雅工房 作品集

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運命紀行  ただ、導かれて

2014-07-08 08:00:03 | 運命紀行
          運命紀行
               ただ、導かれて

わが国にキリスト教が伝えられたのは、天文十八年(1549)にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによってとされるのが定説であろう。
もっとも、五世紀の頃には、すでに中国を経由してその教えの一端は伝来していたという説もあり、また、種子島に鉄砲が伝えられたのは、これより六年ほど前のことであるから、漂着したポルトガル人によってキリスト教の片りんのようなものを教えられていた人物がいたかもしれない。

それはともかく、はるばるとキリストの教えをあまねく広めるべき使命を受けた宣教師たちの一人であるザビエルやその後任者たちは、仏教あるいは神道、さらに言えば、八百万の神々がおわします日本に、新しい神の教えを組織的に広めようとやってきたのは、わが国が戦国時代の真っただ中の頃であった。
彼らは、多くの苦難と激しい抵抗にあいながらも布教を続け、次第に信者の数を増やしていった。
どうやらイエズス会やザビエルは、地方を統治している大名を通じて、国守である天皇なり足利将軍家の了承を得さえすれば、他宗教勢力の抵抗はあるとしても、わが国全土に布教活動を展開できるものと考えていたようである。
しかし、当時のわが国は群雄割拠の状態で、全国に号令できる権力者などいなかったのである。

宣教師たちは、各地の有力大名を訪ね、一国ずつ手さぐりで布教を進めて行くことになったが、彼らにとって幸いなことは織田信長という英雄が登場したことであった。各地の大名が宣教師の布教活動を認めてきた一番の理由は、南蛮貿易での利益であり、特に鉄砲・弾薬を手に入れる見返りを期待してのことであった。その点は信長も同様であったと思われるが、彼には、仏教など既存の宗教勢力に対する不信感も強かったようである。
信長による保護もあって、キリシタンと呼ばれる信徒たちは急速に数を増やし、大名やその家族にも入信する者が増えていった。
なお、キリシタンという言葉は、ポルトガル語からきたものでキリスト教徒といった意味であるが、英語ではクリスチャンとなる。現代では、キリシタンといえば、戦国時代から江戸時代にかけて、明治初期にキリスト教信仰が認められるまでの間のキリスト教徒に限られて使われるのが普通である。

順調にその数を増やしていたキリシタン信者であるが、信長の突然の横死により大きな苦難が襲うことになる。
その後天下を掌握した豊臣秀吉も、最初はやはり交易による利益から宣教師やキリシタンの活動を容認していたが、その後禁教と厳しい弾圧政策に舵を切った。その理由には、領主よりも神を絶対視する教えに危険なものを感じたとも、日本国民を海外に連れ出していることに激怒したとも、いくつかの理由があったようである。
秀吉の弾圧は厳しいものではあったが、それほど徹底されたものではなかったらしく、その後天下を握った徳川家康も、当初はキリシタンを弾圧するようなことはなかったようである。
しかし、家康も慶長十九年(1614)に禁教令を出し、寛永十四年(1637)に勃発した島原の乱以後は江戸幕府はキリシタンの完全消滅に方針を固めたのである。その二年後には鎖国政策が徹底され、寛永二十一年(1644)には、国内からカトリック司教は完全にいなくなったのである。

ここに、わが国のキリスト教の歴史は、表の歴史からは消え去ったことになる。
しかし、キリシタンがいなくなったわけではなかった。隠れキリシタンと呼ばれることになる人々は、世界史的に見ても残酷な試練に直面されながらも、そして多くの犠牲者を出しながらも、一部の人たちは棄教した形をとりながらもキリストの教えを守り続けたのである。
秀吉や江戸幕府による厳しい弾圧が始まる直前のキリシタンの数については推定が難しい。数十万人ともいう具体的な数字が示されている資料もあるらしいが、そもそも、現代でも同じであるが入信者の数を正しく把握することは極めて難しい。当時のキリシタンとされる人々も、単なる交易上の便利や、軍事的、あるいは強制的な形で入信していた人も少なくないはずで、純粋にキリスト教の教えに真髄していた人となれば、そうそう多くはなかったはずである。

