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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

冬枯れの庭 ・ 小さな小さな物語 ( 365 )

2012-08-01 15:11:38 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
わが家の小さな庭も、一人前に冬枯れの様相を呈しています。
この冬は、足の指先のしもやけがひどくて、その原因を考えてみますと、どうやら庭作業のような気がしたのです。私は、長靴を履いて作業するのですが、あまり動かない作業の時には足の冷たさを感じていたので、控えるようにしたのです。
可哀そうに、それでなくても貧弱な庭は、最低限の水を与えられる程度でほったらかしにされ、拗ねたようにしぼんでいます。


それでも、久しぶりにじっくりと見て回りますと、主は怠けていても、自然の営みはひるんだりしていません。
菜園の小さなダイコンは、「大根は小さくとも小根とはいわぬ」の実例のように、それなりに頑張っています。カブは、小カブと中カブの間を頑強に維持していますし、昨秋遅くに植えたコマツナとホウレンソウは、大きくならない代わり枯れもしないで、霜や氷雨と戦っています。
年末近くに、枯れかけて半値で売られていた苗を買ってきたタマネギは、どうやら育たないみたいですが、大半がまだ生きているみたいです。


草花は、パンジーやビオラはまあまあ花をつけていますが、わが家の主役のゼラニウムはどれもすっかり赤茶けて元気をなくしています。
スイセンはどこにこれほど球根があったと思われるほどたくさんの葉を出していますが、葉の数に比べて花の数が少ないのは毎年のことです。
それでも、ユリの新芽があちこちに見えますし、チューリップで芽を出しているものもあり、ムスカリや何の新芽だか分からないものもちらほら見えています。
三年目の小さな梅も、精一杯の蕾が目立つようになっています。キンカンだけは、毎年たくさんの実をつけるのですが、餌が少ないらしく雀たちが朝早くから啄ばみに来てくれています。


今日二月九日は、七十二候でいえば、立春の次候にあたります。「黄鶯睍」という説明がつけられていますが、「こうおうけんかんす」と読み、「鶯の初音が聞こえてくる頃」にあたるそうです。
雪の多い地方は、今年は特に大変なようで、鶯云々など実感がないことでしょうが、季節は少しずつ動いています。そして、私たちの日々も、一瞬として止まることなく動いています。
寒さが最も厳しい折ではありますが、顔をあげて歩くことにしましょう。

( 2012.02.09 )
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プロの技 ・ 小さな小さな物語 ( 366 )

2012-08-01 15:10:24 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
テレビで料理の番組を見ることがあります。私個人は、料理に特別興味があるわけではないのですが、ニュースを中心とした番組やいわゆるワイドショウ的な番組の中でも料理のコーナーがよく加えられています。
私が時々見るものでは、プロの料理人が、家庭で出来るようなものをスタジオで実演して見せるものがあるのですが、その中で「ここでプロの裏技を」などといったヒントを紹介するのです。スタジオのギャラリーたちは感心して見ていますが、おそらく紹介されたレシピをもとに作られる人も多いことでしょう。
でも、どうなんでしょうか。チャレンジ精神は称えるべきですが、なかなか同じようにはいかないのではないでしょうか。
教えられたように材料をそろえ、教えられたとおりの手順で、しかも裏技まで駆使して、それでいて、やはり、どこかが違うのですよね。
それが、プロの凄さではないでしょうか。


大分昔のことになりますが、スポーツでプロとアマの差が一番大きいのは何かという話を聞いたことがあります。
その時の答は「相撲」でした。
ゴルフは、プロの正式ツアーでアマが上位に入ったり優勝してしまうことがごくたまにですがあります。
プロ野球はといえば、ちょうどその頃、とても強い高校チームがあって、人気ばかり高くてからっきし弱いプロ球団に対して、どちらが強いかファンたちが真剣討議したという笑い話が紹介されていました。それは冗談だとしても、アマ球界のエースの多くが、プロにおいて即戦力になるのは現実のことです。
しかし、相撲は、そうはいかないそうです。大学であれ社会人であれ、そのチャンピオンを例えば大関の地位において本場所を実施した場合、優勝することはまず不可能だそうです。プロの横綱とアマのチャンピオンの差は歴然としているそうです。


