雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  埋れ木の輝き

2011-11-09 08:00:34 | 運命紀行
       運命紀行   

           埋れ木の輝き               


多勢に無勢、すでに勝敗の帰趨は明らかであった。
しかし、何とか一刻なりとも抵抗を続けなくてはならなかった。傷を得ている彼の王を落ち延びさせるためには短過ぎる時間だが、もう、その抵抗さえも難しくなっていた。

秘密裏に進めてきたはずの平氏打倒の挙兵計画が露見し、以仁王が園城寺に逃れて匿われた。
五月二十一日には平氏軍による園城寺攻撃軍が編成された。その攻撃軍の中には、源三位頼政も入っていた。平氏打倒決起を促す以仁王の令旨は平氏政権に押さえられていたが、源三位頼政の名はまだ表面化していなかった。
諸国の源氏勢力が挙兵していないいま、頼政一人が動いても蟷螂の斧にも及ばないことは明白であった。しかし、以仁王を見捨てるわけにはいかなかった。

その夜、頼政は自邸に火を放ち、一族を率いて園城寺に入った。挙兵計画では、比叡山延暦寺や奈良興福寺の決起も見込んでいたが、すでに延暦寺は平氏の働きかけで中立化していた。
二十五日夜、園城寺も危険な状態となり、頼政は以仁王を護って奈良興福寺に向かった。慌ただしい逃避行の中で以仁王が落馬し負傷を負い、途中の宇治平等院で休息を取った。
平氏軍はたちまちのうちに迫り来て、興福寺へ向かうの不可能となった。

密かに以仁王を脱出させた後、平等院に立て籠もった頼政以下一族郎党は懸命の抵抗を続けたが、次々と討たれていった。
頼政は、名高い歌人らしく辞世の句を残し、自刃した。
  『埋れ木の花咲くこともなかりしに みのなる果てぞ悲しかりける』
源三位頼政、享年七十七才であった。


     * * *

「驕る平家は久しからず」と噂されたとしても、一つの政権を倒すということは容易なことではない。
その切っ掛けを作った一人の男がいた。『源三位(ゲンサンミ)』と呼ばれた源頼政である。

頼政は、清和源氏の一族で摂津国に本拠地を持っていた。
天皇勢力と藤原氏勢力の軋轢が強まるとともに、武力をもつ豪族は官位は低くとも少しずつ力を蓄えていた。頼政の一族もそのひとつであるが、本拠地が都に近い関係から早くから天皇勢力との接触を持っていた。
武士勢力が平清盛派と源義朝派に分裂した保元の乱では、頼政は中立を保った。その理由の一つには、義朝の力が強くなり過ぎることを望まない気持ちがあったと思われる。後の頼朝の誕生で、この義朝の一族が源氏の嫡流のように思われがちだが、決してそうではなかった。頼政には、自分よりはるかに若い義朝の後塵を拝する気持などなかったと考えられる。

そして、源平が激突したとされる平治の乱においても、頼政は清盛に味方した。
平治の乱で清盛が勝利すると、ほとんどの源氏が没落していったが、源氏としてただ一人頼政だけが中央政界で生き残ったのである。しかも、戦乱を通じて清盛から厚い信頼を受け、武士の源氏としては初めて従三位に昇進したのである。『源三位頼政』の誕生である。
この昇進については、九条兼実が日記の中で「第一之珍事也」と書き残しているので、よほど異例であったらしい。

平治の乱の後、捕われた頼朝は、処刑される身を池の禅師の嘆願で助命され伊豆に流されたが、その後幾つもの奇跡的な幸運に恵まれて、平氏を滅亡させるという劇的な展開を歴史は用意しているのである。
その幾つかの奇跡の発端は、流罪地が伊豆国であったことである。そして、その伊豆国は頼政の領地であったことを考えると、これは奇跡などではなく頼政の遠謀であったのかもしれない。

清盛を頂点とした平氏の栄華がますます高まっていく中で、頼政の心中はどのようなものであったのか。
従三位の高位を得たといえども、源氏の没落の中で一人栄華を楽しめるものではなかった。
しかも平氏政権は、あまりの繁栄のためか横暴が目立ち始め、信望を失いつつあった。
後白河法皇の側近たちによる「鹿ケ谷の密儀」と呼ばれる陰謀は、平氏に不満を抱く勢力が膨らんできていることを表面化させる事件であった。

頼政は密かに策を練っていた。
今や清和源氏の没落は目を覆うばかりであった。中央に残る者は頼政ただ一人、官位、保有戦力、経験のいずれをみても、諸国の源氏に決起を促すことが出来る者は他にはいなかった。
直系の源氏に有力な一族がいないとしても、しかるべき旗印さえ打ち立てることが出来れば、東国を中心とした諸豪族は源氏に味方するはずである。
頼政は、密かに以仁王に接触を図った。

以仁王は後白河法皇の第二皇子であるが、未だ親王の称号さえ与えられていなかった。天皇の位は同じ法皇の子供でありながら、平氏を母に持つ皇子に引き継がれ、ついには三歳の甥が天皇に即位した。安徳天皇である。
失意の以仁王は、父の後白河法皇以上に平家一門の横暴を恨んだ。自分がしかるべき立場に立つためには、平氏並びにそれに連なる皇族を排斥せねばならないと考えていた。

頼政の勧めもあって、以仁王は平氏打倒の挙兵を決意する。諸国の源氏や反平氏勢力、有力社寺などに対して令旨(リョウジ)を発した。綸旨や院宣と違い、令旨は皇族の命令に過ぎないが、豪族たちにとっては錦の御旗に近いものであった。
令旨は、源行家を使者として諸国に触れて回った。
頼政の計画では、東国はじめ諸国の源氏が決起し、平氏の軍勢が鎮圧に向かったところで手薄となった都で頼政が挙兵する計画であった。

しかし、計画は事前に漏れることとなり、勝機の無いのを覚悟の上での単独挙兵となってしまった。
頼政が最後まで抵抗を続けた目的である以仁王も脱出を果たせず、討ち取られた。
この頼政の決起だけをみれば、全く無謀な挙兵のように見える。しかし、発せられた令旨は木曽義仲を動かし、源頼朝を決起させたのである。
源三位頼政、七十七歳の決起は、歴史の一こまを動かせるものではなかったか。

                                    ( 完 )


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