雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  敵は本能寺にあり

2014-08-01 08:00:21 | 運命紀行
          運命紀行
               敵は本能寺にあり

「敵は本能寺にあり」
この号令により、羽柴秀吉の後詰を命じられ中国地方に向かおうとしていた明智軍一万三千は、進路を京都へと変えた。
天正十年(1582)六月未明のことで、世に言う「本能寺の変」の勃発である。

戦国時代全体を一つのドラマと考えた場合、そこには数えきれないほどの名場面、名台詞(セリフ)がちりばめられている。
多くは悲劇を伴うものであり、残酷な場面も少なくない。痛快に出世していく物語もあることにはあるが、それは戦国時代というドラマの中では、一つのエピソードにすぎないような気がする。
そして、あらゆる場面で語られる台詞の中で、「敵は本能寺にあり」という明智光秀が発したとされる台詞は秀逸であり、これを超えるものはそう多くはないと思われる。

実際に、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康などを描く時代小説やドラマには、必ず「本能寺の変」の場面は登場してくるし、何かと独自性を示したがると思われる作家や演出家も、「敵は本能寺にあり」という台詞だけは、変更しているものはほとんどないと思われる。
それほどまでに名高く定着している名台詞は、単なる一世一代の大見えを切った言葉というだけでなく、戦国時代の流れを大きく変え、引いては近代日本の形態に少なからぬ影響を与える場面を演出しているのである。

天正十年五月二十日、織田信長は徳川家康を安土城に迎えて、盛大な宴会を催していた。
信長の家康招請は、甲斐武田氏を滅ぼし天下はすでに手中にあるとの自信と、家康の長年にわたる忠節に報いるためであった。壮大な安土城を披露し、すでに完全に掌握している京都・大阪、さらには堺までも見物させようという計画であった。
この接待役は明智光秀が命じられていて、早くから準備にあたり万全を期していた。ところが、宴席半ばに、信長のもとに羽柴秀吉からの使者が到着した。中国路で毛利軍との戦いが膠着状態にあり、援軍の派遣を求めてきたものであった。
実際の戦況は、毛利方の勇将・清水宗治が守備する高松城の水攻めが完成しており有利に展開していた。あまりに大きすぎる武功を独り占めすることを懸念しての援軍依頼だったとされる。

信長は、光秀の接待役を解き、ただちに秀吉軍の援軍として出陣することを命じた。
このあたりの事情については、接待役としての不備を信長から叱責されたとも言われるが、本当のところはよく分からない。ただ、秀吉の指揮下に入ることは光秀のプライドが許さなかったことは考えられる。
納得できないとしても信長の命に反抗するわけにはいかず、居城の一つ丹波国の亀山城に戻り、出陣の準備を整えていた。そこへ信長からの書状が届き、それは、領地替えを命ずるものであった。光秀の領地は、丹波国と坂本城を中心とした近江国の一部であるが、それを召上げ、代わりに出雲と石見の二か国を与えるというものであった。
領地としての価値はともかく、出雲も石見も現状では毛利氏の支配下にあり、「勝手に奪って来い」というばかりの仕打ちであった。

五月二十七日には、明智軍の出陣体制は完了した。
この日、光秀は戦勝祈願のため愛宕神社に詣でた。その時、神前でくじを引いた。一度、二度、三度まで引き続けたが、いずれも凶であったといわれている。
その夜は愛宕山で一夜を過ごし、翌日は親しい人たちを集めて連歌の会を催した。この時詠んだのが、
 『 ときは今 あめが下たる 五月かな 』
という句である。
「とき」は光秀の出自とされる土岐氏を指しており、「あめが下たる」は天下を治めるという意味を含ませていて、光秀が信長を倒して天下に号令しようと決意したものとされている。

やがて、時は至り、光秀は采配を振るう。
「敵は本能寺にあり」
明智軍は方向を転換し、京都に向かった。
この時、信長を討つことを知っていた者は、側近のごくわずかな人数であったという。本能寺を包囲し、乱入していった後も、雑兵たちの多くは、自分たちが討とうとしているのが誰かさえ知らされていなかったという。
しかし、明智光秀のクーデターは、あっけないほどに成功してしまうのである。


    ☆   ☆   ☆

明智光秀という人物は、実に分かりにくい。
歴史上の人物といわれるような人で、その出生や経歴などよく分からない人物は少なくない。江戸時代に入り、社会が落ち着きを見せた後は、ある程度正確な情報が残されているようであるが、それでも、時の権力者などにより何らかの手が加えられていることはごくふつうにみられる。
それが戦国時代以前となれば、出生の年月や出身氏族などが判然としない例は少なくない。後に出世した人物であればあるほど、そこには意図的な捏造もあって、よく分からない人物は光秀に限ったことではない。