プロといえば、私たちはついついスポーツなどの世界に目が行きますが、実はあらゆる分野に「これこそがプロ」といった人物や集団がいるのです。
炎の色で適格な温度を見分ける人がいるそうです。今時高精度のセンサーが設置できると思うのですが、膨大な全体を瞬時に察知する能力は、あらゆるコンピューター制御を上回るそうです。
超精密加工に於いても、ある名人の手を加えないことには生み出せないものがあるそうです。
建築や伝統工芸品の世界にも、そういう人物は少なくないのでしょう。


それでは、プロとアマとの差が最も少ない職業は何かと言いますと、それは「政治家」でしょう。
選挙という、とても神々しく、そしてとても危なっかしい制度のお陰で、プロを育てにくい職業になってしまいました。しかも、「一握りのプロ政治家の横暴を防ぐ」ことが重視され、「市民感覚の政治を」が錦の御旗になって行けば、当然プロ政治家は駆逐されていきます。
さらに、選挙の恐ろしいところは、選出されさえすれば誰でも同一の権限を持つということです。例えば、国会議員を見れば分かるように、アマより甘い人物であっても、選ばれてしまえば一人前の国会議員としてあらゆる権限を持ってしまうのです。
一国の政治が、一握りのプロ政治家によって牛耳られることは危険ですが、アマ集団で騒ぎ回る国家も、心豊かな国家をつくるのにはあまり適していないような気がしてならないのです。

( 2012.02.12 )
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魚心あれば ・ 小さな小さな物語 ( 367 )

2012-08-01 15:09:07 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
私はウォーキングが日課の一つになっているのですが、そのコースの一部は小中学生の通学路にあたっています。登下校の時間帯には、道路の角々に保護者の方などを中心に子供たちの安全のために誘導されています。
かつては、このような誘導者の目的の第一は、交通事故に対するものでした。現在でも、「交通安全」と染め抜かれた旗を持っていたりしますので、それも重要な役目に違いないのでしょうが、昨今の目的の第一は「防犯」のようです。
正確なデーターではないのですが、いつぞかの小学校への不審者乱入事件からは、そのような傾向に変わってきたように思います。
嫌な社会になったものだ、などと思いながら歩いていますと、少し先を、小学校低学年と思われる女の子がまだ若いお母さんと手をつないで学校に向かっていました。微笑ましい光景でありながら、嫌な世相のなせる技なのかなどと、よけいなことを考えながら観察するともなく見ていました、


すると、その若いお母さんが、少し声を大きくして子供に呼び掛けました。
「うおごころあれば?」
私は少々驚きました。まだ若い母親が幼い子供に問いかけたのですよ。私は驚くとともに俄然興味がわいてきて、二人との距離を詰めました。
「みずごころ」
幼い子供は、さらりと答えました。どうやら、学校で「いろはかるた」のようなものを習っているらしいのです。
「『ごころ』って、『こころ』のことよ、ね」と、子供はさらに続けました。
「そうよ」と、お母さん。
「『うおごころあれば、みずごころ」って、どういうこと?」と、子供。お母さんの答えに、私の期待は高まります。
「そうねぇ・・・。お魚に心があれば、ね・・・。学校ではどう習ったの?」と、お母さんは逃げの構えです。
「お魚に心があれば、水にも心があるんだって・・・。何のことだか、わかんない」
「それで良いと思うけど・・・。つまり、ね・・・」
子供は、もっと具体的で実感できる答えを期待していて、若い母親は、男女の仲のことを連想し言葉に詰まっている様子です。
子供はなおせがんでいるようですが、校門が近づき、警備や誘導にあたっている人が何人もいます。私は、その子供以上に母親の答えが気になりますが、これ以上ついて行けば、ストーカー扱いされそうなので残念ながら離れざるを得ませんでした。


家に帰ると、早速広辞苑を開いてみました。
『魚心あれば水心』の意味は、(「魚に心あれば、水にもそれに応ずる心があるの意。もと「魚、心あれば、水、心あり」の形だったもの)相手が好意を持てば、こちらもそれに応ずる用意があることにいう。
と、あります。
つまり、本来の意味は、子供さんが学校で習ったという方が本来の意味に近く、お母さんが多分連想したと思う方は、一般的に用いられている形ですが、付随して定着した意味のようです。


