運命紀行
絶えなば絶えよ
『玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする』
神に仕える身となって、はや十年の年月が流れていた。
内親王宣下を受けるとともに、斎院となることを命じられたが、まだ少女である身にはその意味することは理解できなかった。もちろん、これまでも多くの内親王が、斎宮や斉院として伊勢神宮や賀茂神社に奉仕してきていることは承知していた。やがては、わが身にもその時が来るものとの予感もあった。
賀茂神社に仕える十年は、神官や巫女や女房にかしずかれた環境にあったが、少女から多感な年頃を経て大人の女性へと成長していく身には、あまりにも長すぎる年月であった。
また、世俗を離れた世界にあるといっても、賀茂神社の存在そのものが常に政治と密接な関わりを持つ以上、俗世の混乱が伝わってこないはずがなかった。
時代は、保元・平治の乱を経て、平氏の台頭が著しいさなかにあった。
後白河の第三皇女である式子内親王にとっても、平氏の台頭は微妙な影響を受けていた。
式子の母高倉三位局は藤原氏の出であるが、平氏の台頭とともに後白河の寵愛は平氏出身の建春門院滋子に移り、母は女御に登れず、兄の以仁王も親王宣下を受けられない状態にあった。
斎院式子内親王は、精神的に追い込まれていった。聡明であり多感であることは、歌人として名を成す才能となったが、同時に、こみ上げてくる激情を抑えるには、反作用となった。
やがて、病を得て、退下することとなった。二十一歳の頃である。
耐え難いほどの圧迫を受けていた斎院としての生活であったが、いざ離れるとなると、その胸に去来するものは何であったのか。
ふたたび皇女としての華やかな舞台を描いていたのか、あるいは歌人として生きようと考えていたのか、胸の奥深くに秘められた愛の灯はあったのか、それとも、ただただ、病の身に絶望の陰を滲ませていたのか・・・。
* * *
式子内親王が斎院を辞し実母のもとに戻ったのは、嘉応元年(1169)七月末の頃である。平清盛が太政大臣に就いたのが二年前のことで、まさに平氏一族がその絶頂期を迎えようとしていた。
その後、後白河院の法住寺に身を寄せたが、この頃はまだ後白河と清盛の対立は表面化していなかったと考えられ、比較的平穏な日々だったのかもしれない。
しかし、母のもとで健康を取り戻したとはいえ、平穏な日は長くはなかった。間もなく後白河と清盛の溝は深さを増し、さらに比叡山僧兵の横暴なども絡み、深窓にあるとはいえ式子内親王にも少なからぬ影響があったと思われる。
そして、治承元年(1177)には、母がこの世を去り、同じ年に、後白河の近臣が打倒平氏の密儀を謀ったとされる鹿ケ谷事件が発生、世情は激しさを増していった。
この三年後には、兄の以仁王が全国の源氏や有力寺社に対して平氏討伐の令旨を発するも、計画は早々に露見し、以仁王も討たれてしまった。
以仁王や源三位頼政の無謀と思えた旗上げは、各地の源氏を中心とする反平氏勢力を動かすことになった。
清盛による福原への遷都、父後白河院の策謀などに式子内親王も翻弄されるような日々が続き、やがて、清盛の死、そして平氏の滅亡から源氏政権へと時代は動いていく。
これは、時の実力者が、平氏から源氏へ移行したということだけではなく、貴族政治から武家政治への移行であり、歴史区分でいえば古代から中世への移行時期でもあった。
父後白河院の死去(1192)により、大炊御門殿などを譲り受けたが、この屋敷は時の関白九条兼実が住んでおり、事実上の横領状態が続き、兼実の失脚により移り住むことが出来たのは、四年以上も後のことである。
この他にも、呪詛の疑いをかけられるなどの災厄も受けているが、その一方で、准三后(太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮に準ずる位)の宣下を受けており、病のため実現に至らなかったが、東宮を猶子にするという処遇も得ているので、決して不幸な晩年ではなかった。
また、才女として知られ、特に和歌は、藤原俊成に師事し、その子定家とも親しく、新古今を代表する女流歌人として名を成している。
当時の女性として最も華やかな年頃を斎院として過ごした式子内親王に、結ばれた恋の記録は残されていないが、遥か年下の定家とのほのかな愛や、法然との純愛を示す研究者もいる。
五十歳を過ぎた頃から病がちとなり、建仁元年(1201)一月二十五日、波乱の生涯を終える。享年五十三歳。
この激しい時代を、皇女として、そして貴族としての輝きを失うことなく生きた女性であった。
『色々の花も紅葉もさもあらばあれ 冬の夜深き松風の音』