まず、光秀の生年であるが、享禄元年(1528)というのが有力である。これは、西教寺過去帳に享年五十五歳という記録があることなどに基づいたもので、それなりの根拠があるとはいえる。但し、他にも大永六年(1526)、永正十二年(1515)という説もある。
生年が少々違ったところでどうということはないように思われるが、永正十二年が正しいとなれば、享年は六十八歳となり、光秀の生前の行動について大分違った見方が出てくるかもしれないのである。
一応、享年を五十五歳として話を続けると、光秀は、信長より六歳年長であり、秀吉より九歳年長ということになる。この年齢差が、光秀の生涯に少なからぬ影響を与えたように思われてならない。

明智氏は、清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族とされる。そうなれば、間違いなく名門の家柄であるが、どの程度信頼できるものかよく分からない。多くの研究者の意見や文献などもあるようだが、どうも完全に信用することが出来ない。
もっとも、当時の新興の大名たちには、もっともらしい先祖や家系図を作り上げた人物は少なくないので、光秀もその一人なのか、それとも由緒正しい出自なのか分からない。秀吉などは、後年、天皇家につながる云々の話を作り上げようとしていたらしいが、これなどは、四百年後の私たちでも笑い話に出来るが、先祖は土岐氏だということになると、一概に架空の話とは言い切れない。
ただ、光秀の母は若狭国守護の武田氏の出身とされ、また叔母が斎藤道三の夫人で、信長の妻となった濃姫とはいとこにあたるという話もあるので、美濃国守護土岐氏の一族であるということも、否定できない。
ただ、父の名前は諸説ありはっきりしないし、生地も現在の美濃国可児郡の明智荘らしいということで、土岐氏の一族としても、一家は相当没落していたと考えられる。

信長の家臣の中では、秀吉がずば抜けた出世頭のように語られることが多いが、実は光秀もそのめざましさでは負けていない。
秀吉は貧しい農民の出身で、裸一貫出世街道を上りつめたという見事な立身を成し遂げていることは確かであるが、光秀とてもそれに劣らぬ立身を成し遂げているのである。少なくとも、信長を倒し、秀吉と山崎で戦うまではである。
光秀の若い頃の動静については、さまざま伝えられているが、信長に仕えるまでのことは今一つはっきりしないのである。つまり、朝倉氏などに仕えていたことは確かのようであるが、それほどの地位にはついていないと考えられる。

光秀が信長に仕える以前については定かでないが、最初は斎藤道三に仕えていたらしい。道三が家督を譲った嫡男義龍に敗れた長良川の戦いには、道三方として加わっていて、敗戦後は母方の縁で若狭国守護の武田家を頼り、その後朝倉家に仕官したらしい。
永禄八年(1565)、室町幕府第十三代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀に討たれたため、その弟義昭がその跡を継ぐべく若狭国の武田家を頼り、後に朝倉氏に上洛の支援を求めて移っている。どうやら、このあたりで、光秀は足利義昭の信頼を得たらしい。
しかし、朝倉義景はなかなか動かず、美濃を手中にして意気盛んな信長を頼ることになり、光秀が斡旋に動いたとも言われるが、この頃には、すでに信長の家臣になっていたようである。

歴史上、光秀の足跡が明確なものは、永禄十二年(1569)四月、木下藤吉郎・丹羽長秀・中川重政らと共に連署状に名を連ねている物が最も古いようである。光秀、四十二歳の頃で、この頃にはすでに一軍の大将格まで出世していたことになる。
年齢はともかく、当時の信長の大将格の家臣の中で、光秀は最も遅くに信長に仕えている。その異例ともいえるスピード出世に、秀吉や、家臣の筆頭格である柴田勝家でさえ妬むほどであったという。
光秀自身も、信長の過分な引き立てに感謝していたといわれ、またそれに応えるだけの働きをしたようである。
光秀といえば、どちらかといえば、公家や将軍家との折衝役として優れ、文官としてのイメージが強いが、信長の天下布武への激しい戦いに数多く参陣し、丹波平定など大将としても十分な働きを残している。

しかし、明智光秀は、織田信長の旗下で生涯を送ることを潔しとしなかった。
分からないことの多い光秀であるが、「敵は本能寺にあり」と采配を振るった真意は何であったのか、古来、この謎は今なお明確にされていない。
以下は、稿を改めさせていただく。

                                                 ( 完 )

 

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