そして、現在では、男女の仲について用いられる場合でも、あまり良い意味では使われないような気がします。つまり、純愛小説では使われないような性格のように思うのです。
本来の意味からすれば、「阿吽の呼吸」に近い言葉だと思うのですが、現在では、男女の仲に限らず、政治や経済や仲間内の間でも、清廉潔白な関係の中では、あまり使われないようです。どちらかといえば、悪代官の台詞を連想してしまうような感じがしてしまうのです。
「お互いがお互いの心を大切にし、そして相手をおもんばかる・・・」そんな気持ちは私たちの生活においてとても大切だと思うのですが、本来ならそのような意味に育つべき『魚心あれば水心』という言葉が、現在のような使われ方になったところに、私たちの心の貧しさの一端が覗いているような気がするのです。

( 2012.02.15 )
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デフレ克服 ・ 小さな小さな物語 ( 368 )

2012-08-01 15:07:51 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
このほど日銀は、「当面、消費者物価指数で前年比1%上昇を目指す」という方針を決め、実質的にインフレ目標の設定を採用しました。
インフレ目標については、これまでも多くの学者や評論家が提唱したり、反対意見を述べたりしてきています。日本人に限らないのでしょうが、第二次世界大戦後の敗戦国における凄まじいインフレの状態は、今も多くの人の記憶に残っており、特に各界の長老といわれる人たちの呪縛を解き放つことは難しいらしく、日銀としてはなかなか公言することが出来なかったのでしょう。
せめて、もう十年ほど前に踏み切ることが出来ていれば、わが国経済も少し違う動きを見せていたはずです。


それでも、何もしないよりは対策を打ち出してくれたことを評価すべきなのでしょう。
この二十年ばかりのわが国の経済力の衰退ぶりは、目を覆うばかりで、政府にその気力も能力も乏しいとすれば、せめて日銀だけでも頑張ってほしいものです。
しかし、ケチをつけるわけではありませんが、今回の施策で大見えを切るほどの成果を上げることは可能なのでしょうか。
今回の対策は、要は、「国債などを買い入れる基金の枠を10兆円拡大する(現行55兆円)」というもので、追加金融緩和も推進して、デフレ脱却を目指すというものです。
ただ、すでに日銀の金利は実質「0%」になっているわけで、心理的な面を除けば果たしてどの程度の効果が期待できるのでしょうか。


「デフレだ」「デフレスパイラルだ」と、経済不振のすべてがデフレにあるような論調がありますが、本当にそうなのでしょうか。
もっと、根源的な部分を勇気をもって見つめて行く必要があるのではないでしょうか。
例えば、国内で自動車の販売が不振ですが、国民の収入が減ったからなのでしょうか。その部分もあるかもしれませんが、一番の原因は、自動車を必要とする人の数が減っていることなのです。その他の商品の多くが、この現実をもっと冷静に見るべきです。
物価が下がった下がったと言いますが、わが国は鎖国をしているわけではないのです。物価を「ドル」で評価してみた場合も、本当にそんなに下がっているのでしょうか。


確かに「デフレ克服」も重要な事なのでしょう。
しかし、現在のわが国にとって最も重要な課題は、職場の確保なのです。働く意欲のある人なら、生活の維持が可能な収入を得ることができる職場が用意されている社会を構築することなのです。
海外から安くて良質な商品が入って来るのなら、それは私たちの生活に貢献してくれます。同時に、わが国からも、他国が価値を認めてくれる商品を輸出しないことには国家は成り立ちません。
多くの企業が研究し努力を続けていることでしょうが、今こそ売らなければならない商品を、私たちは封印してきているのです。それは、「円」です。
日銀は10兆円の資金を用意するそうですが、そんなことで大した効果があるはずがありません。毎月10兆円の「円」を輸出するのです。それでドル紙幣を買う必要などありません。海外の資源や企業に投資し、わが国の資源開発につぎ込むことも必要でしょう。わが国にもその気にさえなれば開発すべき資源はたっぷりあるのですから。
「その資金はどうすのか?」ですか。お札を刷ればいいのです。どんどん、どんどん刷ればいいのです。
おそらく、3年もしないうちに円安で大変な事態になるかもしれませんが、そうなると輸出企業が頑張ってくれますから、意外にその程度では大した円安にはならないかもしれませんよ。
国内生産は堅調になり、投資収益が国家財政を救うと思うのですが、この話、無茶ですか?

