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翌朝、友人宅を七時に出発した。
旅行中の天候は悪天候が予想されていたが、出発する時はまだ晴れていた。
私は大きなリュックサックを背負っていた。
リュックサックの中には、お母さんの作ってくれた弁当も入っていた。他には、毛布と着替え、緊急用の二食分程度の食料と水筒、懐中電灯、それに雨に備えての防水された衣類も準備していた。
この後二泊する予定であるが、旅館か山小屋に泊まる計画だったので、テントや寝袋は持っていなかった。それでも、かなりの量の荷物であった。
私は国鉄の駅前からバスに乗った。目的の高原地帯の真ん真ん中まで行くバスである。
日曜日の朝ということでバスは混雑していた。大半の乗客が私と同じように大きなリュックサックを背負っており、網棚では足らず通路も荷物でいっぱいの状態であった。
私が乗ったバスは、座席の数だけ客を乗せると、まだ定刻には大分時間があると思われたが出発した。そのあとには臨時便のバスが続いていて、乗り切れなかった乗客はそちらに乗車するようであった。
ちょうど夏休みが始まる頃で、シーズン中はこのような運行態勢が取られるようであった。
バスから降りた私は、その高原を代表するものの一つである小高い山に登った。
バスから降りた乗客のほとんどが同じコースを歩いていた。標高だけをみるとかなりの山のように思われたが、実際は高原の中に溶け込んでいるような優しい山で、規模は少し大きいが山というより丘という表現の方が正確なような気がした。
私は殆ど休憩を取らずに山頂を通り過ぎ、草原の中の道を急いだ。風が少し強いほかは真夏の太陽が一面の草の波をきらきらと輝かせていた。
湿原を縫うように整備されている遊歩道を巡り、再び草原の道を進んだ。途中でコースを少し離れて早めの昼食にした。
お母さんが作ってくれた海苔の巻かれた握り飯を食べながら、お母さんの故郷のことを考えていた。残念ながら今回は、お母さんから話を聞く機会がなかったが、なぜかお母さんの故郷を見てみたいという気持ちが強くなっていた。
私の父はサラリーマンで、私が生まれた町は育った土地とは別だったので、私には本当の意味での故郷はないと思っていた。
それが東京に出てきてからは、育った家や育った土地全体が私にとって特別の意味を持っていることに気付いていた。それだけに、あのお母さんの故郷のことが気になって仕方がなかった。
お母さんの生れた村はすでに廃村になったと聞いていたが、どういう理由で村がなくなってしまったのかは聞いていなかった。また、廃村という言葉自体が私にとって現実味のない言葉でもあった。
私の知識にある廃村としては、まず最初にダム工事のため湖底に沈んでいく村落のことが浮かんでくる。しかし、次に浮かんでくる具体的な例を私は持っていなかった。
湖底に沈まなくても、その関連の施設などのために一つの村が消えてしまうこともあるのかもしれないし、道路や空港などの大規模な土木工事には、村全体が消えないまでも故郷を捨てなければならない人も出てくるのかもしれない。
あるいは、村落そのものは存在していても、あまりにも厳しすぎる自然環境や生活の糧を得るのが困難なため、一人去りまた一人と故郷を捨てていき、西部劇に見るゴーストタウンのような状態となり廃村に至ることもあるのだろうか。
いずれにしても、村全体が消滅してしまうということは、地理上の故郷ばかりだけでなく、精神的なふるさとさえも失くしてしまうということではないかと思われる。それぞれの歴史や人間関係にどのような影響があるのだろうか。
私は昼食の後、寝転んで流れてゆく雲をぼんやりと見ていた。
真夏の太陽を浴びながら、お母さんの消滅してしまった故郷の村を想い、吹き荒れる雪の光景を想像していた。訪ねることが可能な場所であるなら、いつの日にかその場所に立ってみたいと考えていた。
流れている雲の量が増えてきたことに急かされて、私は歩きだした。次の目的地は、優雅な名前を持つS湖である。行程は草原の間のなだらかな道を下っていくもので、楽なコースであった。
しかし、S湖に着いたときにはとうとう雨が降り出していた。私は木陰で湖を眺めながらあとの行程を考えていた。
今夜泊まる予定の旅館までは、歩けばなお二時間ばかりを要する距離があった。時間的には十分余裕はあるが、天候が気掛かりであった。
雨はまだ小降りで上空も明るかったが、予報では夕方から相当の雨になると伝えられていた。さらに、私が歩いてきた方向からは真っ黒な雲が広がっていた。
私は一日に三本しかないその温泉行きのバスの時間に間に合うことを確認し、それに乗ることに決めた。そして、発車時間までの三十分程を土産物などを売っている湖岸のハウスで過ごすことにした。
