雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行 ・ 信長と光秀を結ぶ  

2014-08-13 08:00:20 | 運命紀行
          運命紀行
               信長と光秀を結ぶ

下剋上という言葉は、中国で使われるようになった言葉であるが、わが国には鎌倉時代に登場している。
その意味は、下位の者が上位の者を政治的あるいは軍事的に打倒して、上下関係を覆すことを指す。従って、そこには、当事者間に主従関係があることが前提となり、社会的に身分差があるとしても、もともと敵対関係にある人物を討ち果たしても、下剋上とは違う。

室町幕府が衰え戦国時代と呼ばれることになる時代ともなれば、守護大名の多くは守護代にその勢力を奪われ、さらには、もっと末端の豪族や一介の野心に満ちた人物に取って代わられるようになっていった。
後世の私たちからすれば、戦国時代は下剋上がまかり通る時代のように見えるが、当時の人々にとっては、特に下剋上を果たしたと考えられる人物にとっては、力のある者が衰えた者を打倒したに過ぎず、下剋上と呼ばれるのは片腹痛いと思っていたかもしれない。

さて、「敵は本能寺にあり」との采配を振るい主君織田信長を討ち果たした明智光秀も、下剋上を象徴する時代の典型的な人物のように見えるが、当の光秀本人はどのように考えていたのだろうか。
確かに、光秀にとって信長は主君であり、絶対服従を求められる立場にあったことは間違いない。しかし、わが国に下剋上という言葉が登場してきた時代と異なり、戦国も末期近いこの頃ともなれば、主従関係といえどもいささか違う様相を見せていたのではないだろうか。
主従関係を成立させているものは、形式的な身分制度ではなく、軍事力を中心とした力そのものだけであったと思われる。しかし、たとえそうだとしても、光秀が信長を討つには相当の覚悟を必要としたはずであり、それは単に信長の軍事力の大きさだけではなく、やはり主君を討つという心の葛藤があったはずである。

光秀の出自が今一つはっきりしないことは別稿で述べたが、一応伝えられているところによれば、美濃国の斎藤氏に仕え、その後、若狭武田家、越前朝倉家を経て信長に仕えている。
この間信長は、尾張国を手中にし、美濃国への進出に成功している。光秀は美濃国を離れて浪々の末、吸い寄せられるように美濃国に戻り、信長に仕えることになったのである。まるで、十数年後の本能寺の変を演じるかのようにである。
しかし、この二人の動きを、単なる歴史の流れのいたずらかといえば、どうやらその陰には、信長と光秀という因縁の二人を結び付けた女性の姿が垣間見られるのである。

今回のヒロインは、濃姫である。
濃姫とは、これも戦国時代の梟雄の一人ともいえる斎藤道三の娘である。母は、明智光継の娘・小見の方である。
明智光継は、東美濃あたりの豪族で、長山城主として一家を成していた。明智氏は、土岐氏の流れとされているが、それはともかく、このあたりの豪族として一定の勢力を有してきたようであるが、歴史上その存在が現れるのは、この人物あたりからである。
濃姫は、道三の三女といわれ、生年は天文四年(1535)である。この生年も不確かな面もあるが、正しいとすれば、後に結婚することになる織田信長より一歳年下で、ほぼ同年ということになる。

濃姫というのは、美濃の姫といったことから名づけられたもので、結婚後のことである。本名は、帰蝶(キチョウ)という名前が伝えられている。
父の道三は、まさに下克上の手本の如く戦いに明け暮れた生涯を送った人であるが、濃姫が誕生した年は、守護代の名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った頃で、濃姫の生活環境は安定していたと考えられる。
戦闘を続けていた尾張の織田信秀と講和した道三は、その条件の一つとして濃姫を信秀の嫡男信長に嫁がせることになった。
二人の結婚は、天文十七年(1548)のことで、信長十五歳。濃姫十四歳であった。