( 2012.02.18 )
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銀河の姿 ・ 小さな小さな物語 ( 369 )

2012-08-01 15:06:32 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
『あなたは建物の中の1つの部屋にいて、じっとして動かないでいるとする。窓から外の景色や、他の建物は見ることができる。それで、自分がいる建物全体の形はわかるだろうか? とても難しいということが、おわかりいただけるだろう。同じように私たち自身がいる天の川の形を探ることもとても難しい』
以上は、毎日新聞2月16日付朝刊の「西はりま天文台からの便り」の冒頭部分です。天文台長の石田俊人氏の文章を使わせていただきました。


記事の内容は、周囲の星を観測することによって、私たちが属している天の川の姿をある程度まで知ることが出来る、と続いています。
そして、最後の部分は、『自分たちがいる場所の全体像を知ることは、意外と難しいものなのである』と締めくくられています。
この記事は、今回が78回目で、天体に関する様々な知識を、私のような素人が興味を持てるように紹介してくれていて、私自身大ファンなのですが、今回は、例えとして書かれている部分を頂戴しているので申し訳ないと思っています。


でも、引用させていただいた部分からだけでも、私たちは自分の姿を見ることは意外に難しいのだということが、よく分かると思うのです。
折から、原発事故に関する国会での質疑が報道されていますが、何だか虚しいほどに、この記事に納得してしまいました。原子力開発において安全を担っていると思われていた組織のトップが、あれほど自分の力を正しく見ることが出来なかったのかと、むしろ感心してしまいます。
しかも、このようなことは特別なことことではなく、三、四日でもテレビを見ていますと、自分が見えていない例などいくつも見つけることが出来るでしょう。


お前はどうなのだといわれると困ってしまうのですが、私に限らずよほどの聖人君子以外は、似たりよったりなんですよ、きっと。それが、物理であれ人間であれ、普通の姿なんですから。
でも、だからと言って、大臣をはじめ(大臣が最初だというのに異論のある方も多いでしょうが)多くの人に影響のあるポストにある人や組織に対しては、当事者は自分のことは分かっていないという前提になって考える必要があるのです。第三者がチェックする体制が絶対に必要なんです。それも権限のある第三者が。
今、国会で国会議員の定数削減について討議されようとしています。しかし、正式議題になる前に難航だとかで、「得意の先送りでしょう」という声もちらほら聞こえてきます。
そもそも国会議員に定数や選出方法を討議させることがおかしいのですよ。彼らが無能なのではなく、自分のことは分からないのが当たり前なのですから、然るべき機関を作って討議させるべきなのです。但し、くれぐれも「有識者会議」なんてわけのわからないものは駄目ですよ。

( 2012.02.21 )
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鍵握る高齢者 ・ 小さな小さな物語 ( 370 )

2012-08-01 15:05:26 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
物価が下がり、人口が減り、子供も減って増えるのは高齢者ばかり。
社会保障費は増大を続け、やがて、年金制度も、健康保険制度も破綻する。すでに国民年金の未納率は危機的な状態に達しているとか・・・。


わが国は、本当にこれほど悲惨な状態に陥りかけているのでしょうか。
ギリシャに端を発したユーロ危機は、一つのヤマを越えようとしているそうですが、まだまだ予断を許すことが出来ません。現在の交渉が順調に行ったとしても、ヨーロッパを中心とした金融機関はかなりの負担を強いられるようですし、影響がないと思われたわが国でも、同国の円建て債も安心が出来ず、喪失を強いられる可能性も出ています。
ギリシャより遥かに高い比率の借金を抱えているいるわが国も、いつまでも安泰であるはずがありません。わが国の国債は、その殆どが国内で消化されているから大丈夫だと多くの人が当たり前のように言いますが、本当にそうなのでしょうか。
そんなはずは絶対にありませんよ。借金はどこから借りても借金なのです。返済する気があるならば、サラ金から借りようが、親から借りようが、返済負担は同じなのです。(金利が同じなら)
同時に、返済する気がないのなら、借金ほどすばらしい手段はありません。日本は大丈夫だという理論には、どこかで国の借金をチャラにしても、外国には迷惑をかけませんということが隠されているのではないでしょうか。