翌朝、友人宅を七時に出発した。
旅行中の天候は悪天候が予想されていたが、出発する時はまだ晴れていた。
私は大きなリュックサックを背負っていた。
リュックサックの中には、お母さんの作ってくれた弁当も入っていた。他には、毛布と着替え、緊急用の二食分程度の食料と水筒、懐中電灯、それに雨に備えての防水された衣類も準備していた。
この後二泊する予定であるが、旅館か山小屋に泊まる計画だったので、テントや寝袋は持っていなかった。それでも、かなりの量の荷物であった。
私は国鉄の駅前からバスに乗った。目的の高原地帯の真ん真ん中まで行くバスである。
日曜日の朝ということでバスは混雑していた。大半の乗客が私と同じように大きなリュックサックを背負っており、網棚では足らず通路も荷物でいっぱいの状態であった。
私が乗ったバスは、座席の数だけ客を乗せると、まだ定刻には大分時間があると思われたが出発した。そのあとには臨時便のバスが続いていて、乗り切れなかった乗客はそちらに乗車するようであった。
ちょうど夏休みが始まる頃で、シーズン中はこのような運行態勢が取られるようであった。
バスから降りた私は、その高原を代表するものの一つである小高い山に登った。
バスから降りた乗客のほとんどが同じコースを歩いていた。標高だけをみるとかなりの山のように思われたが、実際は高原の中に溶け込んでいるような優しい山で、規模は少し大きいが山というより丘という表現の方が正確なような気がした。
私は殆ど休憩を取らずに山頂を通り過ぎ、草原の中の道を急いだ。風が少し強いほかは真夏の太陽が一面の草の波をきらきらと輝かせていた。
湿原を縫うように整備されている遊歩道を巡り、再び草原の道を進んだ。途中でコースを少し離れて早めの昼食にした。
お母さんが作ってくれた海苔の巻かれた握り飯を食べながら、お母さんの故郷のことを考えていた。残念ながら今回は、お母さんから話を聞く機会がなかったが、なぜかお母さんの故郷を見てみたいという気持ちが強くなっていた。
私の父はサラリーマンで、私が生まれた町は育った土地とは別だったので、私には本当の意味での故郷はないと思っていた。
それが東京に出てきてからは、育った家や育った土地全体が私にとって特別の意味を持っていることに気付いていた。それだけに、あのお母さんの故郷のことが気になって仕方がなかった。
お母さんの生れた村はすでに廃村になったと聞いていたが、どういう理由で村がなくなってしまったのかは聞いていなかった。また、廃村という言葉自体が私にとって現実味のない言葉でもあった。
私の知識にある廃村としては、まず最初にダム工事のため湖底に沈んでいく村落のことが浮かんでくる。しかし、次に浮かんでくる具体的な例を私は持っていなかった。
湖底に沈まなくても、その関連の施設などのために一つの村が消えてしまうこともあるのかもしれないし、道路や空港などの大規模な土木工事には、村全体が消えないまでも故郷を捨てなければならない人も出てくるのかもしれない。
あるいは、村落そのものは存在していても、あまりにも厳しすぎる自然環境や生活の糧を得るのが困難なため、一人去りまた一人と故郷を捨てていき、西部劇に見るゴーストタウンのような状態となり廃村に至ることもあるのだろうか。
いずれにしても、村全体が消滅してしまうということは、地理上の故郷ばかりだけでなく、精神的なふるさとさえも失くしてしまうということではないかと思われる。それぞれの歴史や人間関係にどのような影響があるのだろうか。
私は昼食の後、寝転んで流れてゆく雲をぼんやりと見ていた。
真夏の太陽を浴びながら、お母さんの消滅してしまった故郷の村を想い、吹き荒れる雪の光景を想像していた。訪ねることが可能な場所であるなら、いつの日にかその場所に立ってみたいと考えていた。
流れている雲の量が増えてきたことに急かされて、私は歩きだした。次の目的地は、優雅な名前を持つS湖である。行程は草原の間のなだらかな道を下っていくもので、楽なコースであった。
しかし、S湖に着いたときにはとうとう雨が降り出していた。私は木陰で湖を眺めながらあとの行程を考えていた。
今夜泊まる予定の旅館までは、歩けばなお二時間ばかりを要する距離があった。時間的には十分余裕はあるが、天候が気掛かりであった。
雨はまだ小降りで上空も明るかったが、予報では夕方から相当の雨になると伝えられていた。さらに、私が歩いてきた方向からは真っ黒な雲が広がっていた。
私は一日に三本しかないその温泉行きのバスの時間に間に合うことを確認し、それに乗ることに決めた。そして、発車時間までの三十分程を土産物などを売っている湖岸のハウスで過ごすことにした。
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