雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  それぞれの道

2012-06-06 08:00:42 | 運命紀行
       運命紀行

          それぞれの道


「誰も、我が下知を聞かず。もはや城中にあっても無意味」
織田有楽斎は、大坂方と関東方の斡旋を計るのが、自らの力では成し難いことを家康のもとに伝えた上で、大坂城を退出した。

天下統一を成し遂げた秀吉であったが、豊臣家は所詮秀吉という稀代の傑物あってのものであった。
秀吉が没すると、盤石を計ったはずの豊臣体制は一気に揺らぎ始め、関ヶ原の合戦を経て天下の実権は徳川家康が握り、征夷大将軍の宣下と共に徳川政権は強大な体制を固めていった。もはや、徳川幕府政権は、完全に天下を掌握したと見えたが、なお頑強にその現実を認めない勢力も残っていた。
淀殿を中心とした勢力であった。

有楽斎と淀殿の間に軋轢がなかったわけではない。
本能寺の変が勃発した時、有楽斎は信長の嫡男信忠と共に二条御所にあった。本能寺と同様に二条御所も明智光秀の軍勢に包囲され、信長後継者である信忠も自刃して果てた。しかし、有楽斎は脱出に成功し、安土を経て岐阜城に逃れた。この有楽斎の行動を京童は軽蔑を込めて噂をしたが、淀殿の耳にも達していたことだろう。
また、その後の徳川家康との関係や、特に関ヶ原の戦いでは東軍に加わって戦っており、心から信頼できる人物として見られていなかったことは確かであろう。

しかし、秀吉恩顧の大名たちが続々と家康陣営へと去ってゆく中で、淀殿にとって有楽斎は数少ない血族であった。それも、単に叔父であるということばかりではなく、大坂城にいる武将たちの器量を考えると、武将としての働きは目立たなかったとはいえ、有楽斎は信長の実弟である。天下人を自負している家康といえども、有楽斎をそうそう軽くは扱えないはずである。少なくとも淀殿はそのように考えていた。

有楽斎にとっても、淀殿と秀頼は、大切な織田の血統であった。
大坂城にある将兵たちにとっては、豊臣の大事が何より優先されることであるが、有楽斎の描いているものは少し違った。秀吉も秀頼も、確かに有楽斎の主君であり、そのように仕えもしたが、心の奥にあるのは、本来織田の下風にあるべき者たちであった。哀しいかな、織田の没落著しい今は、淀殿こそが織田再興の頼みであり、秀頼もまたそのための奇貨であった。

徳川体制が固まっていく中でも、有楽斎は嫡男と共に秀頼の側近くに仕えた。
徳川との並立が困難になった大坂冬の陣においても、有楽斎は大野治長らと淀殿と秀頼を支え、家康との連絡役を務め和解を主導した。だが、和平は長くは続かず、結局は不利な条件での和解は豊臣の命運を縮めることになってしまった。
さらに、嫡男の頼長は、強硬派として突出的な意見や行動も多く、穏健派として行動する有楽斎の足を引っ張る形となり、加えて、有楽斎が関東方に通じているという疑念が常につきまとい、その発言力は低下していった。

再び徳川軍の進攻が伝えられる中、有楽斎は大坂城から退出することを決意した。
淀殿周辺に対する発言力を失った以上、城中にとどまることは無意味であった。徳川の政権下で安泰を計る意思がなければ、豊臣家の将来はなく、秀頼を通しての織田家の復興など望むべきもなかった。
有楽斎は、おのれの進むべき方向を模索しながら大坂城を退出した。
元号がやがて元和と変更される、慶長二十年(1615)の春のことである。
     

     * * *

織田長益(オダナガマス・のちに有楽斎)は、織田信長の実弟である。
天文十六年(1547)の誕生なので、信長とは十三歳ほどの年齢差がある。
父は織田信秀で、その十一男(諸説ある)と伝えられているように、信秀には土田御前以下複数の妻妾がおり、子供の数も多い。信長が尾張を統一するのにあたって、肉親との苛烈な争いがあったことはよく知られている。

長益は、信長との年齢差が大きかったこともあり、兄弟間の争いに直接かかわることはなかったらしく、そのためもあって、幼年時代の逸話は少ない。
信長の血統は、美男美女を輩出しており、信長自身もそうであるが、妹とされるお市の方やお犬の方は戦国有数の美女と伝えられており、長益もまた美男の武将であった可能性は高い。

天正二年(1574)、長益二十八歳の頃であるが、尾張国知多郡を与えられ、大草城を改修したあたりから歴史上に登場してくる。
この頃は、信長の嫡男信忠の旗下にあったと思われ、武田征伐などに従軍している。
天正九年に行われた京都御馬揃えでは、信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の次に続いており、天正十年の左義長では、信忠・信雄・長益・信包の順になっていて、一門の中でも相応の評価を受けていたことが分かる。
また、武田征伐では、木曽口からの戦いに加わり、鳥居峠を攻略、降伏した深志城の受け取り役を務めている。さらに、上野国への進軍時には小幡氏を降伏させる戦いで働いている。
ややもすると、織田長益、すなわち有楽斎は、お茶の達人であったことや秀吉の御伽衆を務めたことなどから、軟弱な人物との印象を受けがちであるが、戦上手とまではいかないまでも、相応の武将であったことは間違いない。