だから、「消費税を上げなければならない」というのも、何とも策のない話のように思われます。
5%程度消費税を上げたからといって、わが国の財政は好転などしませんよ。何なら、消費税を50%にしてみたらどうですか、それでも大して好転なんかしませんよ。
今、わが国に必要なのは、所得の増加なのです。働く場所の提供なのです。そのための施策なのです。
そのために最も有効なのは、現在わが国で最も世界に通じる物を売っていくことです。そうです、『円』をどんどん、どんどん売っていくのです。それで得た資産の利益で借金を返済していくのです。


『円』の強さを目一杯利用するのが最善の策だと思うのですが、なかなか実行されそうもないとすれば、ここは、高齢者に頑張ってもらうしかありません。
何もかもが失われていくわが国において、高齢者だけは増大を続けていきます。少なくとも、これからの二、三十年は高齢者がこの国の浮沈の鍵を握っているのです。
「石原新党」が噂されていますが、若造たちに任せておかないで、あの年代の人たちに頑張って欲しいのです。そして、不本意ながら「高齢者」と位置づけられている人たちに活躍の場所を作り出して欲しいのです。「不本意にも高齢者とされている者たちに」生き生きと活躍する場を広げ、欲しい欲しい病を少しでも鎮静化させて欲しいのです。

( 2012.02.24 )


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一票の格差 ・ 小さな小さな物語 ( 371)

2012-08-01 15:03:58 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「赤信号もみんなで渡れば怖くない」という有名なブラックジョークがありますが、有名を通り越して、今は常識の範疇に入ってしまったのでしょうか。
テレビの何かの番組の中で、外国での経験談として、横断歩道を渡っている途中で、信号が点滅から赤に変わったため小走りで渡りきったところ、警察官に捕まって罰金を取られたという話が紹介されていました。
きっと、その国ではそういう法令があり、それに基づいての取り締まりであり処罰であったと思われます。わが国の場合、こういう場合、法令上どうなっているのか知りませんが、少なくとも罰金を課せられたという話は聞いたことがありません。


おそらく、わが国の場合でも、理由はともあれ、赤信号の時に横断歩道上にいることを良しとしてはいないと思うのです。それでも、罰金などと規則張ったことなどすることは国民がゆるさないでしょうよ、きっと。法律なんて、その場その場で、適当に運用するのが良いんですよ・・・。
少なくとも、衆議院議員の先生方はそう思っているのでしょうね。
「だって、そうでしょう。渡りかけた途中で赤になったからといって、そこで止まったり死んだふりするのはかえってまずいでしょう。堂々と歩き続ければいいんですよ。規則なんて適当に運用すればいいんですから」
そんな声が聞こえてくるようです。


衆議院選挙制度改革をめぐる与野党会談は合意に至らず、「衆議院小選挙区の『一票の格差』は異例の「『違憲・違法状態』に陥ることになった」と、多くの新聞が大きく伝えています。
各紙それぞれに問題点を提起していますが、「選挙制度改革」だなんて、とんでもない話ですよ。違法行為を是正するためのものではないのでしょうか。違法行為を行い、且つその状態を続けているということは、これは犯罪ではないのでしょうか。
報道機関は、どうしてその事をもっと厳しく追及しないのでしょうか。


私たちの国は、違法状態で選出された衆議院議員のもとで国政が行われているのです。他国の人権上の問題や、国家指導者の選出方法を云々するのも結構ですが、その前に、自分の国の国会議員を正当に選ぶことの方が大切ではないでしょうか。
「横断途中で信号が赤になっても渡りきるように、いくら違憲状態でも任期中は大きな顔をしていよう」という理論でいいのでしょうか。そして、次回の選挙でも同様のことが行われ、「最高裁には好きなことを言わせておけばいいよ」ということになる予感がします。
社会正義を声高に叫ぶつもりなどありませんが、せめて国会議員ぐらいは、合法的な制度のもとで選出しなければならない、と考える国家になりたいものです。

( 2012.02.27 )
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「平均とは?」 ・ 小さな小さな物語 ( 372 )

