乗っている。真偽はともかく、また年代順の前後もあるかもしれないが列記してみると、『 法蓮坊、松波庄九郎(庄五郎)、山崎屋庄九郎、西村正利(勘九郎)、長井新九郎(規秀)、長井新九郎(秀龍)、斎藤新九郎(利政)、道三 』などである。小説などでは、さらに違う名前も使われているようであるが、この人物に関しては、それを作者が勝手につけた名前だといえない雰囲気がある。
但し、ある程度しっかりとした資料に残されているものとしては、『 長井規秀、斎藤利政、道三 』程度らしい。

このうち、京都妙覚寺で法蓮坊と名乗っていたとされる人物は、道三の父親らしい。
そして、野望抱いて油売りとなり商才を発揮して商圏を広げていったのもこの人物と考えられる。さらに、美濃国の土岐家に出入りしたのも同様と考えられるが、果たして油売りから西村勘九郎という武士もどきの奉公人となったのは、どちらの人物だったのだろうか。
文献などの研究者の多くは、武士になったのも長井新左衛門尉と名乗る道三の父親であったとしているようだ。この人物は、天文二年(1533)前後に死没したようであるが、そこで道三に引き継がれたのかといえば納得の行かない部分もある。

道三の享年六十三歳というのが正しいとすれば、長井新左衛門尉という人物が亡くなったとされる年には、四十歳になっていたことになる。それまで父の陰に隠れていて、父の死により家督を継いで活動を活発化させたというのは少々不自然である。
さらに、道三が頼芸から側室の深吉野が与えられたのは享禄元年(1528)の頃であり、その翌年には道三の嫡男義龍が誕生している。従って、深吉野を与えられた人物は父ではなく、道三自身であったことは確かなように考えられる。そして、側室を与えられるほどの信頼を得るためには、何年かの時間が必要であり、そう考えれば、長井新左衛門尉の子である道三は、相当早い段階から表に立っていたと考えられるのである。

油売りから身を起こし美濃一国を手中に治めたのは、二代にわたる行跡であったことは事実と考えられる。
しかし、道三の父とされる長井新左衛門尉という人物が、油売りから武士となり、美濃国守護土岐家の争乱の中で台頭し、やがて子の道三がその跡を継いだというのは、どうもしっくりしない。
「美濃の蝮」とまで称された道三の父・長井新左衛門尉は、僧侶であり続けることを潔くとせず飛び出し、商人として身を立てることになった。商才もあり努力もあって油商人として成功し、遠く美濃国までも足を延ばすようになり、その過程で多くの情報を集積していったのである。そして、やがて武家に奉公するに至ったが、その世界で父以上の才覚を見せたのは行動を共にしてきていた子の道三だったのではないだろうか。

長井新左衛門尉は、我が子道三の類まれな才能を伸ばすために後見役に徹したのではないだろうか。
その徹底した黒子のような行動が、いつの間にかその存在さえも消し去るほどになってしまったのではないだろうか。
この考えは全く個人的な推察にすぎないが、「美濃の蝮」といわれるほどの下剋上の英雄の誕生の陰に、黒子に徹した父がいたように思えてならないのである。

                                                     ( 完 )




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