天正十年(1582)六月二日、本能寺の変勃発。
この時長益は、信忠に従っていて二条御所にあった。明智光秀の下知のもと厳重な包囲網が敷かれたと考えられるが、やはり、本能寺に重点がおかれ、信忠の宿営地である妙覚寺や二条御所への包囲は遅れたようである。信忠が事変を知った時にはすでに本能寺は勝敗が決していたようで、信忠も脱出を勧められたようであり、ここからは何人かの武将も脱出に成功している。
結局信忠は脱出を良しとせず、二条御所で自刃するが、長益は、前田玄以らと共に脱出に成功、安土を経て岐阜へと逃れたらしい。このことが、後々まで主君を捨てて逃げ出したと京童たちに噂されたらしい。

事変の後は、信忠の弟である信雄に仕え、検地奉行などを務めた。小牧・長久手の戦いでは、家康・信雄連合軍に属し、秀吉軍と戦っている。この戦いは自然消滅のような形となっていくが、その原因は、信雄が秀吉と和解したためで、長益が折衝役に立ったらしい。また、秀吉と佐々成政との折衝役にもなったらしく、軍事的な実力は有していないながらも、信長の弟という名声を背景に折衝役としての価値は高まっていたようである。

天正十八年(1590)に信雄が改易された後は、秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡に二千石の領地を得た。
そして、この頃に剃髪して有楽斎と称するようになる。千利休から茶の指導を受けるなど、早くから武将としてよりも茶人としての評価が高かったが、この剃髪は、武将としての将来を捨て、風流人としての将来に懸ける決意だったのかもしれない。
大坂城にあっては、秀吉の御伽衆という立場よりも、姪である淀殿の相談役としての意味合いが強まっていたと考えられる。鶴松の出産の際には立ち合ったともいわれ、秀吉の寵愛を受けていたとはいえ、淀殿にとっては数少ない肉親であり保護者のような一面を担っていたのであろう。

淀殿の有楽斎に対する信頼は秀吉の没した後ではさらに強まり、豊臣政権下での存在感が増していったと考えられる。
しかし、その一方で、秀吉が没して間もなく、徳川家康と前田利家を仰ぐ一派が対立した時には、家康邸に駆けつけ警護にあたっている。関ヶ原の戦いでは、東軍に属して庶長子長孝と共に出陣、総勢四百五十という寡兵ながら西軍中核の小西隊や大谷隊などと戦い、一時は本多忠勝の指揮下に入って相当の働きをしている。
この働きにより、戦後の恩賞として有楽斎は大和国内で三万二千石が与えられ、長孝も美濃国に一万石を得ている。
有楽斎は淀殿相談役的な立場にあっても、天下の動きを冷静に推し量る能力を有していたのであろう。

関ヶ原の戦いの後も、有楽斎は大坂城に出仕を続け淀殿の補佐を続けた。
この間に、京都建仁寺の子院正伝院を再建し院内に茶室如庵を設けているが、この茶室は現在犬山市に移築され国宝指定を受けている。
やがて、徳川と豊臣の並立は困難となり、大坂冬の陣となる。この時も有楽斎は大坂城にあり、大野治長らと共に穏健派として豊臣家存続に腐心するも、同じく出仕していた嫡男の頼長は強硬派として主流派である穏健派としばしば対立し、有楽斎の発言力低下の原因にもなっていった。
短い和平のあと再び戦乱が避けられない頃になると、徳川とのよしみを持つ有楽斎は豊臣政権の中枢から疑惑の目を向けられるようになっていった。

有楽斎が家康の意向を受けて動いているとの噂は、早い段階からあった。実際に、関ヶ原の戦いでは東軍方として参戦しているし、冬の陣の和解では、徳川方有利の条件を推し進めた張本人だと非難する者もいた。
有楽斎自身も、自分が家康と親しいことを隠そうとはしなかった。同時に家康の間者であるがごとき非難は、片腹痛い思いであった。こそこそと間者働きをするには目立ちすぎる存在であることは、誰にでも分かるはずだと考えていた。
家康の方には、信長の弟という貴重な人物をうまく利用しようとする思惑はあったのだろうが、それは有楽斎とて同じであった。家康の力を借りて、何としても秀頼を生き延びさせるべきと考えていた。
それは、豊臣家の存続を願ってのことではなく、この数奇な運命を背負った御曹司を中心において、織田家の興隆を目指すことであった。

しかし、大坂城における自らの影響力の低下によって、全てを断念すべき時だと決意した。
戦によって徳川体制を崩すことなど不可能なことは、とっくの昔に見通していた。その体制の中で、織田の血筋をどのように守っていくのかと考えた時、有力な鍵となる人物が秀頼であったが、それも果たせぬ夢となってしまった。
大坂城を退出した有楽斎は、京都に隠棲し茶道に専念し、趣味を専らとした。

元和元年(1615)八月、豊臣家が滅亡し淀殿も運命を共にしたあとのことであるが、有楽斎は自らの所領のうち四男長政、五男尚長にそれぞれ一万石を分け与え、残りの一万石は手元に残し悠々自適の晩年を送った。
元和七年(1621)十二月、京都で死去。享年七十六歳であった。

庶長子の長孝は、関ヶ原の戦い後に与えられた美濃の一万石は、分家として幕府から野村藩として認められた。四男、五男もそれぞれ一万石の外様大名として幕末まで続いた。
嫡子の頼長は、有楽斎が創始した茶道有楽流を継ぎ、大名家である子供たちの家に伝わり、今日まで繁栄を保っている。また、東京の有楽町の地名は、かつて有楽斎の屋敷があったことに因むものである。
戦国大名の家に生まれ、武将として奔走した男は、自ら望んだ茶道を通して存分な生き方を果たしたといえよう。

                                        ( 完 )
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