2012-08-01 15:02:44 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
大学生の24%が、小学6年生で習う「平均」の考え方を尋ねる問題が分からないなど数学の基礎学力や論理的思考力が十分身についていないことが日本数学会が実施した「大学生数学基本調査」で分かった・・・、と報じられていました。
学力低下がこれほどとは思っていなかったとか、抜本的な対策が必要だという意見もちらほら聞かれました。折から、義務教育においても学力成績によって留年を考えるべきだという意見も一部でささやかれるのではなく、声高に意見が述べられています。もし、そうなるとすれば、体育も同然でしょうから、例えば、「50mを何秒以内で走れない場合」「鉄棒で逆上がりが出来ない場合」なども落第の基準になるのでしょうね。


その「平均」の問題ですが、取り上げられている記事を見ますと、「生徒100人の平均身長が、163.5センチ」から分かることについてという設問に対して、「平均値付近の生徒数の割合が最も多い」、「平均身長より高い生徒と低い生徒は同数」との誤答が相次ぎ、「生徒100人の身長の合計は1万6350センチ」と正当出来たのは、76%だったというものでした。
まあ、この程度の問題でこの正答率はお粗末といえばその通りですが、問題も問題ではないのでしょうか。例えば、「11,22,33の平均を選出せよ」という問題であれば、遥かに高い正答率が出たのではないでしょうか。その数字が10桁のものだとしてもですよ。
別に大学生のフォローをするつもりなどありませんが、これ数学の問題ではなく、読解力の問題ではないのでしょうか。
もしそうだとすれば、大学生の読解力も問題ですが、発言力も読解力ももっと学んで欲しい人たちが、しかるべき立場に嫌というほどいるのではないでしょうかねぇ。


そもそも、「平均とは?」いったい何なんでしょうね。
小学校の子供に算数の勉強として教えることには意味はあるのでしょうが、社会生活においては、学校で習った平均値がそのまま役立つものなど、どれほどあるのでしょうか。
「平均収入」、「平均所帯」、「平均負担額」、等々、これらは、お上が机上で検討する分には意味があるのでしょうが、個々の人々にとってはどれだけの意味があるのでしょうか。平均値で運営される社会は、決して心豊かな社会を生み出すことなどないような気がします。


「豊かさの平均とは?」、「幸せの平均とは?」、「悲しみの平均とは?」、「憎しみの平均とは?」、等々、大学生でなくとも、なかなか正答することの難しい対象が存在しています。
鮮やかに算出し、不満な人には鮮やかに解決方法を示してくれる人がいるような気もするのですが、えてしてそれも危険なことが多いようです。
結局、人生においては、豊かさも、幸せも、喜怒哀楽のどれをとっても、平均値をはじき出しても何の解決にもなりません。苦しくとも、辛くとも、一つ一つ乗り越えていくしかないのかもしれません。

( 2012.03.01 )
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一期一会 ・ 小さな小さな物語 (373 )

2012-08-01 15:01:30 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
最近、江戸文化に関するエッセイ集を読む機会がありました。
江戸文化、それも武家文化のようなものではなく、一般庶民の生活を主体にしたものなのですが、実に幅広い知識を駆使されていて、それでいて、見事なほどに歯切れのよい文章に圧倒され、引き込まれました。
実は、この作者の作品は、かなり以前に何冊か読んだことがあります。それもかなり熱心にです。しかし、ここ数年は全く見ることもなかったのですが、久しぶりの文体がとても懐かしく、感動しました。
しかも、この作者は、数年前に若くして亡くなっていて、訃報のニュースに驚いたことを思い出しながら読んでいきますと、ところどころに、作者が自分の将来を予知しているかの部分が感じられて、感動はひとしおでした。


そして、私は、なぜか『一期一会』という言葉を連想しました。
この言葉は茶道の教えから出た言葉だそうですが、「一生でただこの時だけの出会いだと思って接しなさい」といった意味です。
エッセイの一つ一つに対して、『一期一会』などといえば大げさですが、とても切ない気持になったことは確かです。


たまたまその直後に、一年に一度程度開かれる旧友の集いに参加しました。十数人の集まりですが、かつては相当親しく付き合う機会があった人もいれば、そうでもない人もおりますが、最近では活動の場が違っていて、この集いぐらいしか会う機会のない人たちです。
旧交を温め、ひとときの団欒のための集まりなのですが、今回は、たまたま読んだエッセイ集の影響からか、ここでも『一期一会』という言葉が浮かんできました。


