雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  次郎法師

2012-06-12 08:00:25 | 運命紀行
       運命紀行

          次郎法師


天正三年(1575)、直虎は運命の時を迎えていた。
珠玉のようにして、慈しみ、鍛え上げてきた虎松は十五歳になっていた。
かねてから徳川方によしみを結び、あらゆる伝手を頼って、虎松を家康に拝謁させようとしてきたのは、今川氏の圧迫を受け続けてきた井伊の家を存続させるためには、徳川家康に命運を託す以外に手段はないと考えていたからである。
その願いが今まさに実現しようとしていた。直虎は、虎松の拝謁がただただ無事に終えることを、遠くから見守っていた。

家康が三方ヶ原に鷹狩を行うのに合わせて用意された引見は、直虎の願いが叶ってか、期待以上に順調に行われた。
家康は、直虎に対して長年の辛苦をねぎらい、虎松の出仕を許して三百石を与えることを約した。それは、今川氏の圧迫を受け続け、滅亡との瀬戸際を這いつくばるようにして凌いできた井伊家にほのかな灯りがともった瞬間でもあった。
男として生き続けてきた直虎の頬を、一筋二筋涙が流れた。
井伊次郎法師直虎、三十代半ばの頃のことであった。


     * * *

徳川四天王と称せられる人物がいる。
家康が天下人へと上って行く段階で側近として仕え、大きな功績を果たした酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四人の武将に対する尊称である。
いずれも、織田信長、豊臣秀吉という巨星が没してゆく動乱の時を、家康を支え徳川幕府創立へと導いた功臣であることは多くの記録によって認められる。

その子孫も、徳川政権下の二百六十余年を家系を守り通した有力譜代大名であるが、徳川四天王と称せられる四人の経歴を見てみると、不思議な人物が加わっていることに気づく。井伊直政である。
酒井と本多は徳川家臣団の中でも最古参である三河安城御譜代であり、榊原と井伊は三河岡崎譜代とされているが、直政が家康に仕えたのは、天正三年(1575)のことで、この年は織田・徳川の連合軍が武田勝頼の騎馬軍団を破った長篠の戦いが行われた年である。
家康が天下人を意識するのはまだ先のことであるとはいえ、すでに信長との固い同盟に支えられた有力大名になってからのことなのである。

さらにいえば、彼らの年齢にも大きな差がある。
例えば、信長が討たれた本能寺の変(天正十年・1582)の時点でいえば、酒井忠次五十六歳、本多忠勝三十五歳、榊原康政三十五歳なのに対し、井伊直政は二十二歳に過ぎない。因みに、徳川家康は、四十一歳であった。
しかも、直政の元服は極めて遅く二十二歳の頃であるから、この時点では、他の三人に比べてはるかに軽輩であった。また、まだ外様扱いされていたようなのである。
しかし、やがて井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊と噂されるようになり、徳川四天王の一人と称せられ、幕末の頃には譜代大名筆頭とされるのである。


井伊氏は、藤原北家の後裔を称する名門で、遠江国井伊谷を本貫地として五百年に渡って勢力を保つ豪族であった。
南北朝時代、南朝方に属した井伊氏は、井伊谷に宗良親王を迎えて戦ったが、北朝方の今川了俊に屈服し、以後、今川氏の尖兵として戦わされることになったのである。
応仁の乱では、今川氏の支配から脱すべく西軍の斯波氏に味方したが敗戦となり、今川氏からさらなる圧迫を受けるようになっていった。同族間の結束も弱まり、戦国期の井伊氏はまさに存亡の危機に陥っていた。

井伊氏第十八代の当主、直盛には男児がおらず、娘一人であった。
天文十一年(1542)、祖父の直宗が戦死、父の直盛が家督を継ぐが、嫡男がいないことから、一人娘を男児として養育することを決意するのである。名前も次郎法師と名付けられたが、、次郎も法師も代々の井伊家の総領名で、その二つともを合わせて名付けたものらしい。
さらに、婿養子を迎えるために直盛の叔父直満の息子である亀之丞との許嫁の約束を結んだ。
実は、次郎法師の生年は未詳であるが、この天文十一年には誕生していたこと、亀之丞もこの時八歳であること、すぐに結婚ということにならなかったことなどを考え合わせると、おそらく次郎法師の誕生は、天文十年前後ではないかと推定される。

