雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

知る人のなき

2024-07-15 07:59:37 | 古今和歌集の歌人たち

     『 知る人のなき 』


 わが恋は み山がくれの 草なれや
         繁さまされど 知る人のなき

          作者  小野美材

( 巻第十二  恋歌二 NO.560 )
       わがこひは みやまがくれの くさなれや
               しげさまされど しるひとのなき


* 歌意は、「 私の恋は 奥山の山陰にそっと生えている 草のようなものです いくら激しく繁ろうとも 知ってくれる人はいないのだ 」といった秘めた恋を詠んだものでしょう。

* 作者の小野美材(オノノヨシキ・ ? - 902 )は、平安時代前期の官吏で下級貴族に上っています。
父は、小野俊生、あるいは小野忠範と伝えられています。この二人は小野篁(オノノタカムラ)の子息ですから、美材が篁の孫であることは、確かなようです。
篁(タカムラ・ 802 - 853 )は、学問に勝れ、従三位参議を勤めた人物ですが、本稿はじめ当ブログのあちらこちらに登場する、私の大好きな人物です。ただ、その伝えられている逸話などは、舞台が閻魔大王まで登場するスケールの大きさで、判断に迷う物が多いようです。 

* 美材の誕生年は不明ですが、伝えられている情報から推定しますと、860 年前後と思われます。まだ、篁の死後十年ほどしか経っていない頃の事です。
伝えられている情報によりますと、
880 年に、穀倉院学問料を受けています。これは奨学金のようなものですが、美材がはじめてのことのようです。つまり、相当学問の面で勝れていたか、篁の影響力が残っていたかのどちらかと考えられます。
886 年、文章特業生(文章生のうち優秀な者二名が選ばれた。)となり、892 年に対策(官吏登用のための試験。)に及第し、894 年に少内記に就いています。少内記は正八位上相当官です。
これらのことから、文章生としては極めて優秀であり、大変な能書家であったという逸話もありますので、篁の才能の片鱗を受け継いでいるようにも思われますが、官吏としての昇進はままならなかったようです。

* 897 年に、従五位下を叙爵し貴族の仲間入りを果たしています。三十代後半の頃ではないかと推定されますが、本人の努力面が大きかったような気がしてなりません。
これにより大内記となり、以後、伊予権介、信濃介と地方官に就き、902
年に亡くなりました。
おそらく、学問の面では高い能力を有していたであろう美材としては、官吏としては満足できるものではなかったのではないでしょうか。
伝えられている小野氏の系図によりますと、美材は篁の孫であり、あの小野小町や小野
道風はいとこにあたります。
ただ、美材を含め彼らの生母は伝えられておらず、例えば、小町の父とされる小野良真は美材の父の異母弟にあたると思われますが、出羽の郡司であったとされ、小町伝説に合わされたようなところがあります。資料によっては、良真を伝説上の人物としているものさえあります。

* こう見てきますと、美材もまた現実と幽玄の世界の狭間で生きたようにも考えてしまいますが、伝えられている美材の官職などは事実でしょうから、おそらく、豊かな才能に恵まれながらも、藤原氏の台頭などもあって、歯を食いしばって生きた多くの下級貴族の一人なのかもしれません。
しかし、それゆえに、晩年は地方官を勤めているので、中央政治のトラブルに巻き込まれることなく、心身共に意外に豊かな生涯だったのかもしれません。

     ☆   ☆   ☆  
 


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