『 涙 川 』
流れいづる 方だに見えぬ 涙川
沖ひむときや 底は知られむ
作者 都 良香
( 巻第十 物名 NO.466 )
ながれいづる かただにみえぬ なみだがわ
おきひむときや そこはしられむ
* 歌意は、「 流れ出ている 源さえ分らないほどの 涙川だが 川の奥底まで干上がったときには その深さが分るだろうか 」といったもので、恋歌なのでしょう。
この歌の題名には、「おき火」とあり、『物名』に編集されています。『巻第十 物名』に入っている歌全部に言えることですが、「おき火」を詠み込む為に作られたものなのか、偶然その文字が詠み込まれていたかによって歌の持つ意味は大きく変ってきます。本歌の場合も、同様です。
* 作者の都良香(ミヤコノヨシカ・834 - 879 )は、平安時代前期の文人・貴族です。
都という姓は、伝来されたものではなく、良香の父である桑原貞継が、822 年に、兄など共に改姓したものです。
桑原一族は、地方官と中央官を務めるような豪族だったようですが、貞継の父桑原秋成は貴族とされる従五位下まで上りましたが、外位(外従五位下)としてで、内位である中央貴族と明確に区別されたようです。
改姓を願い出たのには、このあたりの事情もあったと推定されますが、それにしても、「都」というのは思い切った姓を選んだものです。
その貞継も、やはり従五位下に上ったときは「外位」としてで、後ろ指を指されない貴族である「内位」の従五位下に叙されるまでに四年の年月を要しているのです。
もちろん、その格差を克服するのには、四年の年月だけではなく、その能力が認められたということであり、旧儀に大変通じていたと伝えられています。
* 良香が誕生した時は、すでに都姓になっていましたが、改姓したからと言って、そうそう条件が良くなるわけではなかったでしょう。ただ、父もそうだったようですが、良香はたいそう学才に優れていたようです。
860 年、文章生に補され、文章得業生(成績優秀な者二名が選ばれ、官吏登用のための試験の受験候補とした。)となり、869 年に対策(官吏登用試験)に及第、870 年に少内記(中務省の官吏。正七位上相当か?)に任官しています。
そして、注目すべきは、一年遅れて 870 年に対策を受験した菅原道真の問答博士を良香が勤めているのです。後に学問の神様と尊敬されることになる道真は、良香より十一歳ほど下ですから、さすがにその俊才ぶりが窺えますが、道真も少内記を経験し、従五位下に上ったのが、良香が 872 年で道真が 874 年で、従五位上に上ったのが道真が 879 年 1 月ですが、この年の 2 月に良香は亡くなりました。
年齢に大きな差はあるとはいえ、二人が官吏となってから十年ほどの間は、官吏としての実務能力は互角に近かったのではないでしょうか。家柄が重視されるこの時代、比較するさえ無意味なほどのハンディを背負いながら、あの道真と互角に近い能力を示した良香は、もっと評価されるべきのように思うのです。
ただ、政治力ということでは雲泥の差があったのでしょうか、この後、道真は目覚ましい昇進を遂げ右大臣にまで上り、やがて政争に巻き込まれ、数奇な生涯をたどることになります。
* さて、良香は、872 年に従五位下大内記に叙任され、貴族の仲間入りを果たします。父たちの願いが叶い、「外位」を付けられることはありませんでした。そして、875 年からは文書博士(大学寮の教官)を兼ねました。
漢詩漢文に優れ、詔勅・官符(カンプ・公文書)や対策の設問などを起草しました。漢詩は「和漢朗詠集」や「新撰朗詠集」に採録されており、各種の伝承も記録しており、富士登山の記録も残されているそうです。
* 871 年より編纂の始まった「日本文徳天皇実録」(六国史の第五にあたる歴史書)にも関与しましたが、完成直前の 879 年 2 月に死去しました。「日本文徳天皇実録」が完成したのは、その年の 11 月のことでした。
良香の四十五年の生涯(行年は四十六歳)は、当時の平均的な寿命から見れば、極めて短命ということではないのでしょうが、豊かな才能を開ききるには、短すぎたような気がしてなりません。
特に、政治家として昇進を重ねる菅原道真に対して、学問の道を歩き続けたであろう都良香の姿をせめてあと十年でも見せて欲しかったと思うのです。
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