しかし、この婚約を不満に思う人物がいた。重臣の小野和泉守は、直満との仲が悪く、亀之丞が宗家を相続することになれば直満が実権を握ることになり、自分が追放されることを恐れたのである。
小野和泉守は、主家の今川義元に直満とその弟直義が今川家に逆意を抱いていると訴え、義元はそれを信じて直満兄弟を駿府に呼び出して殺害してしまった。
亀之丞にも危険が及んだが、信州伊那に逃げ、土豪の奥山親朝に匿われたが、井伊谷に戻るのは和泉守が死んだ十二年後のことになる。しかも、その間に、亀之丞は恩人である親朝の娘と結婚してしまうのである。

井伊直盛は娘が不憫であったが、宗家を守っていくためには手段がなく、やむなく亀之丞を養子として直親と名乗らせた。
まだ幼い時に親により決められた許嫁とはいえ、その相手が妻を連れて戻ってきた時の次郎法師の衝撃は小さなものではなかったことであろう。
さらに、永禄三年(1560)五月、今川義元に従軍していた父直盛は、桶狭間で討死してしまったのである。
井伊家の家督は養子の直親が継ぎ、翌永禄四年二月には嫡子虎松が誕生する。井伊宗家にとってめでたい出来ごとではあったが、次郎法師の心境は複雑なものであった。
次郎法師は、宗家の将来の形が固まったこともあって、出家を決意するのである。

後見人的な立場にあった大叔父に当たる南渓和尚は、「出家は許すとしても、そなたはなお男であれ。宗家の後継者は出来たとはいえ、直親父子のみ。他には井伊の血を引くものはいないのだから」
と、次郎法師の僧名で出家した。おそらく、二十歳代前半のことであったと思われる。
そして、この南渓和尚の危惧は現実のものとなってしまうのである。
かつて直満を讒言した和泉守の子で家老の小野但馬守が、義元の跡を継いでいた今川氏真に、「直親は徳川や織田と通じている」と告げたのである。事実無根の讒言であったが、氏真はこれを信じ、釈明のため駿府に向かう直親主従を討たせてしまったのである。
直盛・直親父子に起こったことと全く同じ悲劇が、直親・虎松父子を襲ったのである。

当時、次郎法師の曽祖父直平はまだ健在であった。宗家を継ぐ者がいなくなってしまったため、当主に返り咲くことになった。ところが、それを良しとしない今川の手のものによって毒殺されてしまう。当然、虎松の身も危険となり、頭を丸めて蓬莱寺に逃げ込むという事態になってしまった。
ついに宗家を継ぐものが全くいなくなってしまい、次郎法師は還俗し、直虎と名乗り、地頭職を継いだのである。

直虎は重臣たちに補佐されて、井伊谷城の城主となり、地頭としての職務を担って行った。
龍潭寺には、永禄八年九月十五日付で「次郎法師」と署名され、黒印が押された寄進状が残されているという。領内の万福寺の鐘の銘文には「大檀那 次郎法師」と刻まれており、蜂前神社の文書には「次郎直虎」の署名と花押が残されている。
おそらく女性で花押を用いた記録は他にはなく、彼女が井伊直虎という男性として地頭職を務めていたことが窺われる。

直虎自身にとっては、やむなく引き継いだ家督であり、周囲もそう見ていたと考えられるが、決してお飾りの城主ではなかった。
依然厳しい今川氏からの圧迫に対して抵抗を示しているし、時代の流れを冷静に見つめて、今川氏の勢力の衰えを察知して徳川家康への接近を計っていたのである。

そして、やがてその苦労は日の目を見ることとなり、手塩をかけて養育してきた虎松が家康に出仕することが叶う。
家康に仕えることになった虎松は万千代と名を改めて奮迅の働きをするが、正式に井伊家の家督を受け継ぐのは、二十二歳という遅い元服で直政と名乗った頃のことである。
井伊家の家系を見ると、「十八代当主直盛・十九代当主直親・二十代当主直政」となっているが、直親が亡くなったのは直政が三歳にも満たぬ頃のことで、その間には二十年近くの空間が出来てしまう。
その二十年近くの、井伊家最大の危機の期間の大半を、次郎法師、そして井伊直虎と名乗る女性が守り通したのである。

次郎法師直虎が亡くなったのは、天正十年(1582)八月のことである。
その生涯は悲しみや苦難ばかりが多かったかに見える。
しかし、虎松すなわち井伊直政という英傑を育て上げ、井伊家を徳川幕府の譜代大名の筆頭にまで上り詰めさせた最大の功労者であることは、例え正式な系図に示されることがなくとも、燦然と輝いていることであろう。

                                        ( 完 )

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