エッセイ集の影響であれ、久しぶりの友人との会話からであれ、『一期一会』という言葉は少々大げさであることには違いありません。
しかし、例えば、今回集まった旧友たちは、それぞれがそれぞれの舞台を懸命に生きているに違いありません。自分の日常を考えますと、懸命かどうかは疑問な点もありますが、誰に任せることも出来ない道を歩き続けていることは確かでしょう。
そしてそれは、離れている友人たちだけがそうなのではなく、身近にいる人たちもまた、その人だけしか解決できない命題を抱えて生きていることも確かなことなのです。
少々気恥ずかしい気持ちもありますが、大切な人との一時には、ほんの少しだけでも『一期一会』の真剣さを抱くべきのように思うのです。

( 2012.03.04 )
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善管注意義務 ・ 小さな小さな物語 ( 374 )

2012-08-01 14:58:52 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「『こども園』法案骨子決定」という見出しが新聞に出ていました。まことにのんびりとした話です。
「待機児童『0』を目指す」などという意見や選挙スローガンを耳にし始めてから久しいと思うのですが、ほんとに本気で取り組んでいるのでしょうか。まあ、「目指す」というスローガンですから、決して嘘を言っているつもりはないのでしょうね。むしろ、あと五年や十年は使える、選挙でおいしいスローガンでしょうから、ぼつぼつ、のんびりとやっていくのが正解なのでしょうね、きっと。


人口減や、少子化対策の一つとして、待機児童の問題がクローズアップされ始めてから久しいのですが、依然解決の目処など見えません。
でも、待機児童の問題は、少子化対策だなどといった大問題に含めてしまう問題ではないと思うのです。少子化が進む社会現象の流れを変えることなど、そうそう簡単なことではないはずです。失礼ながら、政治家が片手間で少々頑張った程度でどうこうなる問題ではないと思うのです。
しかし、待機児童の問題は、家庭経済の問題なのです。個人の生活を守るための問題なのです。「少子化対策の一環として」などというご高説は横に置いておいて、もう少しこの問題だけに取り組めば、それほど難しいことではないと思うのですが、どうなんでしょうか。
やはり、もうしばらくは、選挙スローガンに取っておく必要があるのでしょうか。


「子供は可能な限り親が見るべきだ」という意見も根強くあります。可能であればそうしたいという母親や父親も少なくないことでしょう。しかし、諸般の情勢から、子供を預けて働きに出るという形は、現在だけの現象ではありません。三十年、四十年前でも珍しいことではありませんでした。
その頃は、普通の家庭の主婦が、よその子供を預かるという形態が数多くみられました。最近では、そのような形態をほとんど見なくなりましたが、預ける側預けられる側双方に理由があるそうです。
預ける方は、「ちゃんとした施設で」という希望があり、預る方は、「ちょっとしたことで責任を問われる」のはたまらないからだそうです。
普通の主婦だとしても、善意の管理者としての注意義務が民法により課せられているというのです。
かつては近隣に一人や二人、良くいえば親切な、言葉を換えればお節介な人がいたものですが、「善意の管理者としての注意義務」などという錦の御旗を振りかざされれば、そういう人たちは消えていくしかないのでしょう。


「善管注意義務」を辞書などで調べてみますと、「業務を委託された人の職業や専門家としての能力、社会的地位などから考えて通常期待される注意義務」とあり、「注意義務を怠り、履行遅延、不完全履行、履行不能などに至る場合は、民法上の過失があるとみなされ、状況に応じて損害賠償や契約解除などが可能となる」とあります。
法律的なことはよく分かりませんが、明石市での花火大会での事故にたいする警察幹部や、JR西日本の大事故で経営トップが責任を問われているのは、その結果はともかくとして、「善管注意義務」が果たせておらず、さらにそれ以上に刑事上の責任もあると疑われていたのでしょうね。
そういえば、原子力災害に対する東電や関係官庁や政治指導者の初期対応に対する調査が行われ、予想していたことですが、相当ひどいものだったようです。「善管注意義務」どころか、積極的に足を引っ張っている部分もあるようですが、当然彼らも、然るべき罪に問われるのでしょうね。
但し、わが国が法治国家だとすればの話ですが。

( 2012.03.07 )
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