結婚後の二人がどのような仲であったかについては、さまざまの説があるが、そのほとんどは後世の作品などに描かれたものが独り歩きしたもので、信頼できる記録は極めて少ない。
信長には数多くの妻妾がおり、子供の数は確認されているだけでも相当の数である。しかも、生母がはっきりしない子供も少なくない。
時には、濃姫が嫁いだ時には信長には何人もの女性がいて、子供も生まれていたとされる話もある。しかし、濃姫との結婚時、信長は数え年の十五歳であり、当時の少年が早熟であったとしても、少なくとも妻妾といわれるような立場の女性が何人もいたとは考えにくい。
また、信長には、部下に妻を大切にせよと諭したとか、秀吉夫妻の夫婦喧嘩の仲裁をしたとかというエピソードが残されている。そのことから考えても、一家における妻の立場を重視していた人物のように思われる。
おそらく、濃姫は、信長から正妻として大切にされ、歴史の表面に顔を出すことはなくとも、内助の功に励んでいたものと考えたい。

濃姫を、賢妻として描かれている作品は少なくないが、それらでは子供を生さなかったことが惜しまれている。
しかし、濃姫には子供がいなかったのかといえば、それは断定出来ないのである。おそらく、女の子を産んでいる可能性がある。
ある公家が書き残したものに、「御台出産」との記録があり、別の軍記物には「若君が誕生しなかったため側室が生んだ奇妙丸 ( 信忠 ) を養子として嫡男とした」という記録も残されている。これらの記録の信憑性には疑義もあるようだが、濃姫が信忠の養母であったことはかなり信憑性が高いとされる。

また、濃姫が表向きのことに関わったという記録や伝聞はほとんどないが、「信長正室が、斎藤義龍の後家をかばった」という伝聞がある。
このことから、一つの推定が浮かんでくる。
つまり、朝倉氏に身を寄せていた明智光秀が、どういう繋がりを得て信長に仕官することになったかということである。
濃姫の生母は、明智光継の娘・小見の方であることはすでに述べたが、光秀の父とされる明智光綱も光継の子であり、濃姫と光秀は従兄妹であったらしいのである。光秀は、直接か、小見の方を介してか、急台頭してきた信長への仕官の仲立ちを頼んだのではないだろうか。
これは推察ではあるが、そのように記されている文献も存在している。

尾張と美濃と、隣接した国に誕生した信長と光秀、近いといえば近いともいえるが、本来なら主従関係ではなかった二人を結びつけ、やがては、歴史上の大事件へと導いたのは、それが歴史の流れだといえばそれまでであるが、その出会いを作ったのには濃姫という女性の存在があったと思うのである。


     ☆   ☆   ☆ 

斎藤道三の娘として生まれ、母は東美濃の豪族明智氏の娘小見の方。そして、嫁いだ相手は織田信長。
戦国時代というドラマで重要な役割を果たしたはずの濃姫は、その足跡を後世に伝えているものはあまりにも少ない。
この時代の女性の動静が伝えられることが少ないのは濃姫に限ったことではないが、これだけの歴史上の人物に囲まれた女性だけにその少なさは不思議というより謎めいて見える。謎めいていると表現する理由の一つは、亡くなった時期が実に多様に伝えられているからである。
伝えられているものを列記してみよう。

まず、最も早くなくなったと指摘しているものによれば、信長と結婚して間もなくに死去あるいは離婚したというものがある。
その理由はただ一つで、結婚後の濃姫の情報が全くというほど伝えられていない、ということである。
しかし、結婚間もない時期といえば、織田家にとって、美濃の斎藤家は軽視できる相手ではなかったはずである。濃姫と信長の夫婦仲がどのようなものであっても、まだ幼いといえるほどの新妻を追い返すことなどできないし、万が一死去であれば、葬儀にしろそれなりの礼を尽くしたはずである。何らかの伝聞が残される程度の動きがあったはずである。

