『 峰の雲にや 』
郭公 峰の雲にや まじりにし
ありとは聞けど 見るよしもなき
作者 平 篤行
( 巻第十 物名 NO.447 )
ほととぎす みねのくもにや まじりにし
ありとはきけど みるよしもなき
* 歌意は、「 ほととぎすが 峰の雲間に 入ってしまったらしい 声だけは聞こえてくるが 姿を見ることができないなぁ 」といったもので、のどかな光景を詠んだものと受け取れます。
ただ、この歌の題として、「やまし」と記されています。「やまし」とは、はなすげ(ゆり科の多年草。「やまじ」とも。)の異名だそうで、この歌が『物名』に加えられていることから、それを詠み込むために作られたのかもしれません。
もし、そうだとすれば、「うまく詠み込んだものだ」という気持ちより、せっかくの作品が味気なく感じられるような気がするのです。
個人的には、出来上がった作品の中に、偶然「やまじ」が入っていたのだと考えたいのですが、本当はどうだったのでしょうか。
* 作者の平篤行(タイラノアツユキ)は、平安時代前期の貴族です。生年は未詳ですが、亡くなったのは 910 年です。
父は、興我王という皇族です。桓武天皇の曾孫に当たるようですが、両親が誰だかよく分りません。
興我王は 860 年に従五位下を直叙されて、869 年に従五位上に上っています。その後、871 年、881 年、884 年には伊勢神宮への奉幣使を務めていますので、皇族の一員として活動していたと考えられます。そして、886 年に、篤行らのわが子5人に平朝臣の姓を賜って臣籍降下させています。興我王自身も臣籍降下したのか皇族のままであったのかは確認できませんが、その前年あたりは、山城守として地方官を勤めていたようです。
* さて、作者の篤行ですが、上記のように、886 年に臣籍降下していますが、後の経歴などから推定すれば、10歳前後だったのではないでしょうか。
893 年に文章生に補され、秀才(文章得業生のことか?)を経て、898 年に対策(官吏登用のための試験)に及第しています。この間にも地方官として勤めているようですが、899 年に式部少丞、902 年に式部大丞(文部官吏で六位程度の官職。)に就いています。
この文章生に選ばれるのは、相当優秀な人材に限られていたようです。あの菅原道真も選ばれていますが、その時の年齢が18歳でした。それから考えますと、篤行の年齢も、それより上と推定されます。
* 903 年に従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしました。おそらく、二十代後半から三十代前半にかけての頃だったのではないでしょうか。
これと同時に地方官に転じ、三河守、筑前守を勤め、909 年には大宰少弐を兼任しました。
この間に、従五位上に上っていますが、910 年 1 月に亡くなりました。行年は、まだ40歳前後だったのではないでしょうか。
* 平篤行の官暦を見る限り、下級貴族としては平均的な生涯だったのではないでしょうか。
しかし、篤行が臣籍降下したのは、おそらく、十分物心がついた年頃だったでしょうから、それが、彼の生涯にどのような影響を与えていたのか、少し気になるところです。
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