運命紀行
大君の辺にこそ死なめ
『・・・ 大伴の 遠つ神祖(カンオヤ) その名をば 大来目主(オオクメヌシ)と 負ひ持ちて 仕へし官(ツカサ) 海行かば 水浸く屍(ミズクカバネ) 山行かば 草生(ム)す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みは せじと言(コト)立てて 大夫(マスラオ)の 清きその名を 古(イニシエ)よ 今の現(ウツツ)に 流さへる ・・・』
大伴家持が、陸奥の国で金が出土したことを寿ぐ天皇の詔を受けたのは、都を遠く離れた越中の国であった。
越中は大国であり、その国守としての地位に不満などないが、この慶事に直接祝いの歌を差し出すことができない歯がゆさは、如何ともすることが出来なかった。
この数年、聖武天皇にとっての最大関心事は、大仏の建立であった。鋳造を開始してすでに一年半の年月が過ぎていたが、最も重要な材料である金の調達の目処が立っていなかった。
北の涯、陸奥の国から天皇のもとに金出土の報がもたらされたのは、ちょうどそのような時期であった。天皇の喜びは察するに余りあり、越中の守大伴家持のもとにも喜びあふれる詔が送られてきたのである。その中には、大伴氏の幾代にも及ぶ天皇家に対する忠勤をたたえる内容が含まれていたが、それゆえになお、この大事に、大君の側近くで高らかに歌を献上できない悔しさが増していた。
家持は、天皇の感激をさらに上回るかのような、長歌を詠い上げ、反歌と共に天皇のもとに送ります。
『・・・ 海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ ・・・』
* * *
大伴家持が掲題の長歌を作ったのは、天平勝宝元年(749)五月、三十二歳の頃である。
従五位上・越中守という職位は、この時五十四歳の父旅人が、従四位上・中納言という状況も加味すれば、決して不満なものではなかったと思われる。
おそらく、天皇からの詔に感激し、将来への期待に胸を膨らませ、武人としての大伴氏を高らかに歌い上げたのであろう。
大伴氏は、神武天皇以来の名族であって、代々天皇の近くあって、武人として、また歌人として仕えてきた有力貴族であった。
武人と歌人とを並べるのは、現代人にとってはいささか奇異に感じられるが、この当時の歌は、武力に劣らないほどの力の源泉でもあった。言霊(コトダマ)という言葉があるように、古代の人々にとって、詞(コトバ)の持つ力は、時には武力さえも超えるものと信じられていた。
宮廷歌人という人たちが存在していた事からも分かるように、家持らの歌を、雅やかな宮中から生まれてきた歌とを同列に並べることは出来ない。歌としての優劣のことではなく、目的において差がある部分を考える必要がある。
家持の時代、すでに大伴氏や物部氏という古代貴族は、蘇我氏の台頭により劣勢にあり、さらに藤原氏が朝廷権力を掌握していくに従って、家持にとっては苦難の時代が待ち受けていた。
この後少納言に昇進するも、後ろ楯ともいえる橘諸兄が引退し聖武天皇が崩御すると、藤原氏勢力は一挙に増大し、大伴氏の没落は加速して行った。
幾つかの事件に巻き込まれたり、左遷を繰り返しながらも、最後は中納言の地位を得ているが、それも没後に剥奪されるという事件に巻き込まれている。
藤原氏全盛に向かう歴史の流れにあって、家持にとっては失意の生涯であったかもしれない。しかし、現在私たちは、大伴家持の名を聞く時、万葉集の編纂者の一人として、また格調高い歌人として、この時代の代表的な人物の一人として認識している。これこそが、家持が発した言霊ゆえなのかもしれない。
全二十巻に及ぶ万葉集は、家持の歌で締めくくられている。
『新しき年の始めの初春の 今日ふる雪のいや重け吉事』
( 完 )
大君の辺にこそ死なめ
『・・・ 大伴の 遠つ神祖(カンオヤ) その名をば 大来目主(オオクメヌシ)と 負ひ持ちて 仕へし官(ツカサ) 海行かば 水浸く屍(ミズクカバネ) 山行かば 草生(ム)す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みは せじと言(コト)立てて 大夫(マスラオ)の 清きその名を 古(イニシエ)よ 今の現(ウツツ)に 流さへる ・・・』
大伴家持が、陸奥の国で金が出土したことを寿ぐ天皇の詔を受けたのは、都を遠く離れた越中の国であった。
越中は大国であり、その国守としての地位に不満などないが、この慶事に直接祝いの歌を差し出すことができない歯がゆさは、如何ともすることが出来なかった。
この数年、聖武天皇にとっての最大関心事は、大仏の建立であった。鋳造を開始してすでに一年半の年月が過ぎていたが、最も重要な材料である金の調達の目処が立っていなかった。
北の涯、陸奥の国から天皇のもとに金出土の報がもたらされたのは、ちょうどそのような時期であった。天皇の喜びは察するに余りあり、越中の守大伴家持のもとにも喜びあふれる詔が送られてきたのである。その中には、大伴氏の幾代にも及ぶ天皇家に対する忠勤をたたえる内容が含まれていたが、それゆえになお、この大事に、大君の側近くで高らかに歌を献上できない悔しさが増していた。
家持は、天皇の感激をさらに上回るかのような、長歌を詠い上げ、反歌と共に天皇のもとに送ります。
『・・・ 海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍 大君の辺にこそ死なめ ・・・』
* * *
大伴家持が掲題の長歌を作ったのは、天平勝宝元年(749)五月、三十二歳の頃である。
従五位上・越中守という職位は、この時五十四歳の父旅人が、従四位上・中納言という状況も加味すれば、決して不満なものではなかったと思われる。
おそらく、天皇からの詔に感激し、将来への期待に胸を膨らませ、武人としての大伴氏を高らかに歌い上げたのであろう。
大伴氏は、神武天皇以来の名族であって、代々天皇の近くあって、武人として、また歌人として仕えてきた有力貴族であった。
武人と歌人とを並べるのは、現代人にとってはいささか奇異に感じられるが、この当時の歌は、武力に劣らないほどの力の源泉でもあった。言霊(コトダマ)という言葉があるように、古代の人々にとって、詞(コトバ)の持つ力は、時には武力さえも超えるものと信じられていた。
宮廷歌人という人たちが存在していた事からも分かるように、家持らの歌を、雅やかな宮中から生まれてきた歌とを同列に並べることは出来ない。歌としての優劣のことではなく、目的において差がある部分を考える必要がある。
家持の時代、すでに大伴氏や物部氏という古代貴族は、蘇我氏の台頭により劣勢にあり、さらに藤原氏が朝廷権力を掌握していくに従って、家持にとっては苦難の時代が待ち受けていた。
この後少納言に昇進するも、後ろ楯ともいえる橘諸兄が引退し聖武天皇が崩御すると、藤原氏勢力は一挙に増大し、大伴氏の没落は加速して行った。
幾つかの事件に巻き込まれたり、左遷を繰り返しながらも、最後は中納言の地位を得ているが、それも没後に剥奪されるという事件に巻き込まれている。
藤原氏全盛に向かう歴史の流れにあって、家持にとっては失意の生涯であったかもしれない。しかし、現在私たちは、大伴家持の名を聞く時、万葉集の編纂者の一人として、また格調高い歌人として、この時代の代表的な人物の一人として認識している。これこそが、家持が発した言霊ゆえなのかもしれない。
全二十巻に及ぶ万葉集は、家持の歌で締めくくられている。
『新しき年の始めの初春の 今日ふる雪のいや重け吉事』
( 完 )