しかし、隠れキリシタンと呼ばれることになる人々は、江戸幕府の厳しい詮索と弾圧の中で、小集団でそれぞれに教えを守り続けたのである。指導的立場であるはずの司祭も司教もわが国からいなくなって後、実に二百年余にわたって信仰の灯を守り続けたのである。
ある調査によれば、大正から昭和の初期の頃に、隠れキリシタンとして守り続けてきた教えになお携わっている人が、二万人ないしは三万人いたという。驚異的と表現すべき人数である。
この強靭な信仰集団を各地に残した背景には、おそらく、激しい弾圧の中で、特に江戸時代初期の世相の中で、何物にも揺らぐことのない信念を持った人々がいたからであろう。それは、現在私たちが歴史の事実として知るキリシタン弾圧の事件により倒れていった人ばかりではなく、キリシタンであり続けたことも知られることなく、密やかに、されど強靭に生きにいた人々がいたからなのであろう。

マセンシアという洗礼名を持つ女性も、そのような一人だったといえるかもしれない。


     ☆   ☆   ☆

マセンシアは、元亀元年(1570)に豊後の有力大名である大友義鎮 ( ヨシシゲ・後の宗麟 ) の七番目の娘として誕生した。名前は桂姫、あるいは引地の君と呼ばれた。
大友家は、義鎮の父義鑑(ヨシアキ)が、種子島に漂着したポルトガル人を呼び寄せるなどいち早く南蛮貿易に取り組んでおり、その利益と、とりわけ鉄砲の入手により勢力を広げていた。
一族内の争乱を切り抜けて家督を継いだ嫡男の義鎮も、ザビエルが日本にキリスト教を伝えた二年後には自邸に迎え、厚くもてなし布教の便宜も与えている。しかし、彼は熱心な仏教徒でありキリスト教に入信することはなく、その狙いは、やはり南蛮貿易で優位に立つ手段であったと思われるが、結果として、難航していたキリスト教の布教に尽力したともいえた。

やがて、義鎮の妻女や子供たちも入信した。桂姫が入信したのは十六歳の頃とされるが、乳母のカナリナという女性の影響が強くあったらしく、母たちの入信より後のことかもしれない。
天正十五年(1587)、桂姫は小早川秀包と結婚した。秀包は、桂姫より三歳年上であるが、この人物も波乱の生涯を送っている。

秀包(ヒデカネ)は、永禄十年(1567)毛利元就の九男として誕生した。その時には、長兄の隆元はすでに没していた。
元亀二年(1571)、五歳にして早くも備後国内に所領が与えられたが、同年、備後の国人である太田英綱が死去したことから、その遺臣たちに懇願されて後継者となり太田元網と名乗った。当然、年齢的に本人に判断能力などなく、毛利氏の政策の一環であっただろう。
天正七年(1579)、母の乃美大方が小早川氏の庶流である乃美氏の出身であることもあって、兄の小早川隆景の養子となり、元服とともに小早川元総を名乗った。
天正十一年(1583)、人質として、甥の吉川広家とともに大阪の秀吉のもとに送られた。この時、秀吉より秀・藤の文字を送られ、藤四郎秀包と名乗りを変えている。

秀包は毛利元就の実子であり、容姿にも秀でていて、秀吉にはずいぶん可愛がられたようである。
人質とはいえ束縛などほとんどなく、小牧・長久手の戦いには秀吉に従って出陣している。
天正十三年(1585)には、河内国内で一万石が与えられ大名身分となり、次いで、四国征伐の戦功で伊予国大津城で三万五千石が与えられている。
天正十四年から始まった九州征伐では、養父である小早川隆景に従って出陣、戦後、隆景か筑前・筑後を領すると、筑後三郡七万五千石が与えられ、翌年久留米城を築き居城とした。
大友家より桂姫を妻に迎えたのはこの頃のことである。また、洗礼を受け、シマオという洗礼名を受けているが、桂姫の影響も少なからずあったと考えられる。

