雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

深草の山

2023-10-25 08:01:10 | 古今和歌集の歌人たち

     『 深草の山 』


 空蝉は 蛻を見つつも なぐさめつ
          深草の山 煙だに立て

         作者  僧都 勝延

( 巻第十六 哀傷歌  NO.831 )
      うつせみは からをみつつも なぐさめつ
               ふかくさのやま けぶりだにたて


* 歌意は、「 はかないものの代表のような空蝉でも その抜け殻を見れば 慰められる すでに葬られた今となっては 深草の山よ せめて煙など立てて 慰めておくれ 」といった、亡き人を偲ぶ歌でしょう。
この和歌の前書き(詞書)には、「 堀河の太政大臣、身まかりにける時に、深草の山にをさめてけるのちによみける 」とありますので、堀河の太政大臣(藤原基経)の葬送直後に詠んだ和歌ということになります。

* 作者の僧都勝延(ソウズ ショウエン)は、平安時代初期の僧です。( 827 - 901 )行年七十五歳です。
勝延の出自は、笠氏(カサノウジ)らしいのですが、両親の名前などは伝えられていません。また、僧籍に入った経緯なども伝えられていないようです。
笠氏は、古代の吉備の豪族で、日本書紀などによりますと、景行天皇の妃となり日本武尊を生んだ播磨稲目大郎姫は笠氏の出身のようです。
ただ、平安時代の頃には、現在に伝えられているような笠氏に関する情報は極めて少ないようです。
作者に関するエピソードのようなものも、見つけることが出来ませんでした。  

* 勝延が少僧都の位に就いたのは、898 年のことです。すでに七十二歳になっていました。
僧都という位は、僧綱という職位には、上から、僧正・僧都・律師とあり、少僧都は僧都の中の最下位ですが、決して低い地位ではありません。俗世界の地位に当てますと、従五位あるいはもう少し上ともされていたようですから、貴族に当たる地位ということになります。
しかし、その地位に就いた七十二歳というのは、当時としては相当の高齢に当たります。勝延もこの三年後に没しています。

* 掲題の和歌を詠んで見送った藤原基経は、政権の頂点にあって藤原北家の繁栄を導いた人物の一人です。挽歌を詠んだからといって、格別の後援を受けていたということではないのでしょうが、貴族社会と比較的近い関係の生涯だったのではないでしょうか。
伝えられている和歌は、勅撰集にはこの一首だけですから、歌人というほどでもなかったのでしょうし、名僧らしい伝承も残されていませんが、逆に言えば、そこそこの家柄から比叡山に登り、大きな事件に巻き込まれることなく、穏やかに仏への道を歩き続けた生涯であったのかもしれない、と思うのです。

     ☆   ☆   ☆

 


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