次に多いのは、信長の嫡男となる信忠 ( 奇妙丸 ) 誕生の少し前あたりに死去あるいは離婚したというものである。
信忠の生母は、生駒宗家の長女である吉乃とされていて、信雄、徳姫 ( 後に徳川家康長男に嫁いだ ) の生母でもあるとされる。吉乃は信長が最も寵愛した女性といわれることが多く、信忠誕生の頃からは正室の座にあったという説があり、この頃までに死去あるいは離縁されていたというものである。
濃姫に相当の落ち度があればともかく、斎藤家は父・道三を滅ぼした義龍が当主であり、信長とは敵対関係にあり、母方の実家明智家は没落していたと考えられ、信長といえども濃姫を離縁して実家へ追い払ったとは考えにくい。

それに、すでに書いたように、その後にいくつかの伝聞がある。
斎藤義龍が病死した後、信長本妻が義龍の後家をかばったという記録がある。この信長本妻というのは、斎藤家との関係からも濃姫のことと考えられる。信忠誕生から二年ほど後のことである。
そして何よりも、信忠が濃姫の養子となったことはほぼ定説ではないかと思われるのだが、それ以前に死去あるいは離縁されたという意見が消えないのは不思議に思われる。
そして、信忠を濃姫の養子として嫡男としたことは、信長が濃姫を押しも押されもしない正室であったことを認めていたということではないだろうか。

濃姫の最期とする説の中で最も華々しいのは、本能寺において信長とともに壮絶な最期を遂げたというものである。信長とともに薙刀を振るって奮戦したというもので、巴御前を髣髴させるものである。戦国ドラマの名場面としては実にふさわしく、著名な作家もこの説をとっている。
この説の裏付けの一つに、本能寺の変の後、信長家臣の一人が濃姫の遺髪を持って美濃国に逃れてきて埋葬したという。この遺跡とされる濃姫遺髪塚 ( 西野不動堂 ) が伝えられていて、この説を補強している。
同時に、本能寺の変の直後に、安土城から脱出に成功した信長妻妾たちの中に、御台所等の記述があり、これは濃姫を指していると思われ、そうだとすれば信長に同行していなかったことになる。また、本能寺の変後の混乱が落ち着いたあとの「織田信雄分限帳」に女性としては、信雄正室、岡崎殿 ( 徳姫 ) に続いて安土殿が載せられており、この女性は濃姫と考えるのが自然という説もある。

濃姫は、本能寺の変後も健在であったという説の一つには、本能寺の変の翌年の六月二日に、妙心寺において信長公夫人により一周忌の法要が執り行われたと記録があるという。これは、秀吉が主宰したものとは別で、もし事実とすれば、単に生き延びていたということではなく、一定の立場を保っていたということになる。
濃姫に関する生存情報の最も後のものは、慶長十七年(1612)七月九日に七十八歳で逝去したというものである。大徳寺総見院に埋葬されたとされ、安土総見寺には「養華院殿要津妙玄大師 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」という記録があるという。

果たして濃姫は、何歳まで生存していたのか。
個人的には、信長の嫡男となる信忠を養子としていることは事実と考え、信忠の誕生前後までに死去したとか離縁されたという説は受け入れにくい。また、本能寺において信長とともに華々しく散ったというのはドラマチックではあるが、出来過ぎているような気がするし、その後の情報も無視できない。
慶長十七年の逝去とすれば、すでに徳川の天下がすでに固まっており、大坂夏の陣で豊臣家が亡びるのは三年後のことである。信長の後天下人となった秀吉にしろ家康にしろ、濃姫を粗略に扱ったり、まして迫害を加えるようなことはなかったはずである。

おそらく、少々頼りない人物ではあるが、織田信雄のもとにあって、つつましやかに、激しかった戦国時代が終わりを告げようとする流れを見つめながら晩年を過ごしたのではないかと思うのである。

                                                          ( 完 )
 


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