『 わびしき春霞 』
花の散る ことやわびしき 春霞
たつたの山の うぐひすの声
作者 藤原後蔭
( 巻第二 春歌下 NO.108 )
はなのちる ことやわびしき はるがすみ
たつたのやまの うぐひすのこえ
* 歌意は、「 花が散ることが 心細いのか 春霞が立っている たつたの山の うぐいすが鳴いているよ 」と、行く春を惜しむ歌でしょう。
この歌の前書き(詞書)には、「仁和の中将の御息所の家に歌合せむとて、しける時によみける 」とありますので、歌会で詠まれた作品だと考えられます。
ただ、この中将、あるいは御息所が誰かは不詳です。
* 作者の藤原後蔭(フジワラノノチカゲ)は、平安時代前期の貴族です。
生没年は不詳ですが、官暦などが伝えられていますので、880 年前後から 923 年頃にかけて生存した人物と考えられます。
後蔭は、藤原北家末茂流の従三位中納言藤原有穂の次男として生まれました。公卿の子息ということになります。母は、正妻の安倍興武の娘です。安倍興武の官位などは不詳ですが、下級貴族の家柄と推定されます。
* 後蔭の伝えられている官暦の一部を列記してみます。
895 年、大蔵大丞。
897 年、宇多天皇の六位蔵人。譲位後も醍醐天皇の蔵人を勤める。
その後、左近衛将監。
902 年、従五位下を叙爵して貴族の仲間入りを果たす。越中守に就く。
904 年、左馬助。 907 年、佐兵衛佐。 910 年、左近衛少将。
911 年、従五位下。 917 年、正五位下。 919 年、従四位下。
923 年正月、右近衛督。
以上のように、主として武官として勤め、順調に昇進したようです。
後蔭の記録は、この後は残されていないようなので、程なく死去したのではないかと思われます。
* 後蔭が活躍した時代は、すでに藤原氏、それも北家の勢力が宮廷政治を牽引する状況になっていました。
北家は、藤原不比等を父とする四兄弟のうちの次男房前を始祖とする家柄です。
房前の子孫は幾筋もに分かれていますが、有力なものとしては、
「房前ー真楯ー内麻呂ー冬嗣ー良房・・」という流れが権力の中枢を握り「道長」の時代へと繋がっていきます。
これに対して、「房前ー魚名ー末茂ー総継ー直通ー有穂ー後蔭」の系列は劣勢であり、良房( 804 - 872 )以降は、差は広がるばかりだったでしょう。
後蔭は、そうした情勢下の真っ只中で生きたのでしょう。
* しかし、そうした中での後蔭の昇進は、並の貴族として十分なものと思われます。おそらく、武官としての能力が評価されたのでしょうが、当時は、武官や武者の地位は決して高くはなかったようです。
後蔭が歌人として評価された記録は残されていません。その武官としての活動が長かったと考えられる彼でさえ、歌会に加わって和歌を詠んだことが伝えられていることに、当時の貴族の生活の一端が窺えるような気がするのです。
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