その後も、朝鮮の役にも出陣し、その功で十三万石に所領を増やし、秀吉からは、羽柴の姓が与えられ、次いで豊臣も与えられている。
しかし、文禄三年(1594)に、隆景は、秀吉の養子である木下秀俊 ( 後の小早川秀秋 ) を養子に迎えることを決断、秀包は嫡子であることを廃され別家を立てることとなった。これには、毛利本家に養子を送り込もうとしていた豊臣政権の企みを防ぐため、隆景が小早川家を犠牲にしたという説も根強い。
それはともかく、この判断が秀包に大きな影響を与えたが、やがて豊臣政権消滅への一因を為すことになったのでもある。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、秀包は西軍に属し、立花宗成らとともに京極高次が立て籠もる大津城を攻撃、多くの犠牲を出しながらも陥落させたが、肝心の本戦は、小早川秀秋の裏切りもあって、西軍は大敗を喫してしまったのである。
戦後、改易となり、毛利本家より長門国内に所領が与えられた。その折に、秀秋の裏切りのそしりを受けることを嫌い、小早川から毛利に姓を戻し、同時に剃髪している。
その頃、すでに体調を崩しており、慶長六年(1601)、三十五歳でこの世を去った。

さて、秀包の妻となった桂姫の消息は極めて少ない。
朝鮮半島に渡るなど戦いに明け暮れる夫に代わって、久留米城の守りに奔走していたことと考えられる。
関ヶ原の戦いは、本戦ばかりでなく全国で東西両陣営の間で激しい戦いがあった。
桂姫が留守を預かる久留米城も、加藤清正、黒田如水 ( 官兵衛 )、鍋島直茂らの攻撃を受けた。三万五千にも及ぶ攻撃軍に対して、久留米城の守備兵は宿老桂広繁以下五百ほどで、数日の抵抗後開城となった。
桂姫と嫡男元鎮らは黒田軍のもとに送られたが、その後、長門国内の秀包のもとに帰り着いている。これには、同じくキリシタンであった黒田家重臣・黒田惣右衛門直之の援助があったらしい。

秀包没後、嫡男の元鎮は毛利家当主輝元より改めて長門国阿川の地に七千石が与えられ、その子・元包は周防国吉敷に領地替えとなり一万一千石に加増されている。これにより、秀包の子孫は吉敷毛利家として一門を支えていくのである。
三十二歳の若さで未亡人となった桂姫は、おそらく息子たちと行動を共にしたと考えられるが、生涯をマセンシアという洗礼名で通したようである。
時代は、徳川氏の時代となり、キリシタンに対する締め付けは厳しくなるばかりであった。
また、当主輝元は、もともとキリシタンを嫌っていたようで、桂姫に対しても棄教を厳しく迫っていたようである。しかし、当主の立場であるとはいえ、桂姫は義理の叔母にあたることもあり、何よりも、桂姫の人柄と敬虔な信仰心とを砕くことはできず、黙認するようになったという。

桂姫、洗礼名マセンシアは、その信仰心を微動だに揺るがせることもなく七十九歳で天に召された。
慶安元年(1648)のことで、秀吉や家康による禁教令からは久しく、島原の乱からも十年を経ていた。亡骸は毛利家の菩提寺に葬られたが、墓地からは遠く離れた山中であったという。一族にキリシタンを抱えた毛利家の苦しい対応が窺える。
その生涯は、今に伝えられているものはあまりに少ないが、彼女のように生きた多くの人たちが、二百数十年に渡って心の灯を守り続けたことを思うと、まことに感慨深い。

                                                     ( 完 )







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