( 完 )
絶えなば絶えよ
『玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする』
神に仕える身となって、はや十年の年月が流れていた。
内親王宣下を受けるとともに、斎院となることを命じられたが、まだ少女である身にはその意味することは理解できなかった。もちろん、これまでも多くの内親王が、斎宮や斉院として伊勢神宮や賀茂神社に奉仕してきていることは承知していた。やがては、わが身にもその時が来るものとの予感もあった。
賀茂神社に仕える十年は、神官や巫女や女房にかしずかれた環境にあったが、少女から多感な年頃を経て大人の女性へと成長していく身には、あまりにも長すぎる年月であった。
また、世俗を離れた世界にあるといっても、賀茂神社の存在そのものが常に政治と密接な関わりを持つ以上、俗世の混乱が伝わってこないはずがなかった。
時代は、保元・平治の乱を経て、平氏の台頭が著しいさなかにあった。
後白河の第三皇女である式子内親王にとっても、平氏の台頭は微妙な影響を受けていた。
式子の母高倉三位局は藤原氏の出であるが、平氏の台頭とともに後白河の寵愛は平氏出身の建春門院滋子に移り、母は女御に登れず、兄の以仁王も親王宣下を受けられない状態にあった。
斎院式子内親王は、精神的に追い込まれていった。聡明であり多感であることは、歌人として名を成す才能となったが、同時に、こみ上げてくる激情を抑えるには、反作用となった。
やがて、病を得て、退下することとなった。二十一歳の頃である。
耐え難いほどの圧迫を受けていた斎院としての生活であったが、いざ離れるとなると、その胸に去来するものは何であったのか。
ふたたび皇女としての華やかな舞台を描いていたのか、あるいは歌人として生きようと考えていたのか、胸の奥深くに秘められた愛の灯はあったのか、それとも、ただただ、病の身に絶望の陰を滲ませていたのか・・・。
* * *
式子内親王が斎院を辞し実母のもとに戻ったのは、嘉応元年(1169)七月末の頃である。平清盛が太政大臣に就いたのが二年前のことで、まさに平氏一族がその絶頂期を迎えようとしていた。
その後、後白河院の法住寺に身を寄せたが、この頃はまだ後白河と清盛の対立は表面化していなかったと考えられ、比較的平穏な日々だったのかもしれない。
しかし、母のもとで健康を取り戻したとはいえ、平穏な日は長くはなかった。間もなく後白河と清盛の溝は深さを増し、さらに比叡山僧兵の横暴なども絡み、深窓にあるとはいえ式子内親王にも少なからぬ影響があったと思われる。
そして、治承元年(1177)には、母がこの世を去り、同じ年に、後白河の近臣が打倒平氏の密儀を謀ったとされる鹿ケ谷事件が発生、世情は激しさを増していった。
この三年後には、兄の以仁王が全国の源氏や有力寺社に対して平氏討伐の令旨を発するも、計画は早々に露見し、以仁王も討たれてしまった。
以仁王や源三位頼政の無謀と思えた旗上げは、各地の源氏を中心とする反平氏勢力を動かすことになった。
清盛による福原への遷都、父後白河院の策謀などに式子内親王も翻弄されるような日々が続き、やがて、清盛の死、そして平氏の滅亡から源氏政権へと時代は動いていく。
これは、時の実力者が、平氏から源氏へ移行したということだけではなく、貴族政治から武家政治への移行であり、歴史区分でいえば古代から中世への移行時期でもあった。
父後白河院の死去(1192)により、大炊御門殿などを譲り受けたが、この屋敷は時の関白九条兼実が住んでおり、事実上の横領状態が続き、兼実の失脚により移り住むことが出来たのは、四年以上も後のことである。
この他にも、呪詛の疑いをかけられるなどの災厄も受けているが、その一方で、准三后(太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮に準ずる位)の宣下を受けており、病のため実現に至らなかったが、東宮を猶子にするという処遇も得ているので、決して不幸な晩年ではなかった。
また、才女として知られ、特に和歌は、藤原俊成に師事し、その子定家とも親しく、新古今を代表する女流歌人として名を成している。
当時の女性として最も華やかな年頃を斎院として過ごした式子内親王に、結ばれた恋の記録は残されていないが、遥か年下の定家とのほのかな愛や、法然との純愛を示す研究者もいる。
五十歳を過ぎた頃から病がちとなり、建仁元年(1201)一月二十五日、波乱の生涯を終える。享年五十三歳。
この激しい時代を、皇女として、そして貴族としての輝きを失うことなく生きた女性であった。
『色々の花も紅葉もさもあらばあれ 冬の夜深き松風の音』
( 完 )