雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ランプの出湯   第八回

2010-05-18 17:19:44 | ランプの出湯
          ( 4 - 1 )

私が宿に辿り着いたのは、夕方の五時を過ぎていた。
宿の主人は私が無事に帰りついたことを喜んでくれた。心配を懸けたことは申し訳なかったが、客とはいえ他人の私のために大げさに思えるほど喜んでくれる姿に少々戸惑っていた。

あと一時間も遅ければ警察に連絡するところだったという宿の主人の様子から、私が歩いていた登山道に比べこの宿の辺りの風雨はよほど激しいもののようであった。
距離にすればいくらも離れていないのだが、低気圧の位置の関係などで山の天候は大きく変わるのだろうと思ったが、実は、私には帰路の風雨の状況などに明確な記憶が残っていなかった。

主人の勧めで風呂に入った。電気は朝に復旧していて、今のところ無事なようである。
ずいぶん沸かしておいてくれたらしく、湯は昨日よりかなり熱く感じられたが、息を止めるようにして入った。熱い湯がじんじんと全身に襲いかかってくるような感覚がしていたが、しばらくするとその温度に慣れてきた。

自分では気が付いていなかったが、身体がかなり冷えていたらしく、湯の熱さはそのためだったのかもしれない。帰路の状況の記憶が依然あいまいなので、相当体を冷やし続ける状態を続けていたのかも知れなかった。

私は全身を伸ばし、大きく息をした。
周囲の雨や風の音は、昨日と変わらぬ激しさであった。ただ、頼りなげな電灯ではあるが、その明るさが現実の中にいることを実感させていた。
激しい風雨の音を聞き、白樺の木を打つ雨の飛沫を見ながら、私は、昨日風呂を共にした男と彼の息子のことを考えていた。

「あんな時間に、大きなリュックサックを背負って、彼はどこへ行こうとしていたのだろう」
私にとって、朝から何度目かの呟きであった。

風呂からあがると、ちょうど夕食の準備中であった。
「わしたちと一緒でも、いいですなあ」と、宿の主人は私の了解を得ながら配膳を進めていた。

私は部屋に着替えなどの荷物を置きに戻り、再び食堂におりた。
食事の席には宿の主人の母親が一緒だった。この夜の客は私一人だけで、経営者二人と客一人が一緒に食事をするという、まことに申し訳ない状態になった。

差し障りのない会話をしながらの食事は終わりかけていた。私の前には、デザートの大きな瓜が出されていた。

「昨日のあの方、息子さんとご一緒だったのですね」
私は、ずっと気になっていたことを口にしてしまった。別に不自然な話題ではないはずだが、私の気持ちの中で何かが引っ掛かっていた。

「息子さんって? 会ったのかいなあ?」
宿の主人の不審げな表情に、やっぱりまずかったかな、と私は直感した。しかし、打ち消すわけにもいかない。

「楽しそうな話し声が聞こえたものですから・・・。今朝お聞きしたら、息子さんが来たと言っていましたよ・・・」

短い沈黙があり、そのあと宿の主人は母親に向かって伝えた。

「昨夜、会えたらしいよ」
「息子さんとかい? それは、良かった・・・」

母親は私に向かって笑顔で話しかけてきた。私は、その笑顔に誘われるように母親に尋ねた。

「あの人たちのこと、ご存じなんですか?」
「ああ、よく知ってるよ」

「息子さんのこともですか?」
「よく知ってるよ」

「昨日か今日かに、会われました?」
「あの人には今朝会ったよ。わたしがバスを降りるときに、な」

母親は朝のバスに乗ってきたそうで、降りたときに入れ違いに乗り込むあの男と挨拶を交わしたそうだ。

「息子さんは、早くに帰ったそうなんですよ」
「あの人が言っていたのかな?」

「ええ、予定があるので早く帰ったって・・・」
「そうかい・・・。それなら、きっと、早くに帰ったんだろう・・・」

宿の主人は、私と母親の会話を興味深げに聞いていたが、私たちの会話に割り込むようにして母親に言った。

「事件のことも話してあげた方がいいよ。息子さんの声を聞いたとしたら、やっぱり気になるよ・・・」
「そうかなあ・・・。うん、そうかも知れんなあ・・・」

母親は、何度かうなずくと私に話し始めた。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ランプの出湯   第九回 | トップ | ランプの出湯   第七回 »

コメントを投稿

ランプの出湯」